医学界新聞


あの日々があって良かったと思える時がきっと来る

寄稿 奥 裕美,宇都宮 宏子,竹熊 カツマタ 麻子,小瀬古 伸幸,勝原 裕美子,吉岡 京子

2020.06.22



【寄稿特集】

Sweet Memories
あの日々があって良かったと思える時がきっと来る


 新人ナースの皆さんの中には,「私もいつか先輩みたいになれるのかな」「この仕事,自分に向いているのかな」という不安を抱える方もいると思います。多くの苦い経験を乗り越えて今を輝く先輩ナースの方々から,新人の皆さんへの応援歌が届きました。

こんなことを聞いてみました

①新人ナース時代の「今だから笑って話せるトホホ体験・失敗談」
②忘れえぬ出会い
③あの頃にタイムスリップ! 思い出の曲とその理由
④新人ナースへのメッセージ
奥 裕美
小瀬古 伸幸
宇都宮 宏子
勝原 裕美子
竹熊 カツマタ 麻子
吉岡 京子


右も左もわからない!

奥 裕美(聖路加国際大学看護管理学 教授)


 今年は入職直後から,選んだ仕事の責任を特に重く感じた方も多かったと思います。本紙が発行される頃,状況が少しでも改善していることを祈りながら書いています。

①②新人の時に限らず,私はよく失敗をしました。当時の私を知る人たちは,今ごろ数々の私の所業を思い出していると思います。一人で勝手に失敗しているなら良いのですが,臨床での失敗は,多かれ少なかれ周囲の人たちに影響していて,まだ笑っては話せないというのが正直な気持ちです。私が穴をあけても,先輩や同僚がそれを広げないように周りを固めてくれていました。彼らは,毎日神経をすり減らしていたと思います。足を向けては寝られません。

 特に私は,左・右の区別が苦手で困ることがありました。どちらが左でどちらが右なのかが感覚的にわからず,特に向かい合う相手の左右を理解するのに時間が掛かるのです。仕事以外の場面では,例えば左折と右折を間違って迷子になるくらいです。

 しかし,臨床では左右を瞬時に,そして正確に判別する力が求められることがたくさんありました。実は働いてみて初めて,自分が人より左右に弱いことに気が付いたのです。プリセプターと相談し,左右の判別をする必要がある時は,患者と向かい合わず同じ側に立つようにしたり,ベッドの両側にR(右),L(左)と書いたテープを貼ったりしていました。

 テープはこっそり貼っていたのですが,ある時患者が気付いて理由を聞かれました。「左右もわからない看護師になぞ,担当されたくない」と言われるのではないかと不安に思いながら理由を伝えると,「誰でも苦手なことはある」「一緒に確認すればいいじゃない」と言われ,救われた気持ちになりました。

 私が聞く前に「こっちが右(左)」と知らせてもらえることもありました。ただその場合,患者が教えてくれる左右が,私から見てなのか,患者から見てなのかがわからず,かえって混乱することになり,緊張の糸はずっと切れませんでした。

③QUEENの『We Will Rock You』。「ダンダンパン」で元気になりました。

④仕事がつらくて,プリセプターに「何か月くらいしたらつらくなくなりますか」と質問したことがあります。プリセプターは2年目の方でしたが「今もつらい」と言いました。月単位で考えていた自分の甘さを恥じつつ,同じことを他の先輩たちや師長にも聞いたところ,答えはだいたい同じでした。私には仕事を辞めると生活ができなくなるという経済的な理由もあったのですが,つらいと言いながら皆が何年も仕事を続けている理由に興味を抱き,それがわかるようになるまでは,この仕事を続けてみようと考えるに至りました。

 それから二十数年,この頃の経験や出会った人たちとの関係が,今の私を支えていると思っています。心が揺さぶられるような刺激の多い毎日だと思いますが,どうぞよく寝て,よく食べて,健康には気を付けて,何となくでも毎日を過ごしてください。きっといつのまにかそれが積み重なって,「大変だったけど,あれがあったから今がある」と考えられるようになると思います。


看護をつなぎ,生活者に寄り添う看護との出合い

宇都宮 宏子(在宅ケア移行支援研究所 宇都宮宏子オフィス)


①1980年,私が卒業後に就職したのは小児専門の病院でした。病床拡大のため,新卒ナースもかなりの人数がいて,中央研修・病棟配置後の勤務も同期と楽しく過ごせると思っていました。

 しかし,私が緊張感と時に恐怖感を覚えたのが,先輩ナースへの申し送りタイムという名の洗礼でした。「結局,その患者さんの熱の原因は?」「主治医には体温の数値だけ報告したの?」「日勤中に終わらせておいてよ!」と,注意されている時は消えてしまいたい気分でした。とても厳しいナースがいたので,「今日の夜勤は誰だろう?」とドキドキする,情けない私がいました。でも経験を重ねるうちに,先輩ナースの問い掛けから,自分ができていないこと,やるべきこと,どう動くべきかを教えてもらっているのだと気が付きました。まさに,OJTですね。

 近年,こうした厳しい申し送りの場面は少なくなったかもしれません。しかし,ナースチームや多職種によるカンファレンスにおいて,新人への質問タイムがなくなったわけではないはずです。こうした問い掛けは,新人の成長を見越して意図的に行われることがほとんどですので,臆することはありません。もちろんわからないことがあれば積極的に質問することも重要ですよ。

②結婚相手が転勤のある人でしたので,私は関西を離れて函館の地域病院に就職しました。その病院では慢性疾患管理活動という取り組み(中断患者フォローや患者会サポートなど)を行っていました。今思い返すと先駆的です。糖尿病グループに入った私は,来院されない治療中断患者さんに電話したり,時には糖尿病グループのメンバーと自宅訪問したりしました。

 自宅訪問した患者さんの一人に,お肉屋さんを営む50代の男性がいました。お店に訪問するやいなや,病院に来ていないことやインスリン注射実施の有無,血糖値の推移など,自分が知りたいことを次々質問する私を,脇にそっとよけたのが先輩の外来ナースでした。彼女はお店の仕事の大変さやら,お客さんの混む時間を上手に聞きながら,ご飯の時間や食べているものといった質問につなげ,「頑張っていますね」と,優しい笑顔で患者さんのことを受け止めていました。

 訪問後,先輩ナースからは「患者さんは病気と暮らしているわけじゃないからね。生活とか暮らしって,患者さんが主人公やん。患者さん中心で考えないとね」と言われ,ハッとしましたね。慢性疾患管理活動では他に,患者会で使う紙芝居をベテラン患者さんと作ったり,地域の人と一緒に「健康祭り」を企画したりしました。こうした函館での経験が今の自分の根っこを作ってくれましたね。

③松田聖子ファンの女の子が入院して,『赤いスイートピー』を一緒に歌ったなあ。聖子ちゃんカットで!

④現在は働き方も多様化し,看護ができる場面も広がっています。つらいことも,前が見えなくなることもありますよね。でも,看護が私自身を強く,優しく成長させ,人生を豊かにしてくれていると思います。背負い過ぎず,言葉にして語り合い,共に夢をかなえていきましょう。


「人は誰でも間違える」与薬ミスの経験で学んだこと

竹熊 カツマタ 麻子(筑波大学医学医療系国際看護学 教授)


①②私の本格的な臨床ナースとしてのスタートは,20年ほど前にアメリカに渡ってから始まりました。医療システム,文化や習慣,人々の気質も違う国で,看護師として働くことに恐怖に近い不安を抱いていました。しかし,多くの移民が必死になって働きながら暮らす姿を見て,徐々に「私にもきっとできる」と考えるようになったことを覚えています。

 イリノイ州の看護師免許を取得し,看護師としての勤務ができるようになった時,友人の勧めもあり,近くの準急性期のリハビリテーションセンターに就職しました。看護師が不足していたからか,施設見学に行った日に採用が決まり,臨床ナースとしてのスタートを切りました。しかし,恐れていたことは突然起こります。仕事を始めて間もなく,私はインシデントを起こしてしまったのです。今考えても胸が痛くなる思い出です。

 その日私は,2人部屋を10室,計約20人の患者を担当していました。仕事の内容は,施設の手順に従い,与薬カートを押しながら病室を訪問し,患者さんに薬を配り,目の前でその薬を飲んでいただくことです。その業務の中で,私はスミスさん(仮)とジョンソンさん(仮)という2人の女性が入院するお部屋を訪問しました。入室したところ,1人の女性がベッドのそばで車椅子に座っており,ベッドの位置から判断してスミスさんだと考えました。そのため,まずはスミスさんの薬を準備してお部屋に入り,「スミスさん,おはようございます。ご気分はいかがですか? お薬を飲みましょう」と声を掛けました。彼女は「はい,お薬の時間ですね」と言って,私から薬を受け取り,飲まれました。その後,薬を配るためにもう一人の入院患者であるジョンソンさんを探したのですが,見つかりません。

 同僚の看護師に「ねえ,ジョンソンさんはどこ?」と聞くと,「ああ,ジョンソンさんはさっき部屋で車椅子に座っていたよ」と教えてくれました。「えーっ! もしかして私がさっき薬を飲ませた人がジョンソンさん!? スミスさんのベッドのところにいたんだけど?」と困惑する私に対して同僚の看護師は,「ジョンソンさんはスミスさんのベッドを自分のベッドだと思うらしくて,スミスさんがいなくなるといつもすぐ移動するのよ。認知症かもね」と教えてくれました。

 当時,センターに長期入院している方の多くがIDブレスレットを外していました。そのため,病棟では本人確認の方法が「お名前を呼ぶこと」で良しとされ,患者さんと長い付き合いであるが故に「IDを確認しなくても,看護師はその患者さんの名前を知っているだろう」というのが暗黙の了解となっていたのです。これによって引き起こされた私の自分勝手な思い込みが与薬ミスの原因でした。すぐに事のいきさつを上司に報告。インシデントの対応とジョンソンさんの様子を観察しながら,私は自分の愚かさに泣きました。幸い,ジョンソンさんに大きな影響はなく安心しましたが,私の心はいつまでも晴れませんでした。

 実は,この大失敗がきっかけで,私はケアのプロセスの改善と質の向上に興味を抱くようになりました。

 「人は誰でも間違える」

 間違いが起きないプロセスを作ることの重要性を感じた私は,ケアの質と安全を保障するクリニカルナースリーダーとなりました。看護管理者としてケアの質と安全に取り組むようになったのも,ここが原点です。

④看護の世界はとても広く,深いです。病院だけが働く場所ではなく,看護職者の活躍できる舞台は他業種に及んでいます。看護の持つ可能性と,看護の経験があるからこそできることを信じて前進してください。そして同時に,自らの幸福の追求や,人として開花することも大切にしてくださいね。


業務に慣れた時の「変な余裕」こそ大敵

小瀬古 伸幸(訪問看護ステーションみのり 統括所長)


①看護専門学校を卒業後は,精神科単科の病院に就職しました。配属されたのは男女混合の急性期病棟です。当時は精神科救急入院料が新設される前でしたので,人員配置も充実しているとは言えず,電子カルテも導入されていませんでした。今振り返ると,本当に忙しい毎日だったことを思い出します。

 その新人時代に,まず先輩から教えられたのは「ナースコールが鳴ったら誰よりも早く対応し,ベッドサイドに駆け付ける」ことでした。もちろん,自分の業務を行っていたとしても,新人がいち早くナースコールに対応することが浸透していたので,対応してはナースステーションに戻りの繰り返しでした。業務も不慣れだったため,残業する日も多かったです。

 そのような状況でしたが,半年もすれば業務に慣れてきました。すると変な余裕が生まれ,これまで張り詰めていた緊張の糸がプチッと切れるような時がありました。今振り返れば,そういう時に,ヒヤッとする体験が多かったと感じます。

 印象に残っているのは,入浴業務中の出来事です。私が働いていた病院では大浴場があり,入浴日には安全のための見守り職員が配置されていました。その担当となった時,残る入浴中の患者さんはADLの自立した一人だけでしたので,ある程度で大丈夫だろうと思い,いつもは見守り後に行う入浴介助を同時に対応しました。すると,後ろのほうで「ブクブク」と聞こえてきます。振り向くと,その患者さんが湯船に沈んでいました。すぐに身体を引き上げたため大事には至りませんでしたが,ふと疑問を持ちました。その患者さんはADLが自立していたのに,なぜ湯船に沈んだのか。

 後に知ったのですが,その患者さんの行動は幻聴に左右されたものでした。振り返りを一緒にしてくれた先輩に「どこか業務慣れしてきて,緊張感がなくなっていたのではないかな」と言われ,「ハッ」としたことを覚えています。それからは,一つひとつの業務(看護も含む)に対して「この業務(看護)は何のためにやるのか」という根拠や目的を意識するようになりました。すると,大切な場面で緊張の糸がプチッと切れることは,次第になくなっていきました。

②看護師免許を取得する前,看護補助として働いていた精神科病院での患者さんの言葉が忘れられません。

 約23年前の当時,私は19歳でした...

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