医学界新聞


有効な政策と自由の尊重の間で

インタビュー 玉手慎太郎

2023.04.17 週刊医学界新聞(通常号):第3514号より

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 現代人は,日常的にさまざまな技術や社会の仕組みによって健康を管理しながら生きている。COVID-19の感染拡大は,ロックダウンを含む健康に対する政策的介入の是非についての議論を巻き起こしたことにみられるように,健康であることが求められる社会が抱える課題をわれわれに突きつけた。国家による健康への介入は,どのような場合に,どの程度まで許容されるべきなのか。書籍『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』1)(筑摩書房)を上梓した倫理学者・玉手慎太郎氏に話を聞いた。

――初めに,公衆衛生について考える上で押さえておくべき性質を教えてください。

玉手 公衆衛生には三つの特徴があります。一つ目は,個人ではなく集団を対象とすること。医療では通常,患者個人の健康を回復させますが,公衆衛生では市民全体の健康を維持しようとします。二つ目は,平常時から健康の維持増進を図ることです。医療は基本的に怪我や疾病が生じてから行われますが,公衆衛生は日常生活における健康の維持を問題とし,怪我や疾病を避けることを目的とします。三つ目は,アプローチ方法の多様さです。医学的介入にとどまらず,社会・経済的問題への介入を含め,幅広いアプローチが採られます。それゆえ,介入の主な担い手として国家とそれに属する地方自治体が想定されます。

――市民全体の健康を維持しようと平常時から介入するというのは,規模の大きな話ですね。

玉手 ええ。そうした公衆衛生の営みが社会にとって意義深いことに異論はないかと思います。しかし,公衆衛生政策の実施が端的に望ましいのかというと,話はそう単純ではありません。なぜなら,基本的人権の尊重という原則が存在するからです。私たちの社会が前提としている価値について考えた時,個人の自由が大切であることに反対する人は少ないでしょう。一人ひとりに基本的人権があり,無制限ではないものの自由に生きることが認められるべきだというのは,現代社会に生きる人間にとってベーシックな考え方です。ですから公衆衛生に関しても,国の政策だから,市民のためになるからといった理由で,個人の自由を一方的に奪ってはいけないわけです。本人の利益になることを相手の同意なしに強制することをパターナリズムと呼びますが,現代社会において無限のパターナリズムは許容されません。

――どのような場合であれば公衆衛生政策の実施が許容されるのでしょう。

玉手 難しい問題であり,倫理学的な考え方が要請される点です。医療の場合,すでに疾患を抱えた個人を対象にした介入であるため,倫理的配慮のための手続きは比較的わかりやすいと言えます。例えばインフォームド・コンセントを徹底することで,防げる問題も多いでしょう。しかし公衆衛生政策の場合,市民全体を対象に日常的に行われるため,対象者全員から同意を取るのは現実的ではありません。政策の倫理的正当性を別の方法で検討するしかないと思います。倫理的な正当性とは,政策による介入に倫理的観点からみて問題がないということです。倫理的な健全性と言い換えたほうがわかりやすいかもしれませんね。

 極端な例ですが,ある町で致死性・伝播性の高い新規のウイルスが発生したとして,その町を焼き払えば良いと考える人はいないでしょう。感染対策のためとはいえ,明らかにやりすぎですから。COVID-19の感染拡大下におけるロックダウンの可否についても同様で,感染症対策としての有効性と,それによって失われる市民の自由とのバランスを勘案する必要があります。あくまで一例ですが,このように倫理的観点から実施可能な政策の範囲を確定し,その中から選択していくしかないのです。

――政策の倫理的正当性の検討に関して,何らかのアルゴリズムで対応することは期待できますか。

玉手 それは難しいというのが私の考えです。結局は状況に応じて個別的に判断する他なく,あらゆる状況に対応できるアルゴリズムを組み立てるのは難しいのではないでしょうか。ただし,原則として,介入の程度が強い,すなわち個人の自由をより大きく制約する政策ほど,より慎重な倫理的配慮が求められるはずです。なるべく弱い介入から考えて,それで足りなければ強い介入にシフトしていく……という手順を踏めば,大きく道を踏み外す危険性を減ずることができるでしょう。

――コロナ禍の生活が続く中で,自由の制限は仕方がないとする論調が広がった,すなわち自由の価値が減じたと言われることもあります。人々の公衆衛生や自由に関する考え方に変化はあったとお考えですか。

玉手 変化はしていないと私は考えています。変化に見えるのだとしたら,人々の考え方がどこかで混乱してしまっているのではないかなと。それを解きほぐすヒントになったのが,ケイパビリティ・アプローチの考え方でした。

――どういうことでしょうか。

玉手 ケイパビリティとは,実行可能な選択肢の幅のことです。例えばある部屋に一人の人がいたとして,扉が施錠されていなければ,一見したところその人は自由に出入りができます。しかし,もしその人が寝たきりの状態であればどうでしょうか。誰かに閉じ込められているわけではなくても,その人に出入りの自由はない。同様に,目の前のお店で自由に買い物をしていいと言われても,お金がなければ買い物はできません。このように,ケイパビリティ・アプローチでは,私たちが具体的に何をできるかに注目します。これは,自由について考える上で重要な視座です。

――いろいろな選択肢のまとまりとして自由をとらえるわけですね。

玉手 はい。ケイパビリティ・アプローチの考え方からすると,感染症にかからないでいられること,感染症にかかる不安なしに生きられることも,自由の一つとしてとらえられます。「感染症からの自由」といったところでしょう。こうして考えると,COVID-19感染拡大下の状況は,「感染症からの自由」が損なわれてしまったため,その自由を回復するために,「好きなように移動できる自由」「店舗を思うように営業する自由」などを縮減したと読み替えられます。自由と健康・生命(=自由とは異なる価値)の間のトレードオフではなく,ある自由と別の自由の間でトレードオフが生じていたわけです。だとすれば,自由の価値が減じたと考えるのは誤解です。検討すべきは,多様な自由の間の相対的な重要性をどう判断するかとの問いだったのです。

――興味深いパラダイムシフトですね。しかし,単に言い換えただけとの指摘もありそうです。

玉手 ラベルを貼り替えただけで,検討すべき問題(例えば,ロックダウンを実施するかどうか)は同じだとの指摘はあり得ます。けれども,単なる言い換え以上の意味があると私は考えています。私たちはいまだに自由を大切にしていて,だからこそどの自由を選ぶかを検討している。自由を手放したわけではない。その点を確認することは,倫理的に問題のある政策にストップをかけるための足場になってくれるはずです。

――書籍『公衆衛生の倫理学』では,各トピックについて結論を示さずに,みんなで考えましょうといった形で,政策決定における市民参加を重視するスタンスが貫かれています。それはなぜでしょうか。

玉手 第一には,いずれの問題も結論を出すのが難しいからです。先に述べたようにアルゴリズムでの解決が期待できない以上,議論を重ねるしかない。加えて世の中のことをわかっていたいという欲求は,多くの人が持っているのではないかとの考えが根底にあります。私は東日本大震災の当時,東北地方で学生をしていたのですが,震災への対応を巡っては,いつの間にか事が進んでいく感覚を抱きました。気が付けば立ち入り禁止区域が指定されていたり,防波堤ができていたり。対案があるわけではないのですが,どのような経緯で対応がなされていくのか,事前に知っておきたかったと感じました。結果が変わるかどうかにかかわらず,知って,考えたかった。私たち人間には知性と心があるのだから,それを使って世の中に対する見方の解像度を上げたほうが不安も少ないし,納得して生きられるのではと思います。

 書籍では,公衆衛生倫理に関する問題系の論点整理を心掛けました。人々が市民として今目の前で起こっている事態をより良く理解するための補助線を引ければとの思いからです。哲学者ウィトゲンシュタインは,哲学の仕事は私たちの物の考え方をくっきりさせることだと言いました。多くの人が陥ってしまう思考の混乱やもやもやを哲学を通じて晴らすこと,それが各自が「良く生きる」ことにつながるのだと。公衆衛生倫理を巡る問題に関して,医療者はもちろん一般の方に対しても,自身が同様の働きをできていればうれしいです。

(了)


1)玉手慎太郎.公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか.筑摩書房;2022.

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学習院大学法学部 教授

2014年東北大大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。東大大学院医学系研究科生命医療倫理教育研究センター特任研究員等を経て,21年より現職。専門は倫理学。近著に『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』(筑摩書房)。

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