医学界新聞

連載

2011.03.28

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第194回

アウトブレイク(9)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2920号よりつづく

 第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの肖像が10セント硬貨(別名「ダイム」)に刻まれるようになったのは,その死の翌年,1946年のことだった。大恐慌・第二次世界大戦という二度の「国難」に際して国を導いた功績が称えられたのは言うまでもないが,その肖像を飾る通貨としてダイムが選ばれるに当たっては20世紀前半の米国で最も恐れられた感染症ポリオとの因縁があったので,説明しよう。

F・ルーズベルトとポリオ

 米国はじめ先進国でポリオが流行するようになったのは,19世紀末以降のことである。ポリオウイルスは古代から病原体として存在していたにもかかわらず大規模な流行が発生しなかったのは,近・現代以前は衛生環境がよくなかったことが幸いして,ほとんどの人が乳児期(それも母親からの受動免疫で保護されている時期)に自然感染することで免疫を獲得していたからと考えられている。

 ところが,19世紀後半以降衛生状態が改善するとともに乳児期に感染する機会も激減,免疫を獲得しないまま感染して発病するケースが激増したのである。かくしてポリオは20世紀の「新しい」感染症となったのだが,感染した場合,率は低いとはいえ,四肢や呼吸筋の麻痺という重篤な結果を招来し得るために,人々から恐れられた。

 しかも,当初は,病原体の本態や感染様式が解明されていなかったこともあり,流行のたびにパニック,あるいはパニックに準ずる状況が出来した。患者の隔離・検疫・消毒・殺虫剤散布など,他の感染症で有効だったありとあらゆる手段が試みられたにもかかわらず流行を防ぐことはできず,米国民の恐怖はさらに募った。1920年代末に陰圧式人工呼吸器「鉄の肺」が発明されて救命されるケースが増えたものの国民の恐怖感を和らげるには至らず,50年代初めに行われたある調査によると,ポリオの恐ろしさは原爆のそれに次ぐ第二位にランクされるまでになったのだった。

 米国民を恐れおののかせたポリオに対する闘いの先頭に立ったのがルーズベルトだった。彼自身,1921年,39歳でポリオに罹患,車いす生活を余儀なくされていただけに,ポリオに対する敵対心は格別強かったのである(註1)。1927年,ジョージア州の温泉保養地ウォーム・スプリンにポリオの患児たちのためのリハビリ施設を設立したことは拙著『アメリカ医療の光と影』(医学書院刊)でも述べたとおりだが,ルーズベルトはこの施設の活動資金を調達するための財団も設立,同僚弁護士のバシル・オコーナーにその運営を依頼した。

マーチ・オブ・ダイムズ

 やがてこの財団が「全米小児麻痺研究基金」へと発展するのだが,オコーナーは,1932年にルーズベルトが大統領に当選した後,ポリオ患者支援および研究推進のための寄付集めに一層突き進んだ。しかし,大恐慌の直後とあって,慈善活動のための高額寄付を募ることは難しかった。そこで,オコーナーは,マスメディアを駆使することで「広く浅く」寄付を募る戦略を採用,ハリウッドのスターたちの協力を得てラジオや映画館上映用のコマーシャルを作成すると,国民に対し「ポリオの研究を推進するためにホワイトハウスに10セント硬貨を送ってください」と訴えたのだった(註2)。

 オコーナーが始めた募金運動は,その後,10セント硬貨の別名にあやかって「マーチ・オブ・ダイムズ」と呼ばれるようになった。もともとポリオに対する国民の恐怖感は強かった上にマスメディアを駆使する作戦が大成功,マーチ・オブ・ダイムズは全米的国民運動へと発展した。ルーズベルトは,いわばその「顔」としての役割を担ったし,死後その肖像が刻まれる対象として,ダイムほどふさわしい硬貨はなかったのである。

 かくしてマーチ・オブ・ダイムズは巨額の募金を集めることに成功,ポリオ研究を前進させる原動力となった(註3)のであるが,オコーナーが最も力を入れて支援した研究が,ワクチン開発であったのは言うまでもない。しかし,「国民をポリオの恐怖から救うために一刻も早くワクチンを開発したい」という強い思いとは裏腹にワクチン実用化のめどは立たず,オコーナーのいら立ちは募った。アルバート・セイビンはじめ高名な研究者たちは,「病原性のないウイルス株を樹立するには時間がかかるもの」と説明してその理解を求めたが,オコーナーは納得しなかった。

 オコーナーが「すぐにワクチンを実用化してみせる」と大言壮語する研究者の話を詳しく聞く機会を得たのは1951年のことだった。ヨーロッパで行われた学会に出席した帰途,ピッツバーグ大学教授のジョーナス・ソーク(36歳)と同じ船に乗り合わせたのである。意気投合したオコーナーは,以後,ソークの研究を全面的に支援するようになった。

 折しも翌1952年,米国は患者数5万8000人(うち死者3100人,麻痺患者数2万1000人)と史上最悪のアウトブレイクに見舞われた。ワクチン早期実用化への渇望はひときわ高まることとなったのだった。

この項つづく

註1:ルーズベルトは,ポリオではなく,ギラン・バレー症候群だったとする説も唱えられている。
註2:ラジオ広告での呼びかけが初めて行われた1938年,ホワイトハウス宛てに届けられた募金入りの手紙はわずか数日で268万通に達した。
註3:1953年の数字で見たとき,連邦政府のポリオ研究予算が7万5000ドルにしか過ぎなかったのに対し,マーチ・オブ・ダイムズの予算は200万ドルを超えた。

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