医学界新聞

対談・座談会 山崎 章郎,佐々木 淳

2022.06.06 週刊医学界新聞(通常号):第3472号より

3472_01_00.jpg
ケアタウン小平の中庭にて撮影

 「これから書かれることの幾つかは,さまざまな人々に不快な思いを抱かせるかもしれないが,事実なのだからやむをえないと思う。僕が望むことは読者を不快にすることではなく,事実を書くことによって,そのような不快な事実を変える方法を探ることだからだ」(山崎章郎著『病院で死ぬということ』文春文庫)。

 「不快な事実を変える方法を探る」過程でホスピスに希望を見いだし,在宅ホスピスケアのパイオニアとなった山崎章郎氏が,その実践の軌跡を刻んだケアタウン小平クリニックを事業承継する決断をした。その背景にどのような経緯があったのか。在宅ホスピスケアの理念と実践はいかにしてつくられたのか。ケアタウン小平クリニックを本年6月1日に事業承継した悠翔会にて理事長を務める佐々木淳氏との対談から,在宅医療・在宅ホスピスケアの未来に継ぐメッセージを探る。

佐々木 私は,当初から強い関心があって在宅医療の道に進んだわけではありません。急性期病院で経験を積んだあと大学院に進学し,その頃に始めたアルバイト先がたまたま在宅診療を行っていたのです。急性期医療の限界を感じていた当時の私にとって,病気が治せなくても幸せに生きる力を引き出す在宅医療は可能性に満ちたものでした。2006年からは在宅医療に本格的に取り組むことになり,勉強のために関連書を読みあさる中で巡り合ったのが『病院で死ぬということ』だった。これが山崎先生と私の,本を通じた最初の出会いです。

山崎 実際にお会いしたのは,それからだいぶ後かな。

佐々木 2013年に都内で開催された研修会に,山崎先生が講演すると聞いて参加しました。ケアタウン小平クリニックでの実践報告に感銘を受け,講演後は名刺交換をさせていただきましたね。研修会後は興奮冷めやらぬまま当院のスタッフと食事をして,自分たちが今後めざすべき方向性について終電間際まで語り合ったのを覚えています。

山崎 その後,看護師さんを通して講演を依頼されましたね。

佐々木 はい。当院の看護部長が山崎先生の大ファンで,彼女の強い要望もあって悠翔会が主催する「在宅医療カレッジ」で講師をお願いしました。念願かなって,先生ご自身の死生観をテーマにした講演が2015年に実現したわけです。医療に携わる上での原点を教えられた体験でした。

山崎 講演依頼を受けて,同じ価値観を共有できているようで私としてもうれしかったです。講演当日は緩和ケア医()に転向する契機となったキューブラー・ロス氏との対話をもとに,スピリチュアルケアについて話しました。そして講演後の懇親会で悠翔会の理念や実践を知ることによって,さらに深いところで通じ合えた気がします。

3472_01_02.jpg
(写真左)1988年2月の米国視察にて,山崎氏憧れのキューブラー・ロス氏との対面。
(写真右)2005年にケアタウン小平クリニックの開設後,在宅診療の様子。

佐々木 講演録を書籍(『在宅医療カレッジ――地域共生社会を支える多職種の学び21講』医学書院)としてまとめる過程でも,山崎先生とは何度かやりとりをさせていただきました。ただ,私にとって先生は“雲の上の人”です。こちらからお願い事をするのは畏れ多くて,2018年の書籍発行後はしばらく疎遠になってしまった。それもあって,昨年10月に山崎先生からご連絡をいただいた時は驚きました。しかも「会って話したいことがある」と言うだけで,要件をはっきりおっしゃらない。

山崎 わざと曖昧にしたね(笑)。

佐々木 書籍の共同執筆のお誘いかとも想像しましたが,いずれにせよ声を掛けていただいたのがうれしくて,待ち合わせ場所に向かいました。

山崎 新宿の京王プラザホテルでしたね。そこで私は,ケアタウン小平クリニックの事業承継を打診すると同時に,私がステージ4の大腸がん患者であることを打ち明けました。

 実は佐々木先生と面会する2か月ほど前,深夜に急激な腹痛に襲われて緊急入院となりました。急性虫垂炎の悪化による腹膜炎と診断され,その後の手術や療養を経るうちに24時間対応の診療に不安を感じるほどの体力の低下を自覚したのです。

 その頃はちょうど,70代後半に差し掛かろうとする自分の年齢やステージ4の大腸がんとの向き合い方を通して,残された人生でやるべきことを考えていた時期でした。ケアタウン小平クリニックはこれまで,24時間・365日対応の在宅緩和ケアを常勤医3人体制で提供してきたわけです。でもそのうち1人が,個人的事情で年内に辞めることが決まっていた。さらに私自身も,健康面で不安を抱えている。これでは24時間体制を維持するのは難しかろうと。閉院も頭をよぎったものの,後ろ向きの選択に思えたし,何よりも在宅緩和ケアを必要としている患者さんがいる。何とかしたいけど,どうにもできない。絶望的な気持ちになった時に浮かんだのが,佐々木先生の顔でした。

佐々木 お話を伺った当初は,気持ちの整理が難しかったのが正直なところです。ただそれと同時に,事業承継を辞退して閉院になったり,山崎先生の理念とは相いれない医療法人に買収されたりするのも不本意な気持ちでした。

山崎 私としても,理念を共有できる人に後を託すことを第一に考えていました。またこれまでの交流を経て,佐々木先生および悠翔会とは理念を共有していると思っていました。その理念とはつまり,「病気になっても住み慣れた地域で安心して過ごせること。そのために最期まで多職種で支えること」。実際に事業承継の話を佐々木先生に持ち掛けたところ,私たちの長年の取り組みを評価してもらえてうれしかったです。

佐々木 「ケアタウン小平クリニックは緩和ケア医をめざす若手医師にとって聖地であり,大変光栄です」とお返事をしましたね。実際その後に当院の緩和ケア専門医が切望して,ケアタウン小平での診療を始めました。われわれの世代にとっては憧れの場所で,素晴らしい機会をいただけたことに感謝しています。

佐々木 山崎先生は1990年に『病院で死ぬということ』を上梓し,当時の一般病院における終末期医療の現状を世に問うと同時に,その現状を変えることのできる緩和ケア病棟の重要性を訴えました。今となっては終末期医療における個人の尊厳について課題が認識されているものの,当時としてはセンセーショナルな内容だったのではないでしょうか。

山崎 相当な覚悟をしましたよ。別に内部告発するつもりで書いたわけじゃないけれども,そういう受け止め方をする人もいると思った。でも想像以上に同意してくれる医療者がいて,社会からも評価を受けたおかげで,医師としてのキャリアがついえずに済みました。それで翌91年には16年間の外科医生活に別れを告げ,緩和ケア医として働き始めることができたのです。

 そうやって緩和ケアの重要性については確信が増す一方で,施設での緩和ケアの限界も感じるようになりました。「本音を言えば,家に居たかった」という患者さんが少なからずいたからです。患者さんにとって緩和ケア病棟はやっぱり“アウェー”なんですよね。

佐々木 アットホームな雰囲気の素晴らしい緩和ケア病棟であったとしても,やはり家が恋しい。本音を知って,見て見ぬふりはできなかったのですね。

山崎 ずいぶんと悩んだ末,緩和ケア医として10年が経過した時点で1年間休職し,海外も含めて答え探しの旅に出ることにしました。そこで得た結論はシンプルなものでした。「緩和ケア病棟で患者さんが来るのを待つのではなく,在宅での緩和ケアを望む患者さんの住まいに多職種チームが出向けばいい」。ただし,患者さんの自宅を訪問する在宅緩和ケアであっても,緩和ケア病棟と変わらぬ質のケアを提供しなければなりません。そのためには,医師や訪問看護師,ケアマネジャーが患者さんの自宅を個別に訪問したとしても,戻って来る場所が同じであったほうがいい。そうすれば,顔と顔を合わせた迅速な情報交換が可能となり,緩和ケア病棟と変わらぬ多職種チームケアが担保されるはずです。

 こうした構想をもとに2005年に始まったのが,ケアタウン小平での在宅緩和ケアなのです()。ひとつの建物に地域のさまざまな事業所が集まることによって,それぞれに経営母体は異なったとしても情報交換が容易で,そして何よりも同じ理念を共有する多職種チームが成り立っている。

3472_01_03.jpg
 ケアタウン小平の1階平面図(図案=スタジオワン)
1階に在宅緩和ケアを支える事業所を集約。いつでも顔と顔が合わせられる物理的環境が整っている。在宅緩和ケア充実診療所として活動する「ケアタウン小平クリニック」,訪問看護ステーション・居宅介護支援事業所・デイサービスを展開するNPO法人「コミュニティケアリンク東京」のほか,建物としてのケアタウン小平およびアパートの管理会社,配食サービス会社という4つの事業所がケアタウン小平チームとして共存している。

佐々木 新しいことにチャレンジする際,ひとつの法人内で小規模から始めて,次第に規模を拡大するやり方を普通は採ります。けれども山崎先生の場合はまるで船で大海に漕ぎ出さんかのように,前例のなかった「在宅緩和ケア」の壮大なビジョンを描き,賛同する事業所を集めていったのですね。

山崎 もちろん,ひとつの医療法人内で医療・介護サービスを提供すれば,運営はよりスムーズになったでしょう。ただ当時の私の思いとしては,地域で活動する既存の事業所が1か所に集まって,それぞれにサービスを提供することを構想しました。なぜならそのほうが地域資源の活用になるし,高齢社会のモデルとしてふさわしいから。そういった意味で,ケアタウン小平は社会実験でもあったのです。

佐々木 悠翔会はこれまで,主に都心部で在宅ケアを必要とする多くの患者さんを長期に支えることを使命としてきました。そのため,さまざまな訪問看護ステーションと連携しながら,効率的なオペレーションで訪問診療を行う必要がありました。これに対しケアタウン小平クリニックで診療を行うに当たっては,短期集中型の在宅緩和ケアを,ひとつ屋根の下で長年協働してきた事業所と手を組んで提供することになります。

 展開拠点が拡大した今,私たちが今後強化しなければならないのは,拠点ごとに最適化する形で地域に向き合っていくことでしょう。ケアタウン小平ではこれまでに醸成されてきた文化を尊重し,ここでのやり方を教えていただくつもりで地域に向き合っていきたいと考えています。

山崎 安心してお任せできます。私たちが大事にしてきた地域社会とのつながりを悠翔会の各拠点での実践にも取り入れて発展させたなら,地域社会の新しいモデルになると期待しています。

 一方で,悠翔会のやり方から学ぶべき点もあります。医師の使命感に頼ったやり方で24時間・365日体制の在宅医療・在宅緩和ケアを続けるのは――そういった働き方を私たちの世代は違和感なくやってきたわけですが――,やはり精神的な負担が大きい。たとえ複数の医師で交代制を敷くにしても,今回の私たちのように退職者や病人が出れば,どこかで限界が来ます。

佐々木 在宅医療を始めた当初は私も,「24時間できるだけ自分で診たい」という使命感に燃えていました。患者さんが増えると常勤医を増やすほかないのですが,平日夜間と休日は私が診ました。私と同世代の医師を採用する場合,家庭の事情でこれらの時間帯の勤務が難しかったのも理由です。患者さんが800人程度になって,毎晩何度も電話がかかってくるのですね。緊急出動は平日1回・週末5回という感じで,次第に疲弊しました。

山崎 過酷ですね。

佐々木 このままでは診療の質が落ちて患者さんに迷惑をかけることに気付いて,開業して5年目の頃から他の医師にも当直に入ってもらうようにしたのです。

 でもそこで問題になったのは,医師によって緊急往診する/しないの基準が違うことでした。例えば98歳の患者さんが発熱したら,私なら往診に行きます。でも別の医師は,解熱剤を服薬して翌日まで様子を見るように指示する。翌朝に主治医が往診すると,低酸素状態に陥っているわけです。私は経営者ですから,夜間帯の対応が疎かになって法人の評判を落とすわけにはいきません。でも,他の医師は個々に事情があって,優先順位が経営者とは異なるのでしょう。

山崎 解決策は見つかりましたか。

佐々木 現在は夜間の緊急対応に特化したチームをつくっています。「医学的に往診する必然性が低くても,患者さんが不安を感じている様子なら往診する」など,いくつかルールを定めて運用しています。

 常勤医は夜間の診察がないぶん,気掛かりな患者さんは夕方までに往診して急変時の対応を患者さんやご家族と話し合っておくなど,日中の診察がより細やかになりました。夜間対応の医師からも,急変対応事例を踏まえた日中の診察へのフィードバックが入るようになり,結果的には急変対応の頻度が激減しました。当初は主治医が対応しないことに後ろめたさもあったものの,24時間・365日の安心をチームで提供するメリットも大きいと考えるようになりました。

山崎 ワーク・ライフ・バランスにも配慮した医師の働き方の新しいモデルが,これからの在宅医療・在宅緩和ケアにも必要なのでしょうね。

山崎 新しいことにチャレンジすれば,正解なんてないわけです。問題も生じるでしょう。その際に社会のニーズと真摯に向き合うことが大事で,改めて理念が問われます。今の話を聞いて,佐々木先生にクリニックを託した私の直感は間違っていなかったと確信しました。

佐々木 その意味では,山崎先生がお手本です。社会のニーズと医療のミスマッチが生じた際,放置せずに行動する。それが在宅緩和ケアの実践となり,国の施策を動かしてきた。日本ホスピス緩和ケア協会を通じて提言を行い,2016年の診療報酬改定で「在宅緩和ケア充実診療所・病院加算」が新設されたのもその一例ではないでしょうか。

山崎 これはもう私の性分で,何か引っ掛かることがあると行動せざるを得ません。最近考えているのは,訪問看護師の役割拡大です。多職種連携の中で訪問看護師が在宅緩和ケアの中核となり,誇りを持って役割を発揮できるように制度的な保障をする必要があろうと。さらにステージ4のがん当事者となって,がん患者を適切に支援する仕組みが不十分であることにも気付いてしまった。ステージ4とわかった時点で余生を静かに過ごそうかとも考えたけれど,やはり問題を放っておくことはできそうもありません。

佐々木 山崎先生がやるべきことに専念できるよう,先生から与えられた宿題に私たちの世代が正面から向き合っていくつもりです。

山崎 紙面に残るから,もう逃れられないよ(笑)。それは冗談として,私自身は新しい取り組みに自分の時間を注いでいくので,今後も温かく見守ってください。新しい取り組みに関しては,6月下旬に出版予定の『ステージ4の緩和ケア医が実践する がんを悪化させない試み』(新潮選書)をお読みいただければ幸いです。

(了)


:ホスピスケアも緩和ケアも,本質的に同義であるが,近年では緩和ケアという表現が一般化している。山崎氏に確認の上,本文では,ホスピス医は「緩和ケア医」,施設ホスピスは「緩和ケア病棟」,在宅ホスピスケアは「在宅緩和ケア」と表記した。

3472_01_04.jpg

医療法人社団悠翔会 ケアタウン小平クリニック名誉院長

「ケアタウン小平は,地域資源の活用と高齢社会のモデルとなることをめざした社会実験でもあった」

1975年千葉大医学部卒。同大病院第一外科,国保八日市場(現・匝瑳)市民病院消化器科医長を経て,91年聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長(97年より2022年3月まで聖ヨハネホスピスケア研究所所長を兼任)。2005年にケアタウン小平クリニックを開設し,在宅緩和ケアに尽力する。22年6月1日より現職。『病院で死ぬということ』(主婦の友社,現・文春文庫)で第39回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。日本ホスピス緩和ケア協会監事。日本死の臨床研究会顧問。

3472_01_05.jpg

医療法人社団悠翔会理事長

「山崎先生は社会のニーズと医療のミスマッチを放置せず行動する。それが国の施策を動かしてきた」

1998年筑波大医学専門学群卒。三井記念病院内科・消化器内科などを経て,2006年に在宅療養支援診療所「MRCビルクリニック」開設。08年に医療法人社団悠翔会として法人化・理事長に就任。悠翔会は現在,首都圏近郊に18拠点,鹿児島県(与論島)と沖縄県に各1拠点の全20拠点を置き,常時6600人以上の患者を24時間体制でサポートしている。編著に『在宅医療カレッジ――地域共生社会を支える多職種の学び21講』(医学書院)など。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook