医学界新聞

連載

2009.01.12

名郷直樹の研修センター長日記

60R

眠られるゆりかごは売ってない

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院 臨床研修センター長


前回2808号

▲月○□日

 今日も研修医と外来。医療崩壊の時代だ。当然,外来医療も崩壊している。

 

「咳が止まらないという50代の男性の患者です。かぜ症候群と思いますが,近くの開業医でリン酸コデインをもらっていて,それ以上どうしたらいいでしょうか」

「診断は大丈夫?」

「喘息,心不全は否定的です。ACE阻害薬も飲んでいません。2日前からの咳なので,慢性咳の鑑別の必要はないと思います。喫煙者なので禁煙が第一と思いますが」

「それなら,タバコをやめることが一番効果的だと話してみたら」

「タバコをやめる気はないというのです。タバコが吸いたいから薬が欲しいという感じです」

「困ったなあ。そんな都合のいい薬はないよね」

「その上,咳で眠れないので睡眠薬も欲しいとのことなのですが」

「それならリンコデを続けて,睡眠薬だけ追加しておいたら」

 

 こんなことは日常茶飯事である。下手をすると,この次の週あたり,この前の薬はまったく効かなかったじゃないかと,お叱りを受けたりする。

 

 ずいぶん古い歌だけど,『甘い言葉ダーリン』という井上陽水の歌がある。こういうやり取りのたびに,この歌を思い出す。この歌の中で,特に印象深いフレーズがある。「眠られるゆりかごは売ってない」と言うのだ。確かに,その通り。その通りなのだが,特別な人だけが,多分天才だけが,明確に述べることができるフレーズだ。咳が止まる咳止めは売ってない。とてもそんなことは言えないし,事実,医者は決してそう言わない。咳止めの効果を,大して効かないなどと,馬鹿正直に説明する医者などいない。だいたいは正反対のことを言う。

 

「咳が治まるように,咳止めを出しておきましょう」

 

つまり,「甘い言葉ダーリン」である。これこそ,医者が日々やり続けていることだ。

 世の中には,甘い言葉が氾濫している。眠られるゆりかごをはじめ,眠られる枕,眠られる布団,眠られる毛布,眠られるパジャマ,眠られる薬。すべて甘い言葉だ。そんなうまい話があるわけない。そんなものは,実はどこにも売っていない。しかし,いかにも咳が止まる薬を売っているかのように,薬を処方するのが,医者の仕事である。

 

 医療の世界は甘い言葉に満ちている。早期発見,早期治療,なんていうのだが,明確なエビデンスがあるというがん検診でさえ,0.5%のがん死亡を0.4%に減らすというような効果だったりする。また,生活習慣病だっておんなじだ。血圧の薬を投与して,血圧が下がってよかったですね,などと言う。脳卒中予防のためには血圧治療が重要だなんていうのだが,一所懸命に治療して,5年以内の脳卒中が,10%から6%に減るくらいのことである。

 それよりなにより,極めつけ,最大の甘い言葉は,「降圧治療により,死亡率が20%減少します」である。これは100%うそである。何をしようが,死亡率は100%である。当たり前だ。

 本当はこんなふうに言いたい気持ち。

 

「咳が止まらないという患者ですが,近くの開業医でリン酸コデインをもらっていて,それ以上どうしたらいいでしょうか」

「咳が止まる薬は売っていないと言ってやれ」

「咳で眠れないので睡眠薬も欲しいとのことなのですが」

「眠られる睡眠薬は売っていない,と言ってやれ」

「そんなこと言われても……」

「ばかやろう。良い医師になる研修だって,売ってやしないんだ」

 

 甘い言葉をかけるのはやめにしたい。売っているものなど,ろくなものじゃない。ほとんど,甘い言葉ダーリンの類である。胃カメラの検査をしておきましょう。MRIを撮ってみてはどうですか。頚動脈のエコーもどうでしょう。PET検診はいかがですか。すべて,甘い言葉ダーリンである。

 売っていないものは,買うことでは手に入らない。でも,本当に欲しいものは,売ってもいないし,買うことだってできないものじゃないのか。買わなくたって,手に入る。そんなものをめざした研修。そんな研修を提供したい。しかし,提供という言葉がもうよくない。めざす研修は,売ってもいないし,提供すらできないということではないか。提供というと,売っていると勘違いするやつらが出てくる。提供することなんかできない,そんな研修の実現をめざして,もう少しがんばりたい。

次回につづく


本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。

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