先制医療 「集団の予防」から「個の予防」へ(井村裕夫,清原裕,山本雅之,岩坪威)
対談・座談会
2015.12.21
【座談会】先制医療
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「先制医療」とは,個人の遺伝子,mRNA,タンパク質,代謝産物,画像等のバイオマーカーを用い,将来起こりやすい病気を疾患の発症前に診断・予測し,介入するという予防医療である。先制医療が実現すれば,高齢化に伴い高騰する医療費・介護費の抑制に加え,治療成績の向上や健康寿命の延長も見込めるとして注目を集めている。
本紙では,アルツハイマー病とゲノムコホートを中心に研究の現状とともに,先制医療実現に向けた今後の課題について議論していただいた。
井村 2015年1月,米国オバマ大統領は年頭の演説で「精密医療」(Precision medicine)の実現に意欲を示しました。「生物医学上の発見を促進する可能性のある新たな患者主導型研究モデルを開発し,どの患者にはどの治療法がベストかを選択するための新しいツール,知識,治療法を臨床医に提供する」として,16年度の大統領予算から2億1500万ドルを投資することを決めています。目標に掲げられているのは5つ,①がんのより良い治療法の開発・提供,②100万人以上を対象とした全米研究コホートの設置,③精密医療に伴うプライバシー問題への取り組み,④規制改革,⑤官民提携です。健康の増進と医療に革命をもたらす「未来の医療」実現への取り組みとして,世界から注目されています。
オバマ大統領は精密医療は予防に応用できるとしていますが,それがまさに先制医療です。したがって先制医療は,精密予防と言ってもよいかもしれません。
予防医学と先制医療の違い
清原 疫学の立場から見ると,予防には段階があります。1次予防は発症を未然に防ぐこと,2次予防は発症した疾病を治癒させること,3次予防は治癒はできないながら悪化を防ぐことを指します。先制医療というのは,1次予防と2次予防の間にあたる1.5次予防のような考え方なのでしょうか。
井村 予防医学と先制医療の違いは介入時期ではなく,手法です。従来の予防医学は“一般的な患者”を想定してデザインされた集団に対する予防で,先制医療は個人の特徴に応じた介入を行います。
清原 個人への,未然の「治療介入」による予防を指すのでしょうか。
井村 いいえ。必ずしも薬物治療というわけではありません。生活習慣の改善なども含みます。
予防医学とゲノム医療,オーダーメイド医療の合体といったイメージでしょうか。ゲノム医療との違いは,予防のためにゲノム情報やバイオマーカーだけでなく,個人のライフスタイルや他の環境要因も考慮に入れることです。胎生期や小児期の環境も,後年の健康に影響することが知られています。
清原 なるほど。私がゲノム疫学研究を始めたきっかけである「個別化予防」に近い考え方です。
山本 厳密に言えば,先制医療は「病気にはなったが未診断の時期」,個別化予防は「病気になる前」に介入するものです。しかし現実には明確に「病気になった瞬間」というものは存在しませんので,ほぼ同じ考えと言えるのではないでしょうか。
井村 そうですね。先制医療には,予防だけでなく早期介入による進行抑制も含まれます(図)。さらに,個人の遺伝素因を基に,効果が高い薬や副作用が少ない薬を選んだり,薬の投与量を決めたりできるようになると期待されています。
図 先制医療のイメージ(文献1より改変) |
アルツハイマー病は“発症前”治療へ
井村 先制医療は,がんや遺伝性疾患のようにゲノム情報等と疾患との関連のエビデンスが比較的蓄積されている疾患から順に実現していくと考えられています。すでに肺がんではゲノム情報に応じて薬を選ぶ時代がきていますし,遺伝性疾患の中には異常のある遺伝子をターゲットにした薬が開発されているものもあります。
岩坪 アルツハイマー病(AD)も先制医療実現に向けた研究が進んでいます。ADの一番のリスク因子は加齢であり,高齢者が増加する日本で大きな問題となっています。加齢そのものは防げませんので,それ以外の要因へのアプローチが研究されています。
井村 ADは,脳にβアミロイド(Aβ)がたまることを引き金に,タウタンパク質の凝集が起き,脳の神経細胞が変性・脱落して,脳の萎縮が生じることで起きると考えられていますね。
岩坪 はい。Aβがたまりはじめてから症状が出るまでに十数年かかります。Aβ降下薬の大規模な治験は,これまでいくつも行われましたが,Aβが減少しても認知機能の低下は抑えられず,失敗に終わってきました。これは,介入時期がADによる認知症症状の発症後だったためだと考えられています。
井村 症状が出たときにはすでにAβの蓄積以降の変化も生じた後で,Aβを抑制しても遅いと考えられたのですね。
岩坪 現在はより早期,Aβの増加は認められるもののまだ無症候で,認知機能は正常な「プレクリニカルAD」と呼ばれる時期に介入する研究が世界中で盛んに行われています。
井村 軽度認知障害(MCI)よりさらに早期への介入なのですね。
岩坪 米国ではThe A4 study(Anti-Amyloid Treatment in Asymptomatic Alzheimer’s study)という大規模試験が2013年から始まっています。プレクリニカルAD1000人を対象に,アミロイドPETイメージングによるスクリーニングを行い,抗Aβ抗体投与群と偽薬群を500人ずつにランダマイズして,3年後認知機能障害発症率を比較するという試験です。日本は乗り遅れてしまいましたが,東大がアジアで唯一の施設として参加できるよう,関係する米国の公的機関や企業と協議しています。
環境要因もAD発症に影響
井村 遺伝素因の解明はいかがですか。
岩坪 アポリポ蛋白E(ApoE)の遺伝子多型のうちε4対立遺伝子(ε4 allele)が,比較的commonでありながら強いリスクを持っていることは20年以上前から明らかになっています。現在,他の遺伝素因がさまざまな方法で探されていますが,ε4と同等に強い関連性を持つものはまだ見つかっていません。
井村 ゲノムワイド関連解析(Genome-Wide Association Study;GWAS)の成果はいかがですか。
岩坪 明らかになったcommon alleleの低リスク遺伝子の内,動物実験で遺伝子発現をノックアウトしたところ,ADにつながる表現型が見えるものもありました。しかしこのような調べ方でcommon alleleの真のリスク,メカニズムが本当にわかっていくかどうか,われわれも手探りの状態です。
清原 私たちが行っている久山町研究では,2002年以降,全健診受診者のDNAを採取しています。脳梗塞,加齢黄斑変性症などとともにADについてGWASを行いましたが,ADに関連する遺伝子はApoE以外見つかっていません。地域住民のAD予防に役立てる観点からはApoE多型の情報だけでもよいと考えていますが,発症のメカニズムを追究する上では他の遺伝子も探していかねばなりません。
井村 久山町研究は,地域に住む40歳以上の全住民を対象に行われている前向きコホート研究ですね。
清原 はい。久山町は福岡市に近接する人口約8400人の町で,年齢・職業分布が全国平均とほぼ同じなことが特徴です。1961年の脳卒中・心血管疾患の実態調査から始まり,現在では生活習慣病全体の疫学調査に広がっています。
1985年に65歳以上の高齢者を対象に認知症の疫学研究も開始しました。認知症の頻度は85年当時は6.7%だったのが2012年には17.9%。地域高齢者の5-6人に1人が認知症です。高齢者人口自体は30年間で約2倍に増えたのに対し,認知症の患者数は約6倍。その中でADの頻度だけが上昇しています。AD発症には,加齢や遺伝素因以外の要因も大きいと考えられます。
井村 外国では糖尿病や高血圧,脂質異常症によりADのリスクが増すという報告がありますね。
清原 久山町では高血圧や脂質異常症は危険因子になっていませんが,糖尿病はADの発症リスクを2倍有意に上昇させるという研究結果が出ています。
岩坪 ε4 alleleの変異を持っていても発症の遅い方,早い方がいます。他の疾患などの環境要因に加え,ApoEの効果を左右する遺伝子がないかも探していかねばなりません。
多因子疾患の解明にはゲノムコホートが不可欠
井村 GWASは50万個以上の一塩基多型(SNP)を用い,ゲノム情報と疾患との関連を統計的に調べる方法です。1999年に小渕政権が打ち出したミレニアム・プロジェクトにより,2型糖尿病,高血圧,がん,認知症等のGWASが大規模に行われました。それにより,いくつかの多因子疾患においては関連遺伝子の同定がなされましたが,遺伝子一つひとつのエフェクトサイズは小さく,オッズ比1.5以下のものがほとんどでした。GWASを用いた解析には限界があるのでしょうか。
山本 GWAS開始当初はシークエンサーの精度が悪く,頻度の高い多型しか使えなかった点にも限界があったと思います。今では以前より精度の高い全ゲノム解析が可能になりました。希少変異(rare variant)まで含めた解析ができるようになれば,何かしらの進展があるのではないかと期待しています。
井村 多因子疾患の原因を探る方法は他にないのでしょうか。
山本 多因子疾患の原因を明らかにするには,ゲノム解析に加え,ゲノムコホートを行うことが有効です。
疾患コホートにおけるゲノム解析は,疾患を持つ方のゲノムの中から高頻度に検出される変異を探す後ろ向きの調査でした。一方,ゲノムコホートは,疾患発症前の健常者集団のゲノム情報をあらかじめ登録し,その後どのような疾患を発症したか,どのような治療を受けてどのような結果が得られたか,何年もかけて動向を探る前向き調査です。
井村 オバマ大統領の年頭演説を受け,米国では米国立衛生研究所(NIH)が100万人以上という大規模ゲノムコホートの構築を計画していますね。
山本 世界の動向を俯瞰しますと,ゲノム情報を基に体質や病状に適した医療を選択するゲノム医療については,米国がリードしています。一方,ゲノムコホート研究は現状ではヨーロッパが圧倒的にリードしています。
井村 なぜヨーロッパがリードしているのですか。
山本 要因の1つは,イギリスや北欧など患者の健康状態・病態の動向が追跡可能な個人番号制と電子カルテの整備が進んでいる国が多いことです。もう1つの要因は,民間機関が中心に医療サービスを提供する米国と比較すると,均質な医療が行われていることです。イギリスは国民保健サービス(NHS)が公平な医療サービス提供をめざしていますし,フランスは日本同様に国民皆保険制度ですので,疾患の発見や原因追究がしやすいのです。
井村 日本でのゲノムコホートはいかがですか。山本先生は東北メディカル・メガバンク機構でゲノムコホート研究をされていますね。
山本 私たちは,15万人の住...
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