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第2817号 2009年2月9日


名郷直樹の研修センター長日記

61R

知らざるを知らずとす,再び
――ピカソとモンスター患者

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院 臨床研修センター長


前回2813号

●月□△日

 6年が過ぎた。10年が過ぎた,と書いても,大して変わりはない。時は流れ,私も流れる。ミラボー橋の下,セーヌは流れる。時は流れ,私は残る,と言ったのは誰だっけ。私は変わらず,時だけが流れていくというのは,自分は不滅だとでも思ったのだろうか。近代的自我というやつか。あるいは不老不死。永遠の命。一神教。資本主義。消費社会。

 

 途切れることのない毎日,途切れのないことは,発展のしるしか。連続的な発展を続けているだろうか。世の中は? 私は?

 「いま,ここ」,漸進的な進歩。「いま」こそ,その進歩の最先端。そんなことがうそだということに,とうにみんな気がついている。むしろ,あるのは漸進的な退化。老化といえばわかりやすい。私も老化すれば,世の中も老化する。時代は,まさに成熟期を過ぎ,老化の時期。その先にあるのは,今の世の中が死んで,新しい世の中が生まれること。連続的というより,断絶した何か新しいもの。農業の時代,工業の時代,消費の時代。次は何か?

 文化の時代か。高校時代,世界史を勉強していたときの同級生との会話を思い出す。なぜこんなことを思い出すのか,わからないけど。

 

「世界史なんか,これからは文化史だけになっていくんじゃないか」

 

どういう意味だかさっぱりわからなかったが,そうなれば勉強することが一気に減って,受験にとっては都合がいいなあ,そんなばかなことを思っただけだった。30年を経て,彼の発言の意味が少しはわかる。彼には,高校時代にもう見えていたのだ。消費の時代のただ中で,すでにその出口を見ていた。それは,わかるものにはわかる。わからないものにはわからない。これは100円です,と誰にでもわかるような話にならない時代だ。多分。大事なものこそ,値段が付けられない時代。

 次は,文化の時代。ピカソが何億。ばかなことを言ってはいけない。値段なんかつけようがない。あんなわけのわからないものに。ただ,それが紙一重のところで反転する。わけのわからないピカソの絵について少しでもわかりたい。わかりたいという気持ちがどんどん強くなることで,ピカソの価値が高まる。わかりたい,というのは不適切かもしれないが,話の流れ上,わかりたいということにしてしまう。

 文化の時代の掟は,わけのわからないものには値段が付けられないということだ。いいにしろ,悪いにしろ。消費の時代に対応させて言えば,「交換不能」ということだ。文化の時代は,「交換不能」ではあるが,共感は持てる。なんとなくわかる。少なくともわからないことがわかる。突然,古い歌を思い出す。自分自身は懐メロとして聴いた北山修,加藤和彦の『あの素晴しい愛をもう一度』という歌。

 

「あの時,同じ花を見て,美しいと言った二人の,心と心が,今はもう通わない」

 

というのだが,それはまた,別の誰かと心が通うということでもある。「交換不能」であるだけに,誤解はつきもの,だからこそ話したい,聞きたい,一緒にいたい。通わないからこそ,まだ一緒にいられる,そういう道があったのではないか。そういう意味で,この歌はもうすでに消費の時代の歌だ。次の時代の歌は,どうなるのか。

 

「同じ花を見て,美しいと言う二人だから,もう別れるの」

 

ちょっと違うな。

 

「同じ花を見て,同じかどうかわからないと言う二人,だから心が通いあう」

 

「知らざるを知らずとす。これ知れるなり」

 

わからないとわかることこそ,コミュニケーションの源泉である。わからないから知りたい。わかりあいたい。わかりあうことでなく,わかりあいたいと思うこと。それが文化の時代とどうつながるのか,よくわからないけど。

 

 患者を目の前にして,このわけのわからない患者と思うか,この患者についてわかりたいと思うか。それは本当のところ紙一重だ。ピカソの絵のように。例えばモンスター患者。ピカソの絵とモンスター患者は,ある面似ていると思う。わかりたいという気持ちは,わからないという気持ちに正比例する,という面がある。しかし,消費の時代では,わかりやすさと値段は正比例する。つまり,わかりにくいものはモンスター患者にされる。それと対照的に,文化の時代には,わかりにくさと価値が正比例する。それが,ピカソの絵,文化の時代の医師患者関係。

 

 そう書いてきて,ふとまた別のことを思い出す。『罪と罰』のラスコーリニコフは,消費の時代には単なる殺人者だろう。しかし文化の時代には,少なくとも単なる殺人者ではない。次の時代というのも,実はもう既に過去に存在していた?

次回につづく


本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。
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