医学界新聞

寄稿

2019.01.14



【新春企画】

♪In My Resident Life♪
失敗を重ねた者だけが成功に近づける


 「人生で何度も何度も失敗してきた。だから私は成功した」(マイケル・ジョーダン)。

 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。患者さんとコミュニケーションがうまく取れない,知らない略称が多く上級医の会話がわからない,なんてこともあるかもしれません。でもそんな日々こそが成功へと続く道なのです。

 新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

石丸 裕康 迫井 正深 本田美和子
小船井光太郎 松本 俊彦 南 太郎


ポケベルとピーイーと私

石丸 裕康(天理よろづ相談所病院救急診療部部長/総合診療教育部副部長)


①「大学病院の研修ではまともな医師にはなれない」という,学生時代いろいろ面倒を見てもらった医師の話を真に受け,当時レジデントを全国公募していた天理よろづ相談所病院の門を叩いた。同期は12人。皆やる気はあるけど,ちょっと変わった連中であった。

 採用初日のオリエンテーション。社会人になり,初めてのボス・今中孝信先生からの指令は「1日2回は必ずベッドサイドを訪問せよ,そのうち1回は椅子に腰掛けて患者さんの話を聞け」。そんなの楽勝じゃないかと思ったが,仕事を始めてみるとたちまちその難しさを実感する。朝のカンファレンスに始まり,病棟業務,検査,コンサルテーションと走り回る毎日。何をするにも手間がかかり,たちまち時間が過ぎていく。消灯前になんとか患者さんの回診を済ませ,カルテを書いたり調べ物をしたりするといつの間にか日付が変わっている,という毎日であった。

 何よりも怖かったのは,先輩レジデントであった。病歴聴取・診察の仕方からアセスメント,プレゼンテーションなど事細かに厳しく指導された。

 病棟業務に少し慣れたころ,胃がん手術のために入院した患者さんを担当した。術後数日たち,落ち着いている状況と思い友だちと飲みに出掛けたのだが,宿舎に帰ると院内呼び出し用のポケットベルに何回も呼び出しが入っている! 慌てて病棟に駆け付けると,落ち着いているはずの患者さんが呼吸困難を急に訴えたらしい。私が呼び出しに応じなかったため,居合わせた数人の先輩レジデントが私の患者を取り囲んで診察しているところであった。

 「どこ行ってたんですか!!」と担当看護師。酔いも一瞬でさめ,青ざめる私。「石丸,この患者さんはおそらくピーイーや!」と先輩。実はその時不勉強で,ピーイーが何のことかさっぱりわからなかった。緊迫した雰囲気の中「それ何のことですか?」とも聞けず,「はっ,確かにピーイーのようですね……」と適当に話を合わせつつ,その場の議論からヒントを得ようと必死に耳を傾けた。「術後……」「酸素投与に反応がいまひとつ……」「胸部X線では大きな異常がないな……」。国家試験で得た知識をフル回転した結果,どうやらピーイーとは肺塞栓症(pulmonary embolism)の略称のようだとなんとか気付いた。

 恐縮して頭を下げてばかりいた私に,「頭を下げる必要はない,今は患者さんを良くするために何ができるかをまず考えようや」と先輩。怖い先輩はいざという時頼りになる先輩でもあった。

②なんと言っても多くの良き指導医と出会えたこと。細かい知識はともかく,医療の原理原則を学ばせようとする指導医に恵まれた。

③研修1年目が終わるころ,寿退職する看護師さんの送別会に出席した。困った時にさり気なく助けてくれた看護師さんだった。宴もさなか,興に乗ったコワモテの先輩が,「石丸,歌うぞ!」と。選曲は当時はやりのウェディングソング,「部屋とYシャツと私」(平松愛理)!? ダミ声で歌う酔っ払いの姿に,酔いもあって皆大笑い。会の終わり際,「いろいろお世話になりました」と声を掛けると,彼女がポツリ,「先生はきっと良い医師になりますよ」。

 私の何を見てそう思ってくれたのかは定かではないが,失敗ばかりで,まともな医師になれるのか不安であった日々の中,そのように見てくれていた同僚がいたんだと思うと,なんだか元気が出てうれしかった。この歌を耳にするとあのころのことを思い出す。

④初期研修の間はスマートにいかず,悔しかったり,悲しかったり,時にうれしかったり,喜怒哀楽の激しい毎日だと思います。振り返ると,感情を動かされる機会が自分の成長につながったように思います。ぜひそのような機会を大切にしてください。


指示書“写経”を働き方改革

迫井 正深(厚生労働省大臣官房審議官)


①外科医に憧れて医学部に進み,卒後迷わず外科を選択した私。医局ローテーションの最初は大学病院で,外科とはいえ仕事の大半は病棟での指示出しやカルテ書き等の雑用。それでも,尊敬できる指導医や愉快な仲間に囲まれて充実した日々でした。

 指示出しは,今と違って複写紙に手書きで検査や処方内容等を細かく記入し手渡し。術前・術後の指示はほぼ定型的で同じような内容の繰り返し。連日の指示書“写経”は明らかに外科医の仕事じゃない! 私は高校時代からPCを組み立てるコンピューター・オタクだったので,同じ内容を書くだけならPCにやらせればいいと主張。医師控室の狭い自席の足元に当時まれだった自前のPCとプリンターを持ち込み,メニュー化した点滴や検査等の指示をプリント処理していました。今思えば先進的だったのかも。しかし指導医からは,狭いのに邪魔だの,手で書いたほうが早いだのと“酷評”。それでも意味のある仕事に専念したいと私も譲らず,言うことを聞かないヤツと不興を買いました(看護師さんたちは「読みやすいネ」って)。今日の働き方改革に通じる経験です。

 2年目からは静岡の高速インターチェンジ沿いにある外傷バンバンの基幹病院。外科は3大学からの医局派遣がしのぎを削り,手術の術式から術前後の管理までそれぞれの流儀がある。同窓・同医局の“温室”では当たり前だったことが混成部隊では通用しないのです。やることなすことが同僚医師のみならず看護スタッフにも批判されたり受け入れられなかったり。つらい日々が続きました。

②転機は夜行バス乗客・40代の急患。嘔吐による食道破裂で緊急手術,縦隔炎を併発し,以降,壮絶な創部と全身の厳しい管理が続く。病棟スタッフの負担も大きく,最初は治療方針に対して反発も。しかし連日・連夜の地道な努力を通じて同僚とさまざまな思いを共有,いつしか信頼され充実した外科研修の日々に変わっていきます(その患者さんは無事退院,その25年後に首長となって再会)。“他流試合”の意義とともに,ひたむきさ・粘り強さこそが医療の基盤だと身に染みました。

 担当患者の疾患はがんが中心。良性疾患は少ないものの,前述の方と同様その後の交流があります。当時,小学校1年生で外傷性肝破裂の男児を救命。先日,結婚式に恩人として招待され,あいさつする機会を得ました。「外科医は患者さんの生命力に寄り添っているだけ,それを実際に教えてくれた新郎こそ私の恩人」と当時感じたことを本心から伝えました。今は臨床を離れましたが「患者さんから学ぶ」,「現場から学ぶ」,この姿勢は全てに通じるものと信じています。

 大勢のがん患者をお見送りしました。一人のスキルス胃がんの若い患者さんとのやりとりが今も私の心にあります。厚生省への転職が決まり患者さんたちにそのことを伝えます。誰だって主治医交代は避けたいもの。その女性も私を見るたびに泣いてた。最後の回診,笑顔で手紙を渡された。「先生は日本の医療を良くするためにこれから頑張る,だから私も我慢して頑張る,もう泣かない」と書いてありました。入省後しばらくして,その方は亡くなった。

 行政職は感謝されることはまれです。どんなに努力してもマスコミ等から厳しく批判され,逃げ出したいような気持ちになるもの。でも私は逃げるわけにはいかない。あの患者さんとの約束を果たせるまで。

③「TRAIN-TRAIN」(THE BLUE HEARTS)。多忙な1日が終わった午前1時ごろから準夜勤後の病棟ナースたちとよくカラオケに行きました。同期研修医M先生のおはこ。

④人生,そう計算したようにはならないもの。アナログな感性・その時々の直感を大切にしてほしい。

写真 「救命した肝破裂の患者さんと。27年後に再会しました。」(迫井氏)


今につながる3つの言葉

本田 美和子(国立病院機構東京医療センター総合内科医長)


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