医学界新聞


出会いを糧に,信じる道を突き進もう!

寄稿 井上 靖章,永田 真,廣野 誠子,関根 一朗,中山 明子,杉田 陽一郎

2025.02.11 医学界新聞:第3570号より

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 研修医の皆さん,医師としての生活には慣れたでしょうか。患者さんや指導医から叱られて落ち込んだり,自分が嫌になったりしてはいませんか?

 マイクロソフト創業者のビル・ゲイツは「成功を祝うのはいいが,もっと大切なのは失敗から学ぶことだ」と述べています。数多の失敗から学び続け,険しい道を乗り越えた先にこそ,輝かしい未来が待っているはずです。

 恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

❶研修医時代の“アンチ武勇伝”
❷研修医時代の忘れえぬ出会い
❸あのころを思い出す曲
❹研修医・医学生へのメッセージ

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名戸ヶ谷病院脳神経外科 部長・脳卒中センター センター長

❶脳神経外科ではない別の科を志望して初期研修を開始したものの,初期研修中に脳神経外科に興味が湧いて鞍替えした際に,その科の役職者や先輩たちに耳を疑う言葉を投げかけられたり,ひどい仕打ちを受けたりした。私としては失礼な態度をとったことはないし適切な方法で進路を伝えたはずだが,ドラマでしか見ないような激しい手のひら返しに人間の本性を垣間見た。またその直後,上司の計らいで脳神経外科の地方会で発表の機会を得たが,自分なりに勉強したつもりで発表したものの全く足りなかったようで,その領域の大御所にとんでもない言葉づかいで内容に関してしつこく非難を受けた。後から知ったことにはその大御所はそういう物言いで有名な熱心な先生なのだが,当時は「医者ってヤバいやつばっかりだな。職業選択をミスったかもしれない」と真面目に考えた。今でも同じことを思うことがあるのはここだけの秘密。

 手術に関しては,現在は顕微鏡下で手が震えることはないが,研修医のときに初めて執刀した時は散々だった。毎晩手術室でバッチリ練習して自信満々に挑んだつもりだったが,いざ手術が始まると緊張と不安で手の震えが止まらず,ほぼ何もできずに交代した。先輩から「井上もこんなもんか」と言われたのはいい意味で刺激になり,その後さらに猛練習するに至った。

❷私の医師キャリアで最も幸せなことは,上司や後輩,同僚,友人にとにかく恵まれてきたことだ。この余りにも幸運な人間関係の連続が私の現在の脳外科医としての姿を形成しており,日々心から感謝している。運命の出会いを挙げるとキリがなく,ここでは初期研修医時代の出会いを代表する2人を簡単にご紹介する。

故・山﨑誠先生(名戸ヶ谷病院創設者・初代理事長):学生の頃に尊敬する先輩に紹介されて初めてお会いした際に,ご挨拶をするのもままならず,開口一番「お前の野望や人柄は十分聞いている。ここで自由に力を培って,世界で評価される医師になりなさい。俺の作ったこの病院をベースキャンプにして世界へ羽ばたけ。戻ってこなくて構わない。世界で活躍している姿を見せてくれ。それが俺の喜びだ」と。器の大きさに圧倒されると同時に入職を決意した。逝去される直前までこの言葉の通り私のキャリアを応援し続けてくれた最大の恩人であり,今でも名戸ヶ谷病院に貢献したいと願う原動力を与えてくれている。

松澤和人先生(名戸ヶ谷病院病院長・前脳神経外科部長):初めて病院見学に訪れご挨拶した際に「お前も今は別の科に進むと言っているが,どうせ2年後には脳外科医になりたいって言ってるよ。一緒に働こう」と声をかけてくれたのが印象的だった。人の人生に対してそんな軽い発言をするとはなんて失礼な副院長(当時)だろうと思ったのは内緒だが,結局本当にその通りになってしまった。初期研修医時代から脳神経外科の勉強や練習をしたいと主張し,リソースやチャンスを求め続けたわがままばかりの私に,たとえ意見が異なることがあろうとも,いつも一貫して私の思いが遂げられるように支援し続けてくれた。専攻医時代から松澤先生の監督責任のもとであらゆる高難度手術を執刀させてもらい,病院内外のさまざまな活動も応援してもらってきた。どれだけ強い思いがあっても上司のサポートがなければ成長が鈍化する脳外科医教育において,松澤先生以上に優れた直属の上司を探すのは不可能であろうと思うと同時に,松澤先生こそが脳外科医としての私の生みの親であると心から感謝している。

❸椎名林檎『長く短い祭』。社会人・医師として酸いも甘いも経験する中で人生の複雑さや自身の存在意義に悩んでいた時に,誰だって儚い人生,自分らしく生きていけばいいと前向きにしてくれた一曲。椎名林檎にしてはストレートな歌詞も印象的。

❹苦労知らずで輝かしい人生を歩んでいるように見える人でも,みんな実は人に語らないところで悔し涙を流したり投げ出したくなったり,やる気がなくなってしまったりした経験があるものです。逆境や苦難に落ち込み過ぎないでください。一貫した思いがあれば必ず未来は開けます。長い目で見て方向性がおかしくなければOKくらいの気持ちでやっていきましょう。

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写真 初期研修2年目のある日
悔しい経験をバネに顕微鏡手術を毎晩猛練習した成果を,松澤先生(左)の指導のもと持ち込んだ研究会で優秀演題賞をいただいた。右が筆者。

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埼玉医科大学呼吸器内科 教授
埼玉医科大学病院アレルギーセンター センター長

❶古い人間で1983年卒です。当時の研修環境では弱音を言いにくい雰囲気がありました。皆が23時くらいまでは医局に残っていた時代です。自分は幼少時から重症喘息での臨死体験もあり,日本アレルギー学会の会長講演で(!)それをお話ししたこともあります。当時,24歳の頃,特に若い看護師さんたちも大勢いる病棟では,喘息があることは言いにくかったです。β2刺激薬を使用していたため軽度の振戦が出ていたところ,看護師さんから「先生,手が震えてますよ」と笑われたこともあります。持病治療の副作用なのに(涙)。

 ある日,手の震えが気になり動脈血ガス採血がどうしても取れず患者さんにダメ出しされてしまい,挙句の果てに先輩(通称“アラレちゃん”先生)が「ほよよ」と言いながらあっという間に採血してしまい,立場がなかったこともあります(落涙)。ともかくその一件を含め,研修医時代に自分は不器用なのだ,と思い込み,強いコンプレックスを抱いていました……。

 自信が回復したのはその10年後です。米ウィスコンシン大学アレルギー科に渡って好酸球に関する実験をしていた時のことです。各国のフェローから「マコトの手技は世界一だ」とほとんどジョークでほめはやしてもらい,やればできるのだなとなりました。研究上有効なデータもガンガン出だして,もしや自分はガンダムの「ニュータイプ」で覚醒したのではないか,などと思ったりしました。マンガみたいな話でごめんなさい,全部実話です。人間はカンチガイ(?)でも,ほめられると成長できることもあるのだと思いますし,今でも彼らには感謝しています。

❷患者さんでは,喘息増悪で転院してきて精神科に超長期入院中の,そして超絶暗いお顔をされた老婦人が思い出されます。自分が受け持ちになり,できるだけ優しく親切にしないとね~と人並みのことを思って,毎日時間をかけて,できるだけ丁寧に接していました。そうするうちにだんだんと打ち解けてくれて,笑顔を返してくれるようになり,僕も毎日その方のところに行くのが楽しみになっていました。そして退院時に予想外のことが……。ご婦人は笑顔で「本当にありがとね」と言い,ティッシュにくるんだ何かを手渡してくださったのです。僕はお礼金などはお断りする主義ですが,このときは何か,これは神聖なものであって,どうしても受け取らなければいけないと本能的に強く感じるものがあったのです。中にはなけなし(?)のボロボロの千円札が1枚入っていました。僕のような者でもある種強い感動がハートに走って胸が熱くなり,これはとても使えないな,使ってはいけないな……と思ったものでした。しかしその後,本当に使わなかったかどうかは忘れてしまいました。神様ごめんなさいです。

❸山下達郎『クリスマス・イブ』。僕は高校時代ロックバンドをやっていて,都内のコンテストで入賞したことがあります。そのコンテストのゲストが山下達郎さん率いるシュガー・ベイブであった。以降彼の音楽を聴くようになり,研修医初年度の夏にリリースされたアルバム『MELODIES』に収録されていたこの曲を,当時交際していた文系女子と,いい曲だね,などと言っていた。その後この曲は彼女の誕生日にシングルリリースされたのである。まさかクリスマスの定番曲になり長く愛されるようになるとは。ちなみにこの文系女子とは……今のかみさんです,ハイ。

❹研修医・医学生の皆さんには,心身いずれにせよハンディキャップや持病は堂々と(!)共有して前向きにコントロールをする必要があるし,してほしいと思います。誰にでも弱みはあるし無敵の人間などいない。今や多様性の時代! 各種事情を抱えた全ての仲間が共生して医療を守る時代です。堂々とオープンにしましょう。加えて,人間のポテンシャルはどこで覚醒するかわからないことを信じていてほしい,と切に願います。皆さんの“でっかい未来”に,どうか「目一杯の祝福」がありますように。


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兵庫医科大学肝胆膵外科 主任教授

❶私は,2000年に和歌山県立医科大学を卒業し,同大学の消化器外科教室に入局し,外科学の修練を積んできました。2022年,現在の所属である兵庫医科大学の主任教授を拝命いたしました。

 私が医師になった頃は,現在のような医学部でのOSCEの授業はなく,手技に関しては素人同然で研修医になりました。私が所属した消化器外科教室は,食道・胃・大腸・肝胆膵がんの患者さんが多く,周術期のみならず,化学療法を受けている患者さんもたくさんおられましたので,研修医の病棟業務の大半は点滴留置でした。研修医1日目から同期の研修医の先生たちと手分けして点滴を行うわけですが,化学療法を受けている患者さんの血管は非常に細くてもろく,ルート確保を何度も失敗してしまい,患者さんや看護師さんに強く非難され落ち込む日々でした。

 ある日,病棟で最も点滴が難しい血管をお持ちの83歳の膵臓がん患者さんの点滴を行わなければならず,かなり憂鬱な気持ちでベッドサイドに行くと,その患者さんから「最初から失敗すると思っているから失敗するんや! 自信持て!」と言われました。おかげでシャキッとした気持ちになり,点滴を行ったところ一発で留置でき,自分でも何が起こったのか信じられない気持ちでいっぱいになったことを覚えています。それ以来,点滴を行う前にその患者さんの言葉を思い出すことで成功率は上がり,また針の留置から固定までの手際も良くなり,効率よく仕事を進められるようになりました。今でも,その患者さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

 手術に関しては,現在のように手術動画が普及していなかったため,いつも解剖の本と手術本で勉強し,術者の先生の後ろから足台に乗ってのぞき込んで見学していました。研修医~レジデントの時代は,鼠径ヘルニア(前方アプローチ),胆摘(腹腔鏡6割と開腹4割くらい),虫垂切除(開腹)がほとんどでしたが,なかなかうまくできずに指導医の先生に電気メスを取り上げられたり,予習ができていないと叱られていたことを懐かしく思います。今は,エキスパートの先生方が行う腹腔鏡やロボット支援下の素晴らしい手術手技の動画を拝見できる機会が多くあり,手術手技の向上においてはとても恵まれた環境になりました。病棟業務の後,解剖の本を読みながらうとうとしてしまっていた当時の私がとても懐かしいです。

❷私の外科医人生において,たくさんの先生方,メディカルスタッフの方々に助けていただきました。中でも,2人の先生は私の外科医人生を大きく変えてくれたと思います。

 まず1人目は,同僚の女性外科医の先生です。私が入局した時は,私を含めて6人の同僚がいて,後に3人は上部消化管外科,1人は小児外科を専門とし,私ともう1人の女性外科医は肝胆膵外科に進みました。彼女とは休日を一緒に過ごすほどの親しい仲ではありませんでしたが,良きライバルで,良き理解者でした。肝胆膵外科の厳しい修練を続けることができたのも,彼女が側で一緒に頑張っていたからだと思っています。

 もう1人は,私の恩師である山上裕機先生(現・昭和大学病院膵がん治療センター長)です。私が研修医2年目の時に教授になられ,以後,ずっとご指導いただいております。「寝る間を惜しんで,診療・研究・教育に没頭しろ」という体制で,私たち和歌山医大第2外科の教室員は厳しく育てられましたが,いつも愛情を持ってご指導いただきました。

 この2人の先生方に,この場をお借りして,心から感謝申し上げます。

❹私は,決して優秀な医学生・研修医ではありませんでしたが,先輩や同僚の先生方,またメディカルスタッフの方々に,仕事の面でも精神的にも助けていただきながら外科医人生を歩んできました。仕事にやり甲斐を感じることで,余暇やプライベートをとことん楽しむことができたと思います。まだまだ道半ばですが,今,私は外科医で良かったと心から感じております。もし,手術に興味がありましたら,難しいことはあまり考えずに,外科学の扉を開けてみてください! きっと,素晴らしい未来が待っていると思います。

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写真 和歌山医大第2外科時代の医局旅行にて
左から3番目が筆者。

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湘南鎌倉総合病院湘南ER 部長

❶私は大学卒業後,初期臨床研修,救急科専攻医研修,そして現在まで,神奈川県の湘南鎌倉総合病院で働き続けています。内科病棟で毎朝の採血を担当するのが,内科ローテーション中の研修医1年目の仕事でした。採血すべき患者を同期と分担し,早朝5時頃から病室を回ります。しかし,私は採血が本当に苦手でした。手技の中でも“刺す”行為に苦手意識が強く,針を刺すたびに心の中で「ごめんなさい!」と唱えていました。

 ある日,採血を終えた同期が私を心配して様子を見に来てくれました。そして彼らが目撃したのは,患者の腕にゆるく巻かれた駆血帯と,怒張しない血管に困り果てる私の姿でした。そう,穿刺どころか,ギュッと駆血帯を巻くことすら申し訳なく思えてできなかったのです。

 その日以降,「採血を終えたら関根を助けに行く」という文化が同期内で生まれました。おかげで,私は2年間,仲間に助けられながら成長しました。今では採血もカンペキにできるようになり,研修医に「採血できない血管はあっても,採血できない患者はいない!」と格好をつけて指導しています。過去の失敗談をひた隠しにしているのは内緒です。

❷2024年12月に逝去された太田凡先生(元・京都府立医科大学救急・災害医療システム学教授)は,当院のER部門の立ち上げに尽力された方です。救急科専攻医になりたての頃,懇親会の席で太田先生から初めて尋ねられたことが「研修医のときに一番印象に残っている患者は?」だったことを今でも覚えています。その問いかけに,先生の考え方の根幹である“患者中心”の姿勢を感じました。

 太田先生は,純粋に患者を助けたいという思いで多くの仲間を引き寄せ,いかなる救急患者も“断らない”というER診療体制を日本で実現しました。その姿勢は,私が困難に直面したとき,純粋な動機に立ち返るための指針となっています。「患者と社会に貢献したい」という純粋な想いの力が何よりも強いと教えてくださった先生に感謝しています。

❸アメリカの医療ドラマ「ER 緊急救命室」のテーマソング「Theme From ER(TV Version)」は,研修医時代から現在に至るまで,私の目覚ましアラームです。過酷な勤務のときでも,この曲を聞くと「ドラマのERよりはマシ」と自分を励ますことができます。もちろん,時には「いや,これドラマを超えているな」と思うこともありますが(笑)。自分を奮い立たせてくれる大切な一曲です。

❹救急外来で診療を始める前に,まず患者に感謝の気持ちを伝えてみてください。「受診してくださってありがとうございます」や「長い時間お待ちいただきありがとうございます」という一言が,診療の質を一段高めるきっかけになります。

 患者は,さまざまな不安やストレスを抱えながら,家族や仕事の都合を調整し,待ち時間が読めない状況でも救急外来を訪れています。その背景に思いを巡らせることで,患者への労いの気持ちが自然と生まれ,皆さんの診療自体もスムーズになるでしょう。感謝の言葉がきっかけとなり,より良い信頼関係を築けるはずです。ぜひ,この一歩を踏み出してみてください!

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写真 研修医同期との1枚
研修医同期17人の中で“1番デキない研修医”と自他ともに言われていた。“デキるやつは重宝され,デキないやつは愛される”という雰囲気の中,同期から最大限の愛を受けて成長することができた。左上が筆者。

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大津ファミリークリニック 院長

❶2006年,岡山大学を卒業した私は,京都の洛和会音羽病院に就職し,初期研修医としての第一歩をスタートさせました。家庭医になるという目標を持ちながらも,まずは総合診療や救急医療をしっかり学べる環境を選びました。

 初めのローテーション先は外科でした。担当した患者さんは,大腸がんの化学療法のため数週間おきに入院される70代の男性。口数の少ない方でした。

 当時の私は,患者さんのベッドサイドに行っても,化学療法で点滴を受けるだけの患者に何を聞けば良いのかさえわからないような状況でした。外科の先生方は手術や外来で忙しく,質問する余裕もなく,私は右も左もわからないまま過ごしていました。ある日,その患者さんに下剤について尋ねられたのですが,指示で処方されている薬の効果すら理解していない自分に気づき,冷や汗が止まりませんでした。患者さんも,私の未熟さにきっと呆れていたことでしょう。

 1か月後,その患者さんが状態悪化して再入院されました。そして,日曜日の朝の病棟ラウンド中に,お看取りの時間を迎えました。初めて担当した患者さんが亡くなる――その現実に直面した私は,涙で目がパンパンに腫れ,鼻水は止まらず,人前に立てる状態ではありませんでした。結局,指導医から「詰所で待機していろ」と言われ,死亡確認の場に立ち会うこともできませんでした。患者さんにきちんと向き合えなかった自分の不甲斐なさに,ただ子どものように泣くしかありませんでした。それ以降,患者さんのところに積極的に行こうと気持ちを切り替えました。もちろん,あんなにひどい顔でベッドサイドに行くことはもうありません。

❷音羽病院での1番の出来事は上田剛士先生(現・洛和会丸太町病院)に出会い,教えていただけたことです。総合診療科で上田チームに入り,患者の病歴聴取,身体所見,検査,治療計画まで叩き込まれました。優秀な音羽病院の研修医の同期とは違い,私は飲み込みが悪く,自分で調べ物をするのも下手でしたが,へこたれないことだけが強みでした。あまりに何を言われても響かない(?)落ち込まない(?)ので「中山さん,医師免許持ってるんだっけ?」と皮肉を言われたこともあります。

 総合診療科は各専門科での治療を要しない患者が多く,認知症や超高齢でマルチプロブレムの患者がほとんどでした。社会的背景まで踏み込まないといけないことが多く,家庭医をめざす私には大事なトレーニングの場でした。私が1時間以上かけて情報収集した内容を,上田先生はたった10分で情報収集し,さらには私の持っている情報よりも多くの内容を聞き出しておられて,こんな状態で私は「家庭医をめざす」と言っていいのかと不安になりました。レビー小体型認知症の患者さんが夜中に突然死したときも,病院裏の研修医寮に住んでいる担当医の私よりも,主治医の上田先生のほうが早く病院に着いていてびっくりしました。上田先生のフットワークの軽さ,研修医を支え,教え導いてくれる姿に感動し,本当に音羽病院で研修させていただけて良かったと思っています。今でも,「上田先生なら〇〇って言うなぁ」と時々思い出しながら診療しています。

❹私の座右の銘を贈ります。

 Happiness consists in activity. It is running stream, not a stagnant pool.(幸せとは動いている中にある。それは,よどんだ池ではなく,流れる川のようなものだ)。 若い時は,チャレンジしやすい時期です。人との出会いが自分を成長させてくれたり,戒めてくれたりします。たくさんチャレンジして,失敗して,たくさんの出会いを見つけてください! そして,家庭医として診療所で働いてみたいという仲間,見てみたいという学生・研修医をお待ちしてます!

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写真 音羽病院に定期的に教育に来ていた大リーガー医のティアニー先生と

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東京ベイ・浦安市川医療センター神経内科 医長

❶私の初期研修は武蔵野赤十字病院の救急救命科(3次救急対応とICU, HCU管理)から始まりました。最初は訳がわからず,ルートも取れなければ,「ボーラスして!」と上級医から言われてもボーラスの意味がわからずその場に立ち尽くし,CV(中心静脈カテーテル)があまりにも入れられず見学の医学生さんに「先生刺す場所もうちょっと左じゃないですか?」と心配される始末。さらには「じんこうばな(人工鼻)に変えよう!」とカンファレンスで上級医から言われれば「じんこうばな(人工花)って,お見舞いの花は感染リスクがあるから人工の花にするってことですか?」と先輩に質問し呆れられ,救急車がくると右往左往しながら自分がいかに何もできないかを痛感し絶望する日々でした。太陽が昇る前に眠い目をこすりながらICUの自動ドアをくぐると胃酸がこみ上げ,救急車のサイレン音を聴くと動悸がしていました。

 そんなある日,当直の明け方に外傷患者が搬送されてきました。患者をストレッチャーでCT室へ移動させ,「CTを撮っている間に救急隊から情報を聞いてカルテに書こう」と,私はCT室の患者から目を離し,いそいそと電子カルテを書き始めました。すると,上級医がものすごい剣幕で飛んできて私の胸ぐらをつかみ,気づくと私の足は地面を離れ体ごと宙に浮いていました。「CT検査中にバイタルが乱れるかもしれないから,すぐ変化に気付けるように患者から目を離すな」という教訓を,私は明け方のもうろうとした頭で宙に浮きながら学びました。

 そんなこんなでボロボロになっていたある日の当直中,「今日も何もできなかったな……」と落ち込みながら病院の薄暗い廊下で患者さんを乗せたストレッチャーを救急外来の看護師さんと一緒に押していました。そこで,看護師さんが「今日の当直は,杉田先生でよかったなー。先生優しいから。」と,ポツリと口にしました。その瞬間,ストレッチャーの上に涙がぼたぼたと落ちてしまいました。看護師さんの気遣いの優しさと自分の無力さが相まじって,溢れてくる涙をこらえられませんでした。

 そんな数多くの「かっこ悪い」エピソードを抱えながら歩んだ初期研修の2年間を通じて,自分の弱さと向き合いながら少しだけ強くなれた気がしました。

❷初期研修では「今日も大変だったね」と互いに笑い,励まし合った同期に一番感謝しています。素晴らしい指導医に出会うことはもちろん重要かもしれませんが,私たちは強い人に導かれることではなく,弱っている人や困っている人に手を差し伸べることでしか強くなれません。有名な研修病院や指導医に導いてもらおうとするのではなく,身近にいる研修の同期や患者さんを大切にして,助けることが自分を一番育ててくれると信じています。

❸フジファブリック『若者のすべて』。色あせない心のときめきと切なさ,懐かしさを感じる素敵な曲です。

❹初期研修ではたくさん怒られ,自分の未熟さに落ち込み,同級生と自分を比較して劣等感に苛まれ,手のひらに収まりきらない膨大な医学知識を前に途方に暮れて立ちすくんでしまうことがあると思います。落ち込んで体が固まってしまい,足を前へ踏み出せなくなることが誰しもあるでしょう。私自身もそのような状況に追い込まれることが何度もありました。

 疲れてしまったら休みながらでも,どんなにゆっくりとした足取りでも大丈夫です。患者さんへの優しさと自分への厳しさを両輪に据えて,前を向いて手を握り,一歩ずつ足を前に踏み出すことができれば,昨日の自分よりもちょっとだけ強くなることができると思います。

 「だからこそ我々は,前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように,絶え間なく過去へと押し戻されながらも。」〔スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)『グレートギャツビー』(中央公論新社.2006.)より〕

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写真 初期研修の修了式後にて
初期研修同期と後輩と(中段左から4番目が筆者)。
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