医学界新聞

寄稿 牛田 享宏

2020.11.02  週刊医学界新聞(通常号):第3394号より



【寄稿】

集学的痛み診療の普及と教育の推進を

牛田 享宏(愛知医科大学医学部学際的痛みセンター 教授)


 痛みは誰しもが経験するものである。痛みの研究の歴史は古く,古代ギリシアの哲学者アリストテレスや17世紀オランダの哲学者のスピノザは,痛みを感覚ではなく「情動」ととらえた。一方,心身二元論を唱えた哲学者のデカルトは,痛みは「感覚」であり,身体に起こる異常が神経伝達され心がとらえたものとした。

 長い年月を経て1979年に国際疼痛学会(IASP)は当時の研究状況をまとめ,痛みを「組織損傷を表わす言葉を使って述べられる不快な感覚・情動体験」と定義した。しかし,痛みにかかわる末梢組織から脳内の分子・遺伝子的解析が進み,末梢神経末端の侵害受容器の炎症や機械刺激を受けて生じる侵害受容性疼痛(Nociceptive Pain),体性感覚神経系の傷害や疾病で生じる神経障害性疼痛(Neuropathic Pain)に加えて,まだ日本語名が決められていないが,神経の感作によって生じるNociplastic Painのような病態・概念が近年明確化されてきた。また,脳機能画像をはじめとした神経科学の研究から,痛みを言語化・表出できない人や動物も同じような経験をしていることが解明され,IASPの旧定義はさまざまな指摘を受けるところとなった。

「痛み」の定義41年ぶりの改定で意味が明確に

 そこでIASPは数々の指摘を踏まえ本年7月に,「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する,あるいはそれに似た,感覚かつ情動の不快な体験」(日本疼痛学会訳)と痛みの定義を41年ぶりに改定した。「痛みの原因について身体の問題でなければ心(精神・心理)の問題⇔心(精神・心理)の問題でなければ身体の問題」と考える,デカルトが唱えた心身二元論的な考え方にしばしば影響を受けてきた疼痛研究と痛み診療分野に対し,今回の改定は現在の解釈における「痛み」の意味を明確に示す内容になった。

 また,定義の付記には,①痛みは常に個人的な経験であり,生物学的,心理的,社会的要因,生きてきた経験によってさまざまな影響を受けるものであること,②「痛覚を伝達する神経系が活動すること(=侵害受容ニューロンの興奮)」と「痛みがあること」とは異なること,③痛みを経験しているという人の訴えは重んじられるべきこと――などが示された。

 オピオイドなどにより痛覚伝達メカニズムを抑制することで鎮痛を得る治療が現代医療においてしばしば行われている。その一方でオピオイド依存をはじめとした治療による弊害が生じているのも確かである。これらの付記は,外側からはわかり得ない患者の痛みをどう理解するかだけでなく,わかり得ない痛みに対する医療者・研究者の取り組みの方向性も示されたと考えられる。

集学的な診療拠点の全国展開でチームアプローチを加速したい

 本邦も含めて多くの国で行われた調査から,長引く痛みである「慢性疼痛(3~6か月以上続く痛み)」に全人口の9~23%が苛まれていることがわかっている1)。慢性疼痛は骨関節の変形や神経障害など身体の器質的な要因が注目されがちだが,心理的な要因や社会的要因も含めた痛みによる行動変化も相まって,痛みが長期化している病態とされている。

 大阪行岡医療大学の三木健司らのグループは,難治性慢性疼痛で整形外科外来を受診した患者全例を精神科専門医が診察し診断したところ,95%の患者に身体症状症やうつなどの精神疾患が併発していたことを報告している2)。現在の疼痛医学では,慢性疼痛でみられる「痛み」は純粋な身体の異常を患者に知らせるシグナルとしての役割を有さず,痛みの悪循環などの要因になっている状態と位置付けられている。したがって,慢性疼痛はオピオイドなど,前段の薬物療法だけで侵害受容ニュ...

痛みは誰しもが経験するものである。痛みの研究の歴史は古く,古代ギリシアの哲学者アリストテレスや17世紀オランダの哲学者のスピノザは,痛みを感覚ではなく「情動」ととらえた。一方,心身二元論を唱えた哲学者のデカルトは,痛みは「感覚」であり,身体に起こる異常が神経伝達され心がとらえたものとした。

長い年月を経て1979年に国際疼痛学会(IASP)は当時の研究状況をまとめ,痛みを「組織損傷を表わす言葉を使って述べられる不快な感覚・情動体験」と定義した。しかし,痛みにかかわる末梢組織から脳内の分子・遺伝子的解析が進み,末梢神経末端の侵害受容器の炎症や機械刺激を受けて生じる侵害受容性疼痛(Nociceptive Pain),体性感覚神経系の傷害や疾病で生じる神経障害性疼痛(Neuropathic Pain)に加えて,まだ日本語名が決められていないが,神経の感作によって生じるNociplastic Painのような病態・概念が近年明確化されてきた。また,脳機能画像をはじめとした神経科学の研究から,痛みを言語化・表出できない人や動物も同じような経験をしていることが解明され,IASPの旧定義はさまざまな指摘を受けるところとなった。

そこでIASPは数々の指摘を踏まえ本年7月に,「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する,あるいはそれに似た,感覚かつ情動の不快な体験」(日本疼痛学会訳)と痛みの定義を41年ぶりに改定した。「痛みの原因について身体の問題でなければ心(精神・心理)の問題⇔心(精神・心理)の問題でなければ身体の問題」と考える,デカルトが唱えた心身二元論的な考え方にしばしば影響を受けてきた疼痛研究と痛み診療分野に対し,今回の改定は現在の解釈における「痛み」の意味を明確に示す内容になった。

また,定義の付記には,①痛みは常に個人的な経験であり,生物学的,心理的,社会的要因,生きてきた経験によってさまざまな影響を受けるものであること,②「痛覚を伝達する神経系が活動すること(=侵害受容ニューロンの興奮)」と「痛みがあること」とは異なること,③痛みを経験しているという人の訴えは重んじられるべきこと――などが示された。

オピオイドなどにより痛覚伝達メカニズムを抑制することで鎮痛を得る治療が現代医療においてしばしば行われている。その一方でオピオイド依存をはじめとした治療による弊害が生じているのも確かである。これらの付記は,外側からはわかり得ない患者の痛みをどう理解するかだけでなく,わかり得ない痛みに対する医療者・研究者の取り組みの方向性も示されたと考えられる。

本邦も含めて多くの国で行われた調査から,長引く痛みである「慢性疼痛(3~6か月以上続く痛み)」に全人口の9~23%が苛まれていることがわかっている1)。慢性疼痛は骨関節の変形や神経障害など身体の器質的な要因が注目されがちだが,心理的な要因や社会的要因も含めた痛みによる行動変化も相まって,痛みが長期化している病態とされている。

大阪行岡医療大学の三木健司らのグループは,難治性慢性疼痛で整形外科外来を受診した患者全例を精神科専門医が診察し診断したところ,95%の患者に身体症状症やうつなどの精神疾患が併発していたことを報告している2)。現在の疼痛医学では,慢性疼痛でみられる「痛み」は純粋な身体の異常を患者に知らせるシグナルとしての役割を有さず,痛みの悪循環などの要因になっている状態と位置付けられている。したがって,慢性疼痛はオピオイドなど,前段の薬物療法だけで侵害受容ニューロンを抑制すれば疼痛が改善して,普段の生活に戻れるような病態でないことが明らかになっている...

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愛知医科大学医学部学際的痛みセンター 教授

1991年高知医大(当時)卒,95年同大大学院医学系研究科修了。南国中央病院,高知大医学部整形外科勤務,米国留学を経て,2007年より現職。12年から愛知医大医学部運動療育センター長を兼任。慢性の痛みに対して集学的な治療・研究・教育を行う。日本疼痛学会理事,日本いたみ財団幹事。国際疼痛学会の痛みの定義改定に日本の代表として参画した。『疼痛医学』(医学書院)を監修。

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