医学界新聞


勇気を持った者だけが失敗できる

寄稿 紙谷寛之,三澤園子,河野恵美子,番匠谷友紀,草野央,笹原潤

2023.01.09 週刊医学界新聞(レジデント号):第3500号より

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 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。患者さんや指導医から叱られて落ち込んだり,何度も失敗してしまう自分が嫌になったりしてはいませんか?

 けれど皆さんの失敗は,日々勇気を出してチャレンジしている証しです。サッカー元イタリア代表のロベルト・バッジョは「PKを外すことができるのは,PKを蹴る勇気を持った者だけだ」と言いました。失敗を恐れず挑戦し続ける姿勢は,きっと将来の成功を呼び込んでくれるでしょう。

 新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきます。

①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

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旭川医科大学外科学講座 心臓大血管外科学分野 教授

①1997年に北海道大学を卒業し,地元北陸で心臓外科医として働くべく金沢大学第一外科に入局しました。学生時代はクロスカントリースキーと麻雀に明け暮れる日々で,実習出席率も低く,極めて不真面目な学生でありました。金沢大学に入局後,同期の皆さんの知識量に圧倒され,もっと勉強しておけば良かったと後悔するばかり。何とかその差を埋めようと,心臓外科へのローテ中は自発的に当直を買って出て,ひと月に28日当直をしたこともありました。

 慢性的な寝不足の中,とある手術を第4助手として見学していたところ,はっと気がつくと上司が烈火のごとく怒っています。事態を把握するのに少し時間を要しましたが,なんと私は手術中に頬杖をついて居眠りをしていたのです。私は患者さんの頭側の器械台のすぐ横に立っていて,確かに肘を掛けるにはそこがベストポジションだったのですが,もちろん言い訳にはなりません。その後しばらくは,手術の際にガウンの両前腕をペアンで胸部に固定されることになりました。今思い出しても恥ずかしいことこの上ないです。

 その後,やはり短時間であっても睡眠はしっかりとらねばと思い,超短期間作用型の睡眠導入剤を服用するようにしてみました。確かに一瞬で眠りにつけるのですが,ある朝ICUで上司に激怒されることになります。当時,心臓手術後の患者さんは3時間おきに冷水注入法による心拍出量測定,動脈ガス分析に基づいたカリウムとpH補正を行うルールとなっていましたが,私が午前3時に出したカリウム補正指示の桁が間違っていたのです。その時は私の指示が異常なことにベテランナースが気づき,すぐに他の医師に修正をお願いしたので大事には至らなかったのですが,翌朝事態を知った私は心の底から恐怖を覚えました。以後,その手の薬は一切飲まないようにしています。

②そういうわけで,私ほど使えないばかりでなく危険な研修医もいなかったと思いますが,最初にお世話になったオーベンである竹村博文先生(現金沢大学心臓血管外科教授)には優しく,時に厳しくご指導いただき,医師としての基本を学ばせていただきました。また,竹村先生がニュージーランドに留学される際,海外留学への憧れ,それをかなえるための具体的努力などを聞き,自分も将来海外で働いてみたいと強く思うようになりました。それが後にドイツで10年間働く原動力になったように思います。

 竹村先生だけでなく,金沢大学第一外科では本当に多くの素晴らしい上司・同僚・後輩に恵まれました。私は特に深く調べもせず,北陸と言えば金沢大学だろうくらいの気持ちでアポも取らずに医学部6年生の春休みに訪局しました。そして当時医局長であった大村健二先生(現上尾中央総合病院栄養サポートセンター長)の熱烈な勧誘を受け,その場で入局を決めることになります。あの時大村先生とお会いしていなければ私の人生はだいぶ違ったものになったと思います。感謝してもしきれません。

③ベタで恐縮ですが,安室奈美恵の『Can you celebrate?』を聴くと,研修医時代のあの頃を思い出します。大学時代の友人たちとの別れに伴う寂しさ,札幌にいる恋人との将来の不安,ほとんど知り合いがいない金沢での孤独感,そしてもちろんこれから待っている未来に対する期待感などが入り混じった心境でした。ちなみに,その恋人とは研修医1年目の終わりに結婚しましたが,結婚式場でこの曲を使わせていただきました。

④私ほどろくでもない研修医はいなかったように思いますが,それでも25年間外科医であり続けられています。どんなにつらいことがあっても,どんなに自信を失っても続けていればそのうち道は開けてきます。皆さんもくじけずに頑張ればきっといいことがあります。頑張ってください。

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写真 研修医1年目の1997年4月に開かれた観桜会にて。後列中央に立っているのが筆者。

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千葉大学大学院 医学研究院 脳神経内科学 准教授

①脳神経内科へ進路を決めて数か月後,「失敗した~」と思いました。病歴や臨床症状から病変局在を同定して診断するというプロセスに興味を持ち診療科を選択しましたが,診察も診断も「難しいじゃん……」。しかも,診断しても「治らないじゃん……」。実際に働いてみて,現実に直面しました。「打腱器5年」と言われ,がっくりです。けれど,面倒見の良い先輩方と個性豊かな同級生にもまれて勉強するうちに,診察と診断が少しずつわかるようになりました。そして,脳神経内科疾患において患者さんの病状を知る一番の近道は「患者さんに聞くことと触れること」だと実感するようになったのです。まさに脳神経内科は患者さんに寄り添う領域であり,自分の選択にやりがいと誇りを持てるようになりました。

 月日は流れ,今までは治すことのできなかった脳神経内科領域の疾患が,どんどん治せるようになってきています。これまでは診断後に寄り添うことしかできなかった疾患も,私たちが早期に診断し治療を開始することで予後を格段に良くすることができます。そんな革新的進歩が次々に実現される時代を臨床研究医として経験できることは,サイコーにエキサイティングです。

②3年目に赴任した病院の部長は,自分の考えを持たない「ただの質問」には絶対に答えてくれず,「自分の考えとその根拠」を必ず求められました。この経験が私の主体的に考える姿勢を育ててくれたと思います。

 「主体的」に自分の頭で考えることにはとても多くのエネルギーが必要です。日頃からトレーニングをしていないと,特にしんどくなります。ですが「主体的」な姿勢で仕事に臨むと,どんな仕事にもやりがいや楽しさを感じます。

③ミュージカル「Annie」の主題歌『Tomorrow』です。長男が生まれてから8週後に仕事に復帰し,仕事と家庭の両立がとてもつらかった頃のことです。子ども向けの音楽CDにこの曲が入っており,出勤時の車の中で半分泣きながら毎日聴いていました。その後長女も生まれ,子どもたちもみんなこの歌が大好きです。子どもは気に入ると「もう1回,もう1回」ってリクエストしてくるんですよね。3人で車の中で歌いながら保育園に向かったのは良い思い出です。

「The sun will come out tomorrow. So you gotta hang on 'til tomorrow, come what may!」

④ワークライフバランスも大切ですが,職業人として自分への投資も大切です。時間も体力も気力も好奇心も無限大という時期は,ずっとは続きません。若い頃の自分への投資は将来の大きなリターンへと必ずつながります。働き方改革により過剰な労働は厳しく制限されるようになってきました。自由に使えるようになった時間を楽しいことで消費するのも良いですが,未来の自分の時間単価を上げられるように,自己投資に回すという視点も忘れずに持っていただければと思います。

 組織の中で生きていると恵まれないと感じることも時にあります。けれどしっかり実力を身につけられれば,どの組織でも生きていけるようになります。どこかに依存する必要のない,組織にニュートラルに生きられる人材になれると最強です。

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写真 2015年の日本医学会総会のランチョンセミナーで。臨月で臨みました。

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大阪医科薬科大学 一般・消化器外科 助教

①子育て女性消化器外科医のパイオニアとして取り上げられることの多い私ですが,実は乳癌診療がやりたくて外科の門を叩きました。乳腺は非常に奥が深く,女性という特性が生かせると考えていたからです。しかし1年3か月の専業主婦を経て就職した病院で「お子さんがいるなら先生は乳腺外科希望ですよね」と言われ,“なんじゃそりゃ”と思い,とっさに「いえ,一般・消化器外科です」と答えてしまいました。この一言で私の運命は決まってしまったのです(汗)。「そんな理由で消化器外科に決めたんか?」と言われそうですが,事実です。後期研修医の時に一緒に働いていた先生方と久々に再会した時に「先生,乳腺外科やってないの?」と聞かれ,理由を説明するのがとても恥ずかしかったことは言うまでもありません。「私,アホなんです……」と答えるのが精一杯でした(笑)。

②出産後,育児支援が進んでいる病院に就職しましたが,消化器外科では育児中の女性外科医は主治医になることも外来を担当することも許されませんでした。外科主任部長に退職を申し出た時,「君は辞めたらあかん」と言って全力で引き止めてくださったことを今でも鮮明に覚えています。これ以上出勤できないという私に,部長は「出勤しなくていいから朝8時に俺に電話してくれ,そうでないと君は本当に辞めてしまいそうな気がする」と言い,翌朝から部長との根比べが始まりました。結局私は根負けする形で復帰することになり,しばらくは部長の専門である呼吸器外科で勤務することになりました。

 ある日,部長からPHSに連絡があり,呼吸器外科医と私が当直室に集められました。部長は入ってくるなり「河野先生が最初に受け持つのにいい患者さんが来たぞ!」と言いながら胸部CT画像をシャウカステンにかけ,うれしそうにプレゼンしてくださったのです。あの姿は一生忘れることができません。部長からは「外科医は絶対逃げたらあかん。一度逃げたら逃げ癖がつく」とよく言われました。今でも仕事で苦しいことがあるとその言葉を思い出します。

③徳永英明の『MYSELF~風になりたい~』。20歳の時に交通事故に遭い,その時に聴いていた曲です。人生には限りがあり,明日の生命の保障はどこにもないということを知りました。その時から「明日死んでも後悔しない生き方をしよう」と心に決め,現在に至ります。

④私の大好きな言葉を皆さんに贈りたいと思います。

A man is not finished when he is defeated. He is finished when he quits.(Richard Milhous Nixon)

Anyone who has never made a mistake has never tried anything new.(Albert Einstein)

 人生は一度きりです。頑張ってください!

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写真 卒後5年目。中央が筆者。当時は乳腺外科医になろうと思っていました。

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公立豊岡病院但馬救命救急センター 副センター長兼救急集中治療科副部長

①私は卒後17年目の救急医で,今や「どんな場面でも焦らない」「度胸ありそう」「手技も速くて失敗しない(ドクターXか!?)」と思われています(たぶん)。でも実は小心者で,緊張すると声が枯れたり手が震えたりするので,人知れず失敗と努力を積み重ねてきたんです! そんな私の,今だから言える苦い経験をご紹介します。

1.研修医時代の初めてのルンバール。一発で穿刺は成功し,後は髄液を回収するだけ……だったはずが,「脊髄腔内に入った,うまくいってる!」と思った瞬間から手の震えが止まらない……。髄液採取のスピッツ幅より手が震えるので,採取が全然できないのです。口では冗談を言えるのに,震えが止まらず焦る一方でした。結局,見かねた上級医が手技交代してくれました。非常に恥ずかしかったです。

2.研修医1年目の4月。まだ医師の格好もコスプレのような時期です。少しでも役に立とうと,上司の書類仕事や指示出しの代行をして,一見仕事が速い雰囲気で上司に気に入られ,満足していました。でも,指示内容はコピー&ペーストばかり。例えば抗菌薬も種類等をしっかり考えるのではなく,「いつもの」処方をそのまま行っていました。ある日,他の医師に「先生は,秘書じゃないんやで。今のままで本当に良いの?」と注意を受け,返す言葉もなく反省。メッキがすぐにはがれ痛い目を見た瞬間でした。

3.産婦人科当直(見習い期間)に,過多月経の患者さんの診察をした時のこと。内診で「何か普段と違うな?」と思いつつも,すぐに上級医に報告しませんでした。採血でHb 3 g/dLと貧血著明だったため緊急入院になり,その後上級医が診察すると筋腫分娩と判明。緊急手術になりました。「何かおかしいと思った時は,すぐに相談しないといけないな」と猛反省しました。

②研修医2年目の当直の夜,産科出血(弛緩出血)の急変で呼ばれました。血まみれの病室に2番目に到着しましたが,何をしたら良いかわからず,上級医からの指示を待つことしかできませんでした。結局助けることができず,産んだ赤ちゃんを抱かせてあげることもできませんでした。それまで産婦人科医をめざして研修をしてきましたが,将来もし同じ急変が起こった時に助けられるのか? と悩んだ結果,進路を変更し,救急の世界へ飛び込む決断をしました。私の医師人生を大きく変えた,これからも一生忘れることのできない患者さんです。

④医学生の皆さんへ。勉強はもちろん大事だけれど,学生生活を楽しんで! 部活,バイト,旅行,恋愛,趣味,何でもいい。いろんな経験が必ず人を豊かにし,医師になってからの役に立つはず。例えば私の場合は,バスケットボール(部活動)に注力した学生時代でしたが,プレー時の広い視野や判断力,部長時代に培ったメンバーをまとめる力や決断力が,救急の重症患者対応に役立っていると感じています。

 研修医の皆さんへ。失敗談にも書いた通り,今は一丁前を気取るのではなく,しっかりと根拠を持って判断できるよう,努力する時期です。ホウレンソウ(報告・連絡・相談)も忘れずに。手技をする時は,事前のイメージトレーニングはしっかりしましょう。それでも失敗することもあるけれど,努力の上の失敗は,次につながるはず。何事も経験は多いほうがいい。いろいろなことに興味を持って,たくさんの患者さんを診察しましょう!

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写真 小児科研修中。担当になったお子さんと。

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北里大学医学部 消化器内科 主任教授

①私は2000年に北里大学を卒業後,東京女子医科大学病院消化器病センター消化器外科へ入局しました。私の父が外科医だったため,外科の道を進んでみたいと考えており,また外科の先生の「外科はつぶしが効くから大丈夫」という今思えば詐欺まがい(?)の誘い文句もあり,入局しました。それからの日々はまさに激動で,入局当初の帰宅は2週間に1回,当直の帰りに家にちょっとだけ寄って着替えを持っていく程度です。また当時は,注射箋をはじめとするあらゆるオーダーが手書きで,「字が汚くて読めない」と言われて何度も書き直しをしたものでした。完全に写経の毎日です。何かあればポケットベルで呼び出しがあり,あまりの呼び出しの多さに嫌気がさしてコールバックを忘れたふりもよくしていました。アナログで手間暇がかかる分,医師,看護師,その他の医療スタッフとのチームワークが求められる環境でしたが,そこで人間の機微を学んだように思います。「あの受付の人を押さえないと検査が早く予約できない」とか「あの看護師さんに差し入れしておくと,点滴を入れてくれる」とか。いかに情報を仕入れて駆使するか。そしてその工夫がうまくいった時のうれしさ! この経験は,外科を離れた今でも大きな武器になっていると自負しています(笑)。

 さてさて,外科の道はというと,自分には全く適性がないことに早々気づきました。そこで「これからの人生,自分で食べていくために専門分野を作らなくては!」と思い立ち,国立がんセンター中央病院内視鏡科の門を叩きました。東京女子医科大学消化器外科の主任教授でいらした高崎健先生をはじめ,医局の先生方には大変なご迷惑をおかけしたことと思います。私が医局を統括する身になり,あらためて自身の行動を振り返ると「謝るしかない」という気持ちです。当時,内視鏡科のレジデント募集枠は2人で,私は3人目の志願者でした。いろいろな(大人の?)事情に鑑みると,私が落ちる予定だったでしょう。そこを,当時の内視鏡科部長が枠を一生懸命確保して,3人目の私も入職させてくださいました。これが運命の分かれ道だったと思います。がんセンターでは,「今はこんなに悲しくて,涙も枯れ果てて,もう二度と笑顔にはなれそうもないけど」という中島みゆきの「時代」の歌詞がぴったり当てはまるような,叱咤&叱咤の毎日でした。何度となく笑顔が消えていましたが,指導者ならびに仲間のおかげで何とか前に進むことができました。

 今は,日本外科学会認定登録医を持つ消化器内科医として働いています。外科時代の先輩方,内視鏡を一から全て教えてくださった後藤田卓志先生,がんセンターへ入職させてくれた斉藤大三先生のおかげで,今の私があり,大変感謝しています。結局,「外科はつぶしが効く」というのは間違いだったと思いますが,自分の進みたい道に向かって熱い気持ちを持ち続ければ何とかなるのだと,今はそう思っています。

②私が医師になって間もなく出会った患者さんです。家に帰れない,夜も満足に眠れない,試練の連続で心が不安定になっていた時期でした。そんなある日の夜間,術後の患者さんの処置に呼ばれました。その患者さんは僧侶だと聞いていました。その方は処置が終わった後,私に「大丈夫ですよ,頑張ってください」と声をかけてくださいました。「大丈夫ですよ」は自分が大丈夫なのではなく,「そんなに焦らなくてもあなたは大丈夫ですよ」という意味でした。その方は消化管癌で予後が短かったにもかかわらず,私のことを気遣ってくださったのです。きっと,私の態度も至らないものだったでしょう。その後,一人で涙を流したのを覚えています。こんなに温かく,救われた言葉はありませんでした。

③医師に成り立ての頃,退院サマリーを書く時は,いつもaikoを聴いていました。今もaikoの曲を聴くと,あの頃の気持ちに戻れます。

④若い時の苦労は買ってでもしてください。あなたの人生にとって宝となる経験が必ずできるはずです。

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写真 佐久総合病院にて開催されたセミナーにて。助手として参加しました。

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帝京大学 スポーツ医科学センター 准教授

①研修医の頃の失敗談はいくつもありますが, 思い起こされる記憶はあまりにもハードで,とても今回の紙面には載せられないものばかりです。そんな大変だった研修医時代を乗り越えてこられたのは,同期に恵まれたからと言っても過言ではありません。

②私にとってかけがえのない出会いは,入局同期の2人(Y・K君とY・Y君)との出会いです。

 ある日同期との会話で,お笑い芸人(E・I)がゴム手袋を頭から被って鼻息で破裂させるというネタの話が出た際に,これは忘年会の余興ネタとして使えそうだ,早速みんなでやってみようということになりました。手術用の滅菌グローブ(たしか8.0)を3人で同時に被ってみたところ,最も頭の大きい自分だけが(まるで手袋に魅入られたかのように)スムーズに被ることができました。まさにこの瞬間,その後数年に渡って結婚式場を席巻することになる鉄板ネタ「てぶくろさん」(後述)が誕生したのです。

 「てぶくろさん」は,Y・K君とY・Y君に出会っていなければこの世に生まれていなかったかもしれず,この出会いに心から感謝しています。

③「すきすきすきすき すきすき あいしてる

 すきすきすきすき すきすき てぶくろさん てぶくろさん」

1.中年以上なら誰でも知っているであろうこの曲に,自分たちの歌声を吹き込んだ音源を登場曲にして,白ブリーフ1枚にネクタイ姿の「てぶくろさん」がハイテンションで登場する(30秒程度)。

2.祝辞スピーチを行う(1~2分程度)。

3.先ほどの音源のフルバージョンを流す。イントロの約4秒間でブリーフの中に隠し持っていた7.5の滅菌グローブを頭に被り,鼻息で大きく膨らませる。手袋越しに会場の様子を確認し,大いに盛り上がったタイミングで,爪でこっそり手袋をひっかいて破裂させる(30秒~1分程度)。

4.割れた瞬間に音楽を止め,会場中の喝采を浴びる。

5.再び1の登場曲を流し,テンションマックスで退場する(30秒程度)。

 これが「てぶくろさん」の脚本です。2004年,研修医2年目として臨んだ忘年会の余興ネタとして書き下ろしましたが,その後いくつかの結婚式で披露するためにアレンジを加えています。たった5分ほどの小ネタですが,とある結婚式場ではスタッフの間で話題になっているとのウワサも耳にしました。残念ながらここ10数年間は披露する機会がなく,この原稿依頼をいただくまで「てぶくろさん」は私の記憶の片隅で冬眠していました。

④最近あまり見かけなくなりましたが,当時病院の近所にあったカラオケ店には,自分たちで歌った音源をCDにしてくれるサービスがありました。業務が終わった深夜に,同期3人でお酒を飲みつつ「一休さん」を熱唱していたのは今でもいい思い出です。並外れた音痴のY・Y君が歌うソロパートは,収録中笑いを堪えるのに必死でした。

 初期研修が終わった後に同期と一緒に働く機会は意外とないものです。今はコロナ禍でいろいろな制約はありますが,体力に満ち溢れた研修医時代に,同期との共有体験をたくさん積み上げてください。

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写真 結婚式の鉄板余興ネタとして愛用していた「てぶくろさん」

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