医学界新聞

「さらなるよきもの」をめざして

寄稿 井上麻未

2023.11.27 週刊医学界新聞(看護号):第3543号より

 聖路加国際病院のブレストセンター長を務めておられた山内英子医師は,著書『あなたらしく生きる』(日本キリスト教団出版局,2015)の中で次のように語っている。

今,世界で多くの非常に悲しいことが起こっています。あちらこちらで起きる紛争で子どもたちが犠牲になっていることに心を痛めるばかりです…(中略)…そんなとき,思いを消化しつつ,自分の置かれている立場で何ができるかを見つけていく。神さまは人間を,感情を持つ生き物としてつくられました。あふれるほどの大きな思いを力に,さらなるよきものを築いていくことができますように。(35頁)

 現在も多くの人々がこのような祈りの気持ちを抱きながら日々仕事に向かっているのではないだろうか。国籍や信条の違いを越え,「さらなるよきもの」を他者と共に築きたいという医療者と人文学者の強い願いから生まれ,そして今や世界的な一つの運動となっているのが英国発のヘルスヒューマニティーズ(Health Humanities:HH)である。

 HHは,医療者の人間性の涵養をめざす米国の医療者教育,メディカルヒューマニティーズ(Medical Humanities:MH)に起源を持つ。その代表的なテキスト,リタ・シャロン博士の『ナラティブ・メディスン――物語能力が医療を変える』(医学書院,2011)は日本でも広く読まれてきた。人文学による「価値教育」を目的に医学に人文学を取り込んだMHとは対照的に,新分野HHは人文学をその中核とする。そして,より広い射程を持ち,医療者,患者,元患者,家族,ケアラー,一般市民など,全ての人を分け隔てなく包含する。

 HHとは「人間に本来的に存在する可能性を前提に,人々のhealth and well-beingを目的とし,art and humanitiesによってそれを達成しようとする実践的学際領域」1)である。英ノッティンガム大のポール・クローフォド博士らを中心に展開してきたこの新分野を2017年の英国の学会で知ったジェフリー・ハフマンと筆者は,初めての日本語による定義を2019年に次の通り記した。「HHは,保健・医療と芸術・人文学・社会科学を融合した新分野です。目的はこれらの分野の知識と実践がどのように医療者の教育と研究を進め変革していくか,そして患者・医療者・その間にいるすべての人の健康とウエルビーイングにどのように貢献しうるかについて探求することです。HHはアカデミックな一領域にとどまらず,持続可能な医療システムの確立とより健康的な社会の構築という共通目標に向かって,さまざまな人々を結びつける学際的な運動です」。実際,この新分野は「広範な波及力」を持ち,保健医療の領域にとどまらずさまざまな学問領域をその境界を越え融合することで,先端医科学の発展に伴う複雑な問題,生命倫理や死生観,共同体の在り方などに新たな視点や手法から取り組むことを可能にしてきた。さらに,今や人文学やアートの研究手法をヘルスケアの実践に応用した実践的学際的な分野となり,「相互回復(mutual recovery)」を主要概念とする新たなケアの文化を作り上げている。ケアする側もされる側も互いにフラットな関係性を保ち,相互にエンパワーされるというダイナミズムを特徴とする。研究方法の確立に伴い,北米の大学では,医学部以外の学部教育においてもHH・MH教育が急速に拡大しており,2000年には12だった教育プログラム総数が2022年には140にまで増加し,今後さらに増える見通しだと報告されている2)。英国では地域社会での実践が特に重視されるが,近年,医療費削減のため社会的処方が広く導入され,HHの理論と実践がその推進に寄与している。

 新規性に関して言えば,日本では日野原重明医師がHHの精神をはるか以前から先取りしていたことは驚くべき慧眼である。ウィリアム・オスラー博士の「医学はサイエンスにもとづいたアートである」を座右の銘とする日野原先生は,患者や患者家族と医療者の仲立ちをするものとして,アートが大切な役割を果たすことを説いた。ここでのアートとは「医術」を意味するが,それを用いるには患者を一人の人間として理解し,全人的にケアできる高い感性が必要であること,感性を養うには,音楽や絵画,優れた文学作品など「人の心を動かす美しい物」との接触が必要であること,患者も家族も医療者も皆がより良く生きるためにはアートの力を必要とすることを説き続けた。

 本学の建学の精神を示す「知と感性と愛のアート」は日野原先生が遺したことばである。このことば通り,キリスト教精神に基づく看護教育のパイオニアとして,全ての人々の健康とwell-beingへのさらなる貢献をめざし,本年4月に本学大学院看護学研究科において日本初のHH関連3科目が新規開講となった。開講に先立ち公開リレー講座や学習会を繰り返し実施し,3年をかけて開講準備を行った。

 その中で,2020年には看護教育100周年の記念事業の一環として英国のInternational Health Humanities Networkと本学の共催で「第9回国際ヘルスヒューマニティーズ学会」がアジアで初開催された(オンライン)。世界10か国から137人の参加者を得て合計70件の発表が行われ,コロナ禍にありながら共に学び合えた貴重な機会であった。開催の祝辞は故・門田守人日本医学会会長よりいただいた。門田先生は医学生時代を振り返り,大阪大の故・澤瀉久敬教授の「医学概論」のご講義を通して学生時代からご自身が「既にHHの神髄を学んできたと言えるかもしれない」こと,「飛躍的な科学技術の進歩に伴い,昨今,医学・医療のめざすべき本質が揺らいできているようにも感じられる」ことを述べられた。そして,現在,「社会全体が気づかないうちに徐々に科学万能主義的な方向へと陥っていく危険性がある中で,今まさに私たちには問題を多角的・俯瞰的に見つめて対応することが,強く求められている」と説かれた。そして最後に,「HH学会に集まり,多くの方々がそれぞれの立場から,共に,この課題について学び合うことは非常に重要なことと思います。重要というよりも,むしろ,やらなければならないというべきかもしれません」と述べられ,HHの本質を深くご理解の上,学生や研究者の新たな取り組みを力強くご支援くださった。

 HH関連新規科目の大きな位置づけと役割を述べる。「HH概論Ⅰ」「同概論Ⅱ」「健康と病いの語り概論」の3科目(半期2単位,選択科目)が看護学研究科の基盤領域として構成されており,科目等履修生にも開かれている。「HH概論Ⅰ」(多様性と複雑さへの探求)はHH理論,文学,スピリチュアルケア,教育学,社会学など,「同概論Ⅱ」(創造力と表現力の育成)は芸術療法,“Creative Writing with Visual Imagery”などセラピーやアクティビティ系の体験重視の実践的な内容,そして「健康と病いの語り概論」はこの分野で先駆的存在であるDIPEx(Database of Individual Patient Experiences)の活動をベースにさまざまな実践可能性を提示するという発展的内容となっている。各科目はオムニバス方式での実施,各回履修者によるディスカッションという共通の形態をとり,専任教員で各科目のコアを形成すると共に外部講師の参加を得るなど,全体のコーディネートを組織の特質や人的資源に合わせて工夫している。各科目の学習目標や到達目標,各回の詳細は『看護研究』55巻6号の特集「ヘルスヒューマニティーズと看護」の「『ヘルスヒューマニティーズ3科目』の概要と意義」を参照いただきたい。

 看護学と互いに密接な関係にあるHHは,「宗教,文学,歴史,文化,芸術など人間の存在について深く探求する人文学と社会科学の豊富な知的資源によって看護学の理論と実践を下支えする役割を期待される学際領域」である(上記記事より)。さらに,人文学やアートは私たちの「思いやり」(compassion)を育むと同時に,クローフォド博士のことば通り「希望や連帯や思いやりに満ちたレジリエントな共同体を構築する可能性を持つもの」である。「HH概論Ⅰ」の受講生の一人は,自らが描くHHの実践に関して,地域社会で「当事者(障がい者)が自身の人生を請け負い,人生の再構築をするまで,再構築した後も抱えるであろう痛みや苦しみを少しでも和らげられるように行政保健師として実現させたい取り組み」としてその実践の具体案と,自分が果たし得る役割を明確に記していた。その結びとして,「皆,同じ人間という共通性を持ち,互いの痛みや苦しみを理解し共感し合える存在である」,自分たちの取り組みにより「社会がより良いものになるだろうと信じている」と述べている。「さらなるよきもの」の創造をめざして私たちは教育研究を行い,今後のわが国のHHの発展に向けたさまざまな知の協働の実現を希求している。


1)木下康仁.ヘルスヒューマニティーズの求心力と遠心力.看護研究.2022;55(6):552-63.
2)Lamb EG, et al. Health humanities baccalaureate programs in the United States and Canada. Case Western Reserve University School of Medicine;2022.

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聖路加国際大学大学院看護学研究科 教授

津田塾大文学研究科博士後期課程,名大大学院国際言語文化研究科単位取得満期退学。英エディンバラ大,ノッティンガム大大学院留学。専門は英文学。日本ロレンス協会評議員。ジェフリー・ハフマンとの共著に『The Routledge Companion to Health Humanities』(2020)の“Establishing, promoting, and growing the health humanities in Japan:a review and a vision for the future”等(科研費の助成を受けたもの)。

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