医学界新聞

看護のアジェンダ

連載 井部 俊子

2020.10.26



看護のアジェンダ
 看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第190回〉
キャリアから抽出したエキス

井部 俊子
長野保健医療大学教授
聖路加国際大学名誉教授


前回よりつづく

 コロナ禍で2020年度のオープンキャンパスは「非登校型・Web形式」で行われてきた。8月と9月は「登校型」とし,事前予約制,午前・午後の2部形式として感染対策を行った上で開催された。オープンキャンパスで来場者が関心を持つのは学生たちの説明であるが,それもやめにして,大学の教職員だけでオープンキャンパスを行った。

 9月のオープンキャンパスで,私は30分の特別講演を引き受けた(午前と午後の2回講演である)。いろいろ考えた末,「医療人として仕事をするということ――私のキャリアからのメッセージ」と題した。

私のキャリア

 私は看護系大学を卒業したあと,あまり就職活動もせずに「病院」に就職した。配属された外科病棟で臨床看護師として楽しくはずむように仕事をした(と思い返している)。臨床ナースとしての“修業”だけでなく,当時のおもしろい同僚たちの中でその後の人生の基盤になる多くの知恵を教わった。

 自分より年上の,人生の達人であった医師たちは,教養豊かで寛容であった。医師Mは競馬のファンであり,私に競走馬の美しさから馬券の買い方まで幅広く教授してくれた。今は消滅しているが,有楽町にあった日劇ミュージックホールに団体で行き,“華麗なダンサー”たちを愛でたこともあった。今も思い出すのだが,医師Mは3月のある朝,ゆったりと病棟に現れ,「やあ,今日は啓蟄の日ですよ」と言った。私はそれで,啓蟄という言葉は経腟分娩のケイチツではなく,冬ごもりの虫がはい出ることだと知った。

 私の18年間の病院看護師としての勤務は,ヒラの看護師から主任,師長(当時は婦長)と,管理を担うことへと急速に変化していった。知識の枯渇を感じた私は途中「休職」して2年間,大学院看護学研究科修士課程に進学した。週末に夜勤婦長をして収入を得て社会保険料を支払った。修士課程を終えて職場に戻ると内科病棟婦長を命じられた。外科系看護師と内科系看護師の気質の違いがよくわかった。修士課程で学んだ私は現実がよくみえるようになり,自由闊達な病棟作りに励んだ。

 しかし,中間管理者の職権に限界を感じた私は退職を決意し,大学教育の場に身を移し,開講して2年目の看護学部の講師となった。臨床から教育へとスイッチを切り換えた。談論風発の職場は,私に教育者としての在り方を教えてくれた。実習指導という経験は,私の実習指導論の構築に十分な機会をもたらした。

 「看護管理」という分野に未練があった私が次に選んだのは,大学院看護学研究科博士課程であった。2度目の大学院生は休職ではなく,もっぱら学生となった。アルバイトでお世話になった老人病院で認知症の世界を体験しケアの在り方を模索した。

 「もっぱら大学院生」は3年間で切り上げ,再就職したのが45歳の時であった。看護部長・副院長として臨床現場に戻った。自分の中では8年のつもりであった(当時のクリントン米国大統領の任期に合わせた)。しかし,職位の魅力に引きずられ,結局10年間在籍した。

 中間管理者ではできなかったことが,看護部長になるとやろうと思えばできた。看護部組織を逆ピラミッド型にし,ラインアンドスタッフ組織を確立した。スタッフ機能としてリソースナースを位置付けた。当時の資料をみると,皮膚・排泄ケア認定看護師,精神看護専門看護師,感染管理認定看護師,がん看護専門看護師,呼吸ケアナース,腹膜透析(PD)ナース,治験コーディネーター,糖尿病療養指導士,集中ケア認定看護師,ディスチャージ・プランナーがいた。彼らはケア検討会を組織しリーダーとなった。キャリア開発ラダーを用いた同僚評価と人材育成を積極的に行った。看護管理者は任命ではなく自薦・他薦方式とした。

 看護部長時代には日本看護協会という巨大職能組織の副会長・監事を通算16年務めた。国の審議会や検討会に出席して意見を述べるという機会は私にとって挑戦の連続であった。ここで,自己効力感を培い,度胸をつけ多くの知己を得た。課題であった博士論文を仕上げ博士課程を修了した。

ようこそ,人々のケアを仕事とする豊かな世界へ

 看護管理者に終止符をうち次に選択したのは,再び大学教育の場であった。厳密にいうと教授・学長という「大学マネジメント」の仕事である。大学院生の研究論文作成にかかわる濃密な時間は新たな経験であった。相手の知的水準だけでなく生き方がまるごとわかる濃密さである。まさに体当たりである。大学マネジメントと並行して,看護系学会等社会保険連合(看保連)の代表理事として,診療報酬・介護報酬改定に関与する組織基盤をつくり,私立看護系大学協会の会長も務めた。

 定年で大学を退き,個人のオフィスを作った。コンサルテーション活動をしようと考えたからである。ところがその前に,新設の看護学部を立ち上げ看護学部長として,再び大学教育とマネジメントを引き受けることになり今に至っている。

 私のキャリアの記述に紙面を費やしてしまったが,私の看護師としてのキャリアから抽出したエキスは以下の5点である。

1)医療人として仕事をすることは,好奇心を刺激し飽きることはない。
2)その気になれば,無職になることはない。無限にキャリア開発ができる(看護職の免許は保健師・助産師・看護師・准看護師の4種類であるが,多様な「資格」がある)。
3)職業から自分の人生哲学という最大の報酬が得られる。
4)知行合一(ちこうごういつ)(知識と行動とは一体のものでどちらが先立つとは言えない,とする王陽明の説)である。看護学は実践の科学である。

 「知行合一」は,西部邁の著書『妻と僕――寓話と化す我らの死』(飛鳥新社,2008年)で知った。著者は妻の死への接近において次のように記述する。「彼女の身体の深部を苛(さいな)んでいるに違いない苦痛を緩(やわら)げてやるには,また彼女の心理の根底に穴を穿(うが)ちはじめていること必定の不安を軽くしてやるには,実際どうすればよいのか,途方に暮れることが多いのです。(中略)妻の面倒も看られないというのでは,僕の行ってきた言論は無意味もいいところだ,と言わねばなりますまい」。筆者はここで中江藤樹(江戸初期の儒者)の「学問とは母親の面倒を看ることだ」を引用する。私はこの一節に出合ったとき戦慄を覚えた。自分はどうだったのかと。

 そして,最後のエキスは,

5)看護の世界は「正解」がなく,グレーゾーンを歩むことが多い。

ということである。

 しかし,だからこそ,私は「ようこそ,人々のケアを仕事とする豊かな世界に招きたい」と講演を締めくくった。

つづく

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