医学界新聞

連載

2008.12.01

連載
臨床医学航海術

第35回

  医学生へのアドバイス(19)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


前回よりつづく

 臨床医学は大きな海に例えることができる。その海を航海することは至難の業である。吹きすさぶ嵐,荒れ狂う波,轟く雷……その航路は決して穏やかではない。そしてさらに現在この大海原には大きな変革が起こっている。この連載では,現在この大海原に起こっている変革を解説し,それに対して医学生や研修医はどのような準備をすれば,より安全に臨床医学の大海を航海できるのかを示したい。


 前回人間としての基礎的技能の3番目に新たに「視覚認識力-みる」を追加して,それについて述べなければならない理由について述べた。今回はそのおおもとの「視覚認識力-みる」について考えてみたい。

人間としての基礎的技能
(1)読解力――読む
(2)記述力――書く
(3)視覚認識力――みる
(4)聴覚理解力――聞く
(5)言語発表力――話す,プレゼンテーション力
(6)論理的思考能力――考える
(7)英語力
(8)体力
(9)芸術的感性――感じる
(10)コンピュータ力
(11)生活力
(12)心

視覚認識力-みる(2)

観察日記
 小学生のときに夏休みの宿題で,朝顔や昆虫の観察日記をつけるというものがあった。朝顔の観察日記は,朝顔の種を土にまいて,毎日水をやり,やがて芽が出てつるを巻き,次第に大きくなって,つぼみができて花を咲かす,その一連の過程を毎日観察して記録するというものである。また,昆虫の観察日記は,カブトムシやセミを虫かごで飼って,毎日エサを与えてどのような行動をするのかを日記に記録するというものである。この夏休みの宿題となる観察日記の課題は,定番の朝顔や昆虫に限らず,夜の星座など自分の興味あるものであれば何でもよかったような記憶がある。観察日記という夏休みの宿題は,今でも小学校で出され続けていると思う。

 それでは,小学校ではなぜこのような観察日記が夏休みの宿題に出され続けているのであろうか? それは,おそらく何の先入観もなく事物をありのままに観察することが科学の第一歩だからであろう。科学法則の発見の多くは,事物の詳細な観察とその記述に始まっている。ケプラーの法則はティコ・ブラーエによる惑星の運動の詳細な観察と記述をもとにしていたし,メンデルの法則もエンドウマメの花の色の正確な観察と記述から発見された。

 小学校で『ファーブル昆虫記』が現在でも必読書となっているのは,この本によって科学の基本である観察力を学ぶためなのであろう。『ファーブル昆虫記』の著者であるジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)は,南フランスのサン=レオン村に生まれ,極貧の少年期を過ごし,独学で数学・物理学を修め,高等中学の教師をしながら昆虫の行動に関する論文を発表したそうである。彼は55歳から28年をかけてかの有名な『昆虫記』全10巻を記した。そして,2008年は『昆虫記』が刊行されてちょうど101年目となり,日本ではファーブルの回顧展が行われたという。このように日本では誰もが知っているファーブルは,日本の著名な生物学者に多大な影響を与えた。しかし,不幸なことにファーブルは彼の本国フランスでは知名度は低く,冷遇されたそうである。

 このように誰もが一度は行ったことがある観察日記であるが,こうした観察日記や『ファーブル昆虫記』を通して得られる生物などの知識は生きていくのに不必要なので,観察日記を書いたり『ファーブル昆虫記』を読むことは無意味であると言われるかもしれない。

 例えば,朝顔のつるは必ず上から見て左回りで右回りのものはない。朝顔の観察日記をつけた人の中でどれだけの人がこの事実に気づくであろうか? 実は,朝顔に限らず巻貝の巻く向きや人間のトラックを走る向きは上から見て右回りではなくなぜか左回りで,それは現在の科学でも謎なのだそうである。確かにそんなくだらない知識をわれわれは知らなくても生きていける。同様に朝顔や昆虫の観察で得た知識など不要である。全くその通りである。しかし,小学校の観察日記や『ファーブル昆虫記』でわれわれが学ぶことは,その観察によって得られる知識自体ではなく,その観察を通して身につけるべき観察力と発見力(気づく力)であり,それが大切なのである。

 確かに観察力や発見力が大切だということはわかった。ただし,もしも小学校の観察日記や『ファーブル昆虫記』で観察力を学んだとしても,このような観察力は一部の科学者が身につけるもので,何も一般人がわざわざ苦労して身につけるものではないと反論されるかもしれない。

 しかし,このことを医療の世界で考えてみると,実際にどれだけの医療者が観察すべきことを観察せずに,発見すべきことを発見していないために,どれだけ患者が不幸を被っているのであろうか?

 例えば,患者の手掌紅斑やクモ状血管腫に気づかずに診療している研修医がいる。このような皮膚所見があれば,当然肝硬変を疑い,ウイルス肝炎歴やアルコール飲酒歴を聞くはずである。その患者の主訴が吐血ならば疾患は当然食道静脈瘤破裂を疑うはずである。ところが,手掌紅斑やクモ状血管腫などの重要な身体所見を見落とし,杓子定規に問診・診察・検査を行っているのである。

 このような見落としや見過ごしは何も研修医だけでなく,すべての医療者に見受けられる。自分の診療についてもそうである。人の診療の欠点は目につくが,自分の診療の欠点はなかなか気付かないものである。まちがい探しやだまし絵などでは,見ようと思ってもなかなかそう見えてこないこともある。

 「みる」という言葉には,「見る」「観る」「視る」「診る」「看る」などの漢字がある。また,英語の「みる」にあたる単語にもsee,look,watch,observeなどのいくつかの単語がある。古今東西を問わずに,これだけ「みる」という言葉にさまざまな意味や相違があるということは,それだけ「みる」ということが難しいということを先人が経験から学んでいたからであろう。みえているようでみえていない。みているようでみていない。みようとしてもみえない。みることは何と難しいことか!

次回につづく

参考文献
「昆虫記」刊行101年,日本で回顧展 ファーブル深き思索者 実証貫き多様性に迫る,日本経済新聞,2008年5月31日.

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