医学界新聞

対談・座談会 清水 千佳子,田代 志門,桜井 なおみ

2020.10.19



【座談会】

がん医療に必要な臨床倫理

清水 千佳子氏(国立国際医療研究センター病院がん総合診療センター 副センター長)
田代 志門氏(東北大学大学院文学研究科社会学専攻分野 准教授)
桜井 なおみ氏(キャンサー・ソリューションズ株式会社 代表取締役社長)


 がん医療は近年さまざまな治療法や検査法の開発が進んだことで診療の選択肢が広がる一方,治療方針の決定に患者の参加が求められ,臨床倫理を問われる場面が増加している。新たに生まれた臨床倫理的な問題に対し,医療従事者はどのような感覚を磨いておくべきなのだろうか。

 このほど,がん医療の世界の最先端を行く,米テキサス大MDアンダーソンがんセンターのメンバーによって編まれた臨床倫理テキストの翻訳版『がん医療の臨床倫理』(医学書院)が上梓された。監訳を務めた国立国際医療研究センターの清水氏を中心に,臨床倫理の研究者の立場から田代氏,がん患者当事者の立場から桜井氏の3氏が,これからのがん医療における臨床倫理の在り方を議論した。


がん医療に起きたパラダイムシフトの功罪

田代 がん医療の現場では,確かな正解にたどり着きがたいジレンマを抱える状況に出合うことは多々あると思います。例えば医師と看護師の関係や医師と患者さんの関係,患者さんとそのご家族の関係など,挙げ始めたらきりがありません。清水先生は以前からそうした場における臨床倫理の重要性を説かれていますが,そもそも倫理にかかわる問題を意識したのはいつ頃ですか。

清水 きっかけは,チーフレジデント時代の2003年に担当した,ある若い女性患者さんとの出会いです。彼女は根治のための選択として最善策と思われた術後化学療法をためらっていました。それは自身の妊孕性に影響が出るためです。それまでがんの予後の改善を第一に考えて治療に当たることが最善と考えてきた私にとって,次代に生命をつなぐことを優先した彼女の選択にハッとさせられました。この体験が私の臨床倫理への関心の原点です。

田代 なるほど。私は,2000年代初頭を日本の医療における一つの転換期だと考えています。例えばQOLやインフォームドコンセントの概念が,現在のような形で日本の医療現場に定着したのがちょうどその頃です。「疾患の治癒以外にも重要なことがあるのではないか」という考え方が浸透し始めました。

桜井 がんの病名告知が話題となったのも同じくらいですね。

田代 ええ。がんの病名告知は1990年代からがんの専門病院でいち早く導入されましたが,一般的になったのは2000年代からと言えるでしょう。患者さんの人生と生活の事情を考慮して医療を組み立てなければならない,というパラダイムシフトが起きていたと考えられます。

清水 同じ頃にインターネットが普及し始め,診療ガイドラインも公表されるようになったと思います。医療情報へのアクセスが手軽になり,医療従事者と同じレベルの医療情報を患者自ら入手できる環境になりました。患者さんから見える医療の姿は大きく変容したはずです。

桜井 私は2004年に乳がんと診断されました。印象に残っているのは「これから難しい決断をしなければならない場面がたくさん出てきます。一緒に考えていきたいので,薄くてよいから乳がんの本を一冊読んでください」という主治医からの言葉です。告知された当時私は37歳で,単に治癒を目的とした治療法の選択だけではなく,妊孕性や経済面などさまざまな問題も踏まえた判断を下さなければならず,頭を抱えたことを覚えています。ただ振り返ってみれば,今ほどはまだ選択肢が多くなかったと思います。今の患者さんは,より深く,より多くのことを,タイミングを逃さずに考えなくてはなりません。

清水 当時は大規模なRCTで有効性が示されれば全員がその治療法を選択していましたし,診療ガイドラインが策定されたことでがん医療の標準化が進展しました。一方で,医療事故訴訟を通して医師が防御的になったせいか,いつしか診療ガイドラインの推奨グレードに従った治療を行うことが目的化してしまい,患者との対話の乏しいがん医療が行われるように変化していきました。もともと診療ガイドラインは診療の道標を示す役割に加え,診療に迷いが生じた時の対話の材料を提供する役目を担うことをめざし策定されたはずです。しかし後者の役割は忘れ去られてしまったのです。

田代 診療ガイドラインの推奨レベルが高くない治療選択をすると罪悪感を抱く医師も出てきましたね。がん医療の標準化に診療ガイドラインが果たした役割は大きい一方で,医師が過度に予防線を張るようにもなってしまった。

桜井 本来の診療ガイドラインが策定された意義からの乖離が起きていますね。

清水 この状況に鑑みて,一部の学会ではすでに医師と患者さんとのSDM(Shared Decision Making)を前提としたガイドラインの見直しが始まっています。診療ガイドラインの本来の意義を取り戻すため,同様のコンセプトの導入がさらに広まることが望まれます。

シンプルに「患者の最善」を考えにくい状況がある

田代 少し前置きが長くなりましたが,昨今のがん医療の状況を共有できたと思います。では本題に戻って,臨床現場で倫理的な問題が浮上してくるケースとはどのようなものなのでしょうか。

清水 よくある例を挙げれば,がんの終末期に抗がん薬を投与し続けてほしいと考える患者さんと,患者さんの状態を総合的に判断して抗がん薬投与を中止すべきと考える医師の間ですれ違うというものです。このケースでは,患者の意思を尊重し希望通りに対応すべきとの意見もあるでしょうし,医師として絶対に抗がん薬は投与してはならないという意見もあるでしょう。「そもそも医師と患者間の意思疎通が図れていないためにすれ違いが起きるのでは?」とのコミュニケーション不足を指摘する意見も出るかもしれません。思うところは人それぞれだと思います。

 このように医師と患者の意見が食い違うような問題に対しては多角的な視点での議論が必須で,医療従事者間で積極的に話し合うだけでなく,患者さんやご家族とも深く話し合う必要があります。診察室の中で時間を掛けず一方的に治療方針を決めてしまうのは避けなくてはなりません。

桜井 同感です。患者側の意見を述べるとすれば,医師には治療方針を提案する根拠や,医療従事者間でなされた議論を端折らずに説明してほしいということです。医療従事者は患者のことを真剣に考え,事前のカンファレンスで侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論をしている。にもかかわらず,その事前の積み重ねを知らずに「あなたにはこの選択が適切です」と議論の結果だけを聞かされると,患者からすれば,ものの数分の診察だけで自分の人生に判断が下されたような気持ちにどうしてもなってしまいます。

 私は患者会活動を通じて,われわれ患者の想像以上に患者のことを真剣に考えている医療従事者がいることを知っているからこそ,このような気持ちのすれ違いが起こることを本当に残念に思っています。がん医療の形が入院治療主体から外来通院治療主体へと変化したため,まとまった時間が確保しづらい問題もあると思いますが,解決の糸口はあるのでしょうか。

田代 あくまで想像の域を出ませんが,この問題の裏には「患者さんに対し迷っている姿や不安な姿を見せてはならない」という「医師の美学」が影響しているのではないでしょうか。迷いを見せずに「正解」を伝えてあげるのが専門職の正しい在り方であると。

清水 思い当たる節がありますね。一方で患者さん側も,自ら得た医療情報をもとに結論だけにこだわり,「A療法はどうですか?」「このウェブサイトではB療法が効くと書いてありました」と,専門家のように振る舞う状況も少なくありません。今後の人生を見通した深い会話が診察室でできなくなっています。

田代 診察室が交渉の場となってきているように感じますね。人間関係や信頼関係をベースにしながら診療方針について考えなくてはならないにもかかわらず,診察室でお互いに手の内の探り合いをしています。本来,医療とは病む

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