医学書院

検索
HOME週刊医学界新聞 > 第3354号 2020年01月13日



第3354号 2020年1月13日


【新春企画】

♪In My Resident Life♪
本気の失敗をしよう!


 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。同期や先輩と自分を比べて沈んだ気持ちになったり,患者・家族や同僚とのbad communicationに陥ったり,失敗ばかりの日々で「医師は自分には向いていない」と思ってしまってはいないでしょうか。でも,全力で取り組んだ結果の「本気の失敗」には価値があるのだと,マンガ『宇宙兄弟』(講談社)主人公・南波六太は言っています。皆さんの,いい医師をめざして努力した末の「本気の失敗」には,成功体験にも劣らない価値があるはずです。

 新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れ得ぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

赤井 靖宏 木戸 道子 柳井 真知
山上  浩 中島  啓 勝野 雅央


迷うことなく胸骨殴打⇒患者「何すんのあんた!」

赤井 靖宏(奈良県立医科大学地域医療学講座教授)


研修医時代の“アンチ武勇伝”:研修医時代(正確には3年目でしたが)の恥ずかしい話は,救急科研修中に起こった。その頃は救急に燃えていてかなり血気盛んであった。

 ある日,救急観察室の心電図モニターを見ると,なんと心室頻拍(VT)になっているではないか! 「VTにまずは胸骨殴打」と教えられていた私は,迷うことなくベッドサイドに急行し,胸骨殴打した。正しいでしょ。

 ところがその途端,VTになったはずの中年の女性患者さんが「何すんのあんた!」と飛び起きた。なんとVTに酷似したモニター波形は患者さんの体動による波形変化であった。意識やバイタル・サインを確認することなく胸骨殴打した私の大チョンボで,患者さんに平謝りし,事情を説明して許していただいた。あまりの凡ミスに落ち込む私に,指導医の先生が,「あの波形見て取った行動としては間違ってなかったけどな」と慰めてくれた。

 いまだに,このことを思い出すとあの女性患者さんの叫びが聞こえてきて恥ずかしくなる。考えないようにしていたのに,この特集でまた思い出してしまった。ああ,恥ずかしい。

研修医時代の忘れ得ぬ出会い:忘れ得ぬ先生やお世話になった先生は幾多おられるが,その中でも当時米トマス・ジェファソン大の内科プログラム・ディレクターを務めておられたThomas Nasca先生との出会いは忘れられない。エクスターンシップ生として同大に3週間ほど行った際に, Nasca先生が偶然attending(指導医)であった。Nasca先生は,腎臓内科はもとより内科全般にも精通しており,3週間で多くのことを学ばせていただき,いい経験ができたと帰国した。本音は米国で臨床研修をしたかったが,3週間のエクスターンシップでは無理だと思った。当時日本から臨床研修に来ている多くの医師は数か月以上のエクスターンシップを経験していた場合が多かった。ところがNasca先生が,そんな短期間のエクスターンシップしか経験していない私でも臨床研修の面接に来てよいと言ってくださった。まさに,Nasca先生が,私が米国で臨床研修をするきっかけを作ってくださった。

 Nasca先生は長身でかっこいい先生であるが(今でも),手も大きくて,握手すると手がぐっと包まれるだけでなく,私の全てが包み込まれるような,吸い込まれるような感じになった。あんなことはNasca先生以外では経験したことがない。実際に米国で研修が始まってからも英語や臨床システムに四苦八苦する私にいつも笑顔で「何とかなるよ」と励ましてくださった。そしていつも握手すると全身が包まれたような感じになり,Nasca先生に吸い込まれそうになる。

 Nasca先生はその後,全米の臨床研修を統括するACGME(Accreditation Council for Graduate Medical Education,米国卒後医学教育認定評議会)のリーダーに就任された。数年前にお会いしたが,握手するとやっぱり吸い込まれそうになった。皆さん,こんな経験ありますか? いつかNasca先生のようになりたいと思っているが,全くなれていない。

研修医・医学生へのメッセージ:医学生・研修医時代は,まさにこれからのポテンシャルを芽生えさせる時期です。勉強会や飲み会に,自分の時間を削ってまで参加しない皆さんが今は増えています。でもそう言わずに,世代の違う先生方のいろいろな話を聞いてみてください。頼まれたら断らず,何でもやってみてください。断らずに快く仕事していると,いろいろな経験ができます。その経験は40歳を過ぎると生きてきます。「田舎で働くのはいや」とか言っている学生や研修医に会うと,「そんなこと言わずに。いろいろ経験できるのは今だけだよ。」といつも思います。


「おなかの子はなかったことにしてほしい」にひるむ

木戸 道子(日本赤十字社医療センター第一産婦人科部長)


研修医時代の“アンチ武勇伝”:卒後半年で大学より長野赤十字病院へ異動。赴任当日に「卵巣囊腫茎捻転の患者が救急に来た。お前がルンバールして執刀しろ」。ワクワクドキドキの研修生活が始まった。

 帝王切開の初執刀症例はなんと「全前置胎盤」。5年目の先輩と2人で自科麻酔にて手術を行った。出血がずいぶん多く感じたが単に不慣れなためと思った。幸い輸血することなく終わったが,当時は前置胎盤の怖さが(実は先輩も)よくわかっていなかった。とはいえ一歩間違えれば命の瀬戸際だったと思うと,今振り返ると背筋が凍る。

 別の日に一人で分娩室の番をしていると,胎児心拍が徐脈になり回復せず,先輩の応援を待つ時間的余裕はない。看護師長さんに「先生しかいないんだから」と鉗子を渡された。「左葉入れて」「もう少し手前に」と言われるがまま,鉗子を引く羽目に。元気な産声を聞くまでは生きた心地がしなかった。

 部下に何事も潔く任せ,いざというときは「どんな出血でも俺が止めてやる」と悠然と現れる当時のボスに憧れた。その姿は自分にとっていまだ届かない大きな目標であり続けている。

研修医時代の忘れ得ぬ出会い:一人で当直中に未受診妊婦が来院。胎児仮死で緊急帝王切開が必要な状況だったが,「おなかの子は元彼の子なので,なかったことにしてほしい。救命しないで,帝王切開なんか嫌」と言い出した。一瞬ひるんだ私を見て,助産師が「先生,赤十字はどんなときでも誰であっても助けなきゃ」と声を掛けてくれた。辛抱強く同意を得て帝王切開で児は無事に生まれたが,乳児院に入所することになった。目のぱっちりした,かわいい男の子だった。

 未受診妊婦に遭遇するたびに,あの子はどんな人生を歩んでいるのだろうかと思う。もう30歳を過ぎたあの子も,今,目の前にいる新生児も,幸せに暮らしていけることを願う。産科医の仕事はしんどさばかりが強調されるが,人生のスタートに立ち会える,幸せで誇り高い職業である。

 他にも温かい出会いは多かった。外来や手術が終わって遅くに病棟回診に行くと,紙に包んだお煎餅などを握らせてくれた手のぬくもり。東京に戻ると決まったとき,十数人の患者さんたちが集まって開いてくれたお別れ会。短期間のローテーションでは得られない,臨床医の原点を学んだ2年半の長野での研修生活であった。

あのころを思い出す曲:「君の瞳に恋してる」(Boys Town Gang)。社会はバブル期。できることが日々増えて心弾むような毎日だった。

研修医・医学生へのメッセージ:そこそこ満足できる生活,安定した身分,なるべくリスクは取らない,波風を立てないなど,守りに入ってしまいがちである。ただ,安全圏に閉じこもっていれば大きな飛躍のチャンスもなく,成長も見込めない。

 医療を取り巻く社会は大きく変わっていく。目先のことだけにとらわれず,生涯を懸ける大きな夢を持とう。つらいことがあったとき,へこんでしまうか,それを糧にして伸びていけるかは自分次第である。迷ったときは,何がやりたくて医師をめざしたか,そのときの思いに立ち戻ってみるとよい。一度しかない人生,小さくまとまってしまうのはもったいない。

写真 産後のママと赤ちゃんと一緒に記念撮影。中央が木戸氏。「ナースキャップが懐かしい」。(木戸氏)


死亡確認をするも「お母さんは死んでない!」

柳井 真知(神戸市立医療センター中央市民病院救命救急センター医長)


研修医時代の“アンチ武勇伝”:循環器内科をローテーションした研修医時代のことです。指導医と共に,心不全の入院患者さんの主治医になりました。研修医の務めとして,付き添っていた女性にまずは挨拶を。

「ええと,奥さまですね。主治医となった研修医の柳井です。よろしくお願いします」

 一瞬,女性の表情が微妙に動いた気がしました。説明を終えて詰め所に戻った私に看護師さんがぼそっと一言。「先生,あの人,奥さんじゃなくて娘さんですよ」。えー!!! 今更訂正しに行くわけにもいきません。後の祭りです。最初に確認すればよかった……。

 夕方,指導医に報告しました。「今日,あの患者さんの娘さんを,奥さんと間違えてしまいました」。指導医の言葉に今度は私が驚く番でした。「え。僕も今日,あの女性に対して,奥さんですねって言っちゃって,いや娘ですって訂正されて,冷や汗をかいたんだよ」。

 幸い患者さんの経過は順調だったのでよかったものの,医師・患者家族の間になんとなく気まずい空気が流れ続けたのは言うまでもありません。

 患者さんの取り違えによる重大事故が繰り返された結果,患者名はいろいろな手段で確認することが今は常識です。しかし患者さんの家族に対しては,関係を確認する意識はまだ低いかもしれません。私もこの出来事以降は,まずは関係を確認する。あるいは,女性の場合は特に,しらじらしくても,たぶん違うだろうなと思っても,若いほうを選択する,つまり配偶者っぽく見えても「娘さんですか?」とまずは聞く。をモットーとしています。

研修医時代の忘れ得ぬ出会い:心肺停止で運ばれ,死亡確認をしたにもかかわらず,「お母さんは死んでない!」と叫んで胸骨圧迫を続けた中年男性。管理当直師長や管理当直部長に,到着した親族も加わって一生懸命止めようとしましたが聞いてもらえませんでした。救急専攻医(後期研修医)1年目での当直が始まったばかりの出来事だったので,自分がペーペーだから信用してもらえなかったのだろうと反省しかありませんでした。自分の親が高齢者の仲間入りをしつつある現在,あの男性もお母さんへのさまざまな思いがあったのだろうなあと想像を巡らす,今でも忘れられない患者さん家族です。

あのころを思い出す曲:それほど音楽に思い入れがないのと,特に初期研修医時代は忙し過ぎて文化的生活から遠ざかっていたのもあり,思い浮かぶ曲がありません……。研修医時代でなくてよいなら,映画『ラ・ラ・ランド』劇中歌「Another Day of Sun」は,まぶしい太陽の下,酸いも甘いも経験した米ロサンゼルス留学生活を思い出して胸が熱くなります。

研修医・医学生へのメッセージ:今のしんどさはかならず未来の喜びにつながります。どんな経験も無駄なことと思わず受け止め,挑戦してください。そして,医療以外の領域の人とたくさん出会い,異なる世界を知るチャンスを逃さないでください。垣根のない出会いや経験があなたを成長させ,悩んだときの道しるべになってくれるはずです。人生に余計な出来事など何一つありません。

写真 「後期研修医のとき,同僚の結婚式にて,当時の救命センターの面々と」(柳井氏)。後列右が柳井氏。


電話で暴言,やっちまった~

山上 浩(湘南鎌倉総合病院救命救急センター長)


研修医時代の“アンチ武勇伝”:初期研修医時代,糖尿病でかかりつけの40歳代男性が胸痛を訴え夕方に救急搬送された。心電図はII-III-aVFでST上昇を認め,胸部X線で縦隔の拡大も認めなかったため急性心筋梗塞と診断し,覚えたてのMONA(モルヒネ,酸素,硝酸薬,アスピリン)を投与しつつ循環器医をコール,緊急カテーテル治療となった。が,急性大動脈解離Stanford A型に伴った心筋梗塞であり,その日の夜中に緊急手術となってしまった。正しい診断を付けられなかったことで患者にはもちろんのこと,心臓血管外科や手術室スタッフなど多くの方に迷惑を掛けてしまった。せめてもの償いで手術には立ち会わせてもらい,自分の糧とさせていただいた。

 失敗したことがない臨床医はいない。大切なのは自分の失敗を認め,失敗から何を学ぶか,それを自分だけではなく多くの仲間と共有し繰り返さないようにすることであろう。

 救急医として駆け出しの後期研修中,他科医師へ電話でコンサルトした時,患者のことで激しく口論となり(私が一方的に)暴言を吐いてしまった。重箱の隅をつつくような相手の指摘に対し,自分の正義を通さねばという思いから引き下がれなかった。電話を切った直後から「あ~やっちまった~」と後悔の念しかなかった。数時間,頭を冷やしてから,今度は電話ではなく相手に直接会いに行き,謝罪した。

 まだ若かった。社会人にもなってキレてしまったが,自分の正義を相手にぶつけることが正しいことと信じていた。でも自分の正義が相手の正義とは限らない。いろんな人がいる。いろんな人がいていい。口論して得るものは? 自分のストレス発散? 議論で相手を負かすこと? 結局自分が得たものは後悔でしかなかった。指導医からも「ケンカをすると結局自分が嫌な気持ちになるんだよね」と言われた。

 直接話をすれば険悪にならないことが多いと思う。それからは,できる限り直接話をする,電話やメールでは極力議論しないように気を付けている。

研修医時代の忘れ得ぬ出会い:医師2年目から内科医として京都府舞鶴市の病院へ赴任した。内科系は循環器科と内科の2科しかなく,心臓カテーテル検査適応患者以外はほぼ内科が担当するという総合内科医としての勤務であった。担当患者も多く,疾患は多岐にわたる。自分の患者に何かあれば,当直明けだろうが日曜だろうが24時間365日オンコールで容赦なく呼び出された。

 そんな激務の中,内科指導医の湯地雄一郎先生(舞鶴共済病院総合内科部長)の回診風景に驚嘆した。湯地先生は多忙な中,回診でベッドに腰掛けて患者の声に耳を傾けていた。自分の仕事だけではなく若手の指導もしなければならない非常に大変な状況でだ。「なんだそんなことか」と思われるかもしれないが,恥ずかしながら私の大学病院での研修時代,回診で座る指導医を見たことがなく,自分も立ちっぱなしで患者にいつも上から目線だった。医師の仕事とは何か,どうあるべきか,2年目という若い時期にこのような指導医に出会えたことは私の幸せである。

あのころを思い出す曲:「恋をしちゃいました!」(タンポポ)。研修医1年目,医局の忘年会でナース服を着て完璧に踊りました!

研修医・医学生へのメッセージ:やりたいことは変わる,変わっていい。どの科に進むかは重要ですがそれで一生が決まるわけではありません。私は循環器科医をめざして入局し,今は救急の道を歩んでいます。自分のやる気さえあれば,科の変更は回り道になりません。何をやりたいかより何をやらなければならないのかを考えることが大切です。やりたいことをやることが自分の幸せではなく,人の役に立って必要とされる存在になることが回り回って自分の幸せになると思います。

写真 (左)専攻医として赴任した離島にて。(右)舞鶴で内科医だった時。小・中・大学と同期だった友人と(右が山上氏)。


毎日1ミリでも進めば御の字

中島 啓(亀田総合病院呼吸器内科部長)


研修医時代の“アンチ武勇伝”:研修医時代のことを話す前に,私は大学時代に既に挫折をしているので,大学時代のことから話します。私は,大学時代は,趣味でダンスやDJに熱中していたので,正直成績は良くなかったです。進学校から医学部に何となく進学したので,入学後に医師としての方向性に迷い,大学4年の途中から,1年間大学を休みました。最初の半年はアルバイトや読書をしたり,人に会って話を聞いたりして,後半4か月ほど米国へ語学留学に行きました。語学留学とは言っても友人と,米国の旧国道であるルート66を2週間かけてドライブして米国を横断し,途中のサンタフェという街でホームステイ先を見つけるという無計画な旅でした。この1年間の中で,知り合いから紹介された故・日野原重明先生の『生き方上手』(ユーリーグ社)という本を読み,「臨床・教育・臨床研究ができて,患者さんの心も体も含めて全身を診る医師になろう」と決意しました。

 大学時代の成績は良くなかったので,初期研修先の選択においても,関東の有名病院は受験せず,地元で古くから臨床研修を行っていた聖マリア病院を選びました。筆記試験には自信がなかったものの,面接試験だけなら何とかなると期待して採用試験を受けたところ合格しました。

 その後,初期研修が始まりましたが,学生時代勉強していなかったことも影響し,苦労しました。私は,手先が不器用なので,初期研修1年目の外科ローテーションの時は,挫折を経験し,「医師を辞めたい」と思う日々が続きました。今思えば「うつ」に近い状態だったと思います。でもその時,私が1年間大学を休んだ経緯を知る先輩から,「まず3か月だけで良いから,毎日1ミリでも進めば御の字と思って,続けてみなさい。それでもダメだと思ったら辞めたらいい」と言われました。3か月間,とにかく1日を乗り越えることだけを考えて業務を続けたところ,いつの間にかスランプを乗り越えました。

 その後,医師4年目から亀田総合病院に異動し,そこでも周囲の先生の優秀さに圧倒されて,苦しい時期を経験しました。しかし,「住めば都」と言うもので,医師6年目からは,診療に関するストレスがだいぶ減ったのを覚えています。

 そうして現在に至りますが,自分のような人間が医師を14年間も続けてこられたことが奇跡です。なので,自分の経験を通して,「どんな人にも無限の潜在能力がある」と私は信じています。

研修医時代の忘れ得ぬ出会い:福田賢治先生(聖マリア病院脳神経センター長)。初期研修医2年目に脳血管内科で研修をしました。福田先生は,高い内科マインドをもっており,脳梗塞などの神経疾患を通して,心臓・血管,肺から腎臓まで全臓器を診るというスタンスで診療されていました。プロブレムリストを漏れなく挙げて,鑑別診断に「%」で重み付けを行うという診断学に関する徹底した教育をされていました。福田先生に内科医としての基本的な姿勢を教えてもらいました。

あのころを思い出す曲:学生時代に,ダンスやDJに熱中していたので,ダンスミュージックが好きでした。初期研修医時代は,m-floの「COSMICOLOR」というアルバムをよく聴いていました。趣味としてサーフィンを始めていたので,休みの日には,車の中で「Summer Time Love」を聴きながら,夏の海沿いをドライブしていたのを記憶しています。

研修医・医学生へのメッセージ:私は,初期研修の最初の2年間だけで,その後の全てが決まるとは思っていません。それよりも,たとえ最初は上手くいかなくても,目標を持って継続的に学び続けることが大事だと思います。

 既に述べたように,「全ての人は無限の潜在能力を持つ」と私は信じています。その潜在能力を開花させるために大切なことは,志を持つことに尽きると思います。志を持つには,自分が好きなことや得意なことの中で,周囲の人の役に立つこと,世の中の役に立つことを考えましょう。志は,人生の羅針盤となり,素晴らしい出会いや場所に自分を導いてくれると思います。


手を痛くしながらカルテを書き散らす

勝野 雅央(名古屋大学大学院医学系研究科神経内科学教授)


研修医時代の“アンチ武勇伝”:私は名古屋第二赤十字病院で研修しました。私が研修医だった時代に電子カルテは無く,カルテは全て手書きの紙カルテでした。来る日も来る日も患者を回診してはSOAPでカルテを書きまくり,書いたことで満足する日々でした。特に興味があった神経内科の患者さんの所見はできるだけ詳しく書いて,診断が付いていない場合には思い付くだけたくさんの鑑別診断を挙げる,それが私にとってのカルテでした。

 主治医が先にカルテを書いてしまうと,自分が書くことがなくなってしまうと思い,毎日主治医よりもできるだけ早くカルテを書いていました。

 ところが,研修を始めて半年ほどもすると,カルテは書けばいいというものではない,ということに気付くようになりました。自分が書いた長文のカルテ記録のすぐ後に主治医や上級医が記載した短い文章に,重要な考察や方針が見事に言い表されているのに気付いたからです。おそらく当時の私は,たくさんカルテを書くことで自分の頭の中を整理しようと思っていたのですが,実際には整理できておらず,ただただ書き散らすという状態でした。それに引き換え,主治医の記載は見事にポイントが絞られており,無駄のないものでした。しっかり考えてからカルテを書く,ということの重要性に気付かされたのです。

 とはいえ,そのスキルを身につけるのは容易ではありませんでした。電子カルテであれば編集しながら記録が書けますが,手書きだとそうはいきません。研修医時代は,「どうしたら簡潔で過不足のないスマートなカルテ記録が書けるか」と試行錯誤していました。今なお,スマートな記録を書くのは得意ではありませんが,あの頃に比べたら,多少は簡潔な記載ができるようになったのではないかと思います。そういう意味では,手が痛くなりながらカルテを書いていた時間は無駄ではなかったのではないかと感じます。

研修医時代の忘れ得ぬ出会い:名古屋第二赤十字病院では数多くの先生方に教えていただきました。その中からあえて一人の先生との出会いを挙げるとすれば,私が研修医や若手スタッフ医師だった時代に神経内科の部長をされていた安藤哲朗先生(現・安城更生病院副院長)です。安藤先生の部長回診は鮮やかでかつ示唆に富んでおり,神経内科の面白さが凝縮されていました。神経診察から病状説明,他科との連携など,安藤先生に教えてもらったことが今でも私の診療の基盤になっています。

 カルテについてももちろん例外ではありません。その当時の紙カルテは医師記録,検査結果,経過表,看護記録といった順番で構成されていました。安藤先生からは「カルテは後ろから読む」と教えていただきました。看護記録を読むことで患者さんの一日の状態をよく把握し,それから経過や検査結果を見て,最後に自分の記録を書くということです。そのようにカルテを読んでみると,自分が患者さんと接しているのは一日のうち限られた時間だけなのだということがよくわかります。この教えは,カルテが電子化された今も私の診療に生きています。

あのころを思い出す曲:B’zの「BAD COMMUNICATION」。職場の二次会,三次会でカラオケに行くと,研修医の友人とよくハモりました。患者さんやスタッフとはGood Communicationであったと思いますが。

研修医・医学生へのメッセージ:スポーツと同じで,優秀な医師ほど診察に無駄がなくスマートなのですが,そこに行きつくには誰しも試行錯誤が必要です。研修医のうちはたくさん診察し,たくさん書き,たくさん考えてください。