医学界新聞

連載

2007.01.08

 

〔連載〕
感染症Up-to-date
ジュネーブの窓から

第15回 狂犬病雑感

砂川富正(国立感染症研究所感染症情報センター)


前回よりつづく

はじめに

 あれは一昨年(2005年)7月,ポリオ対策でインドネシアに滞在していたときのことである。スラベシ島北部の浜辺の一軒家で休憩をしていた一同であったが,ヤシの木陰で汗を拭いていた筆者の足元に,痩せた子犬がおどおどと近寄ってきた。筆者はつい頭をなでようと手を伸ばしかけた。それを見て,地元の保健所の人が慌てて飛んで来て,その子犬を追い払った。「狂犬病に罹った犬かもしれない」。言われてよく見ると,確かに犬はふらついており,毛並みは悪く,目の光具合も鈍く,よだれを垂らした様子はどことなく病気のように見えた。

 地域では年に数百もの犬咬傷があり,曝露後の狂犬病ワクチン接種をできるだけ実施しているものの,狂犬病の発症者が少なからずいるという。その子犬は辺りをうろつき回った後とぼとぼと去ったが,筆者は感染症対策に従事する者として自分の不明を深く恥じた。それまで狂犬病の情報は,聞いてもどこか他人事であった。しかし,日本以外の多くの国々では,狂犬病はありふれた,しかし,地域住民の健康を脅かす重要な感染症なのである。今夏,そのインドネシアのEast Nusa Tenggara州に滞在した折,同州のある地域で1週間に44人が狂犬病で死亡したとの情報を聞いて青くなったことを今でも覚えている。

狂犬病の国際的位置づけ

 世界中のアウトブレイク情報を収集する中で,狂犬病は比較的目にすることの多い感染症の一つである。国立感染症研究所感染症情報センターホームページより感染症の話『狂犬病』の項(URL=http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k03/k03_18/k03_18.html)を参照すると,全世界で毎年3万5000-5万人が狂犬病によって死亡している(WHO),とされる。旅行者の渡航に際して注意すべき感染症として,すなわち旅行医学の分野で狂犬病はきわめて重要な位置を占めていると言えるだろう。

 しかし,狂犬病がいわゆるIHR2005(2005年改訂版国際保健規則)に規定された『Public Health Emergency of International Concern(PHEIC:国際的な懸念を有する公衆衛生上の緊急事態)』に該当する感染症かと言えば,現状はそうではないと思われる。今後の疫学的知見の集積などによっても変わることはあり得るが,あくまで狂犬病はウイルスの浸淫地域にて発生するローカルな感染症と見なされている。例外としては,2005年初旬にもドイツで見出されたような臓器移植を介した狂犬病ウイルス感染が,国際的な拡がりを持って発生するような場合であろう。いずれにせよ,狂犬病は一般の日本人にはとにかく馴染みが薄く,驚くような発生の仕方をする事例が多い。二つの例を紹介する。

南米・中国における狂犬病のアウトブレイク

 南米では,森林に住む吸血コウモリ(Desmodus rotundus)が睡眠中のウシを歯で傷つけ血液を舐め取る際,ウシに狂犬病を感染伝播させることがある。吸血コウモリによる家畜の狂犬病は散発的な経済的被害を及ぼしてきたが,2005年にブラジル北部のPara州で報告されたヒト感染事例では,実に21人の住民が狂犬病を発症し死亡した。これら全員が,脳炎症状発症前数週間から数か月前に,吸血コウモリによる直接の咬傷があったと報告されている(URL=http://www.cdc.gov/ncidod/eid/vol12no08/pdfs/05-0929.pdf)。アマゾンの森林破壊が,コウモリの行動パターンを変化させた可能性があることがメディアで言及された。多くは辺境である,これら狂犬病患者発生地域への長期滞在予定者はワクチン接種を考慮するべきであり,動物による咬傷の可能性がある場合に,アマゾンなどの地域からの帰国者であれば,直ちに曝露後予防(ワクチン接種)に関する検討をされるべきであろう。

 日本...

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