医学界新聞

2015.02.16



Medical Library 書評・新刊案内


ユマニチュード入門

本田 美和子,イヴ・ジネスト,ロゼット・マレスコッティ 著

《評 者》中村 耕三(国立障害者リハビリテーションセンター総長)

人間らしくあるための「見る」「話す」「触れる」「立つ」

 「これは魔法だ」。

 テレビでユマニチュードの番組を見た感想である。認知症を発症しケアが困難な「困った,手のかかる人」になってしまった人が,来日したイヴ・ジネストさんのユマニチュードのケアを受ける。1時間ほどのケアの終わりには,その「困った人」が「ありがとう」とお礼を言うようになり,Vサインを送ったり,イヴ・ジネストさんの頬に別れのキスをしたり,自分で立ち,歩いたりする。ケアを見守っていた家族からは「まったく認知症を感じなかった」など,夢のような出来事に驚きと感謝の言葉が続く。

具体的な技術をわかりやすく図解

 しかしユマニチュード(Humanitude)は魔法ではなく,誰でも習得できる150の具体的な技術からなっている。イヴ・ジネストさんら2人のフランス人により開発されたケア技術で,今,広まりつつあるという。本書は自らフランスに渡り,この技術を実際に経験してこられた本田美和子医師によるその入門書である。

 ユマニチュードは「見つめる技術」,「話しかける技術」,「触れる技術」,そして「立つことへの効果的なサポート技術」の4つからなる。前3つは「知覚」,「言語」そして「感情」のこもったコミュニケーションの技術であり,あと1つの「立つ」そして「歩む」ことはケアを受ける人が人間であることを自覚できるための技術である。

 「見つめる技術」では,見下さないよう水平な目線で,視野の狭くなっている高齢者の正面から視線をつかみにいくことが示されている。「触れる技術」では,手首をつかまず,飛行機が着陸・離陸するように下から支えるなど,それぞれの技術がわかりやすく,すてきな図とともに説明されている。

忘れられない光景

 本書118ページに「シャワーや保清の目的はなんですか?」との問いがある。「単にきれいにするだけなら洗濯機です」とイヴ・ジネストさんは言う。この言葉に,私にとって忘れられない昔の光景がダブる。

 それは平成の初めころ見たシャワー室の光景である。ケアを受ける人を,シャワー用の担架に臥位の状態に載せる人,服を脱がせる人,担架に載せたまま長方形の湯漕につける人,両側から洗う人と続き,右から左へまさに流れ作業である。そして,そのシャワーを待つ車いすの長い列が続くのだ。私が,人が「立ち」「歩く」ことの重要性に関心を持つようになった原点で,あれはやはり「洗濯機」だったのである。

人間らしくあるための技術

 ユマニチュードの技術の裏には,人間は社会的な生き物であり,「その人の“人間らしさ”を尊重し続ける」という考え方がある。ネグリチュード(「黒人らしさ」の意)を踏まえたユマニチュードというネーミングも,「人間らしくある」状況を志向している。そこには,現在のケアが「生命の維持」や,転んでけがをしては困るという「医療安全」に重きを置き過ぎていないか,そして「受ける人のためになっている」との確信(誤信)から「力づくのケア」になっていないか,との反省がある。

 人は立ち,歩き,社会生活を送る動物である。社会生活は他者とのコミュニケーションによって成立する。人は立って歩いて行きたいところへ行き,そこで他者と見合い,話し合い,触れ合い,他者との関係を深めながら生きていきたいという思いの強い動物である。

 「力づくのケア」には,この配慮が欠けているのではないか。ユマニチュードでは,優しさに裏打ちされたコミュニケーション技術により,環境を,その人がこれまで過ごしてきた社会性の感じられる状態に戻す。その人は立ち,歩くことによって自らが社会生活を送る存在であることを確認するのである。

 イヴ・ジネストさんらは「人間らしくある」という目標を掲げ,それを具体的な技術になるまでに消化し,示した。それも非常に有用な技術で。……やはり「これは魔法だ」。

 あらゆる医療,介護にかかわる人,高齢者を抱える家族の人にもぜひ読んでもらいたい。

A5・頁148 定価:本体2,000円+税 医学書院
ISBN978-4-260-02028-2


こころを診る技術
精神科面接と初診時対応の基本

宮岡 等 著

《評 者》野村 総一郎(防衛医大病院院長)

目からうろこの実用的なノウハウが盛り込まれた一冊

 学会でも舌鋒鋭い論客として知られる宮岡等教授が,日常的には一体どんな臨床をしているのだろうと以前から興味を持っていたが,本書はまさにそれに対する回答とも言うべき一冊である。これは「どう患者を診るか」という技術書であり,「いかなる姿勢で診るべきか」という哲学書だと思う。ちょっと妙な連想になるかもしれないが,実は宮本武蔵の『五輪書』は評者の愛読書である。そこでは「剣術でいかに勝つか」を述べながら,結局は「剣とは何か」が論じられており,武士としていかに生きるかを示すガイドラインとなっている。本書はこのスタイルとの共通点が感じられ,これは宮岡教授の書いた『五輪書』だ! と直感した次第である。例えば「大半の患者は精神科外来で10分程度の面接しか受けていないが,基本的な面接を続けること自体が治療であるべき」,「そのためには『良い面接』より,『悪くない面接』を心がけること」,「精神面に積極的に働きかけて治そうとするより,患者に寄り添うこと」などの主張には,思わずハタと膝を打ってしまった。このあたり,まさに本書を哲学書と呼びたくなるゆえんであろう。

 いや,そうは言っても,決してそこには小難しい理論が連なっているのではない。本書を読んだ読者は,あるいは不思議に思うのではあるまいか。「なぜ自分が普段悩んでいることが,宮岡先生には手に取るようにわかるのだ!」「しかも,ここにその答えがあるじゃないか!」と。そのくらいポイントを突いて臨床家が日頃困っていること,迷っていることへの武蔵流,いや宮岡流の答えが展開されているのである。例えば「自分が睡眠不足や疲れているときの面接は調子がよいときと比べて,『聞く』より『話す』ことが多くなっている。自ら話すことによって,早く面接を終えたいという気持ちがあるのであろう」という言葉にはドキッとさせられ,「今後気をつけよう」と感じたし,面接に際して「一般的にも起こりうることだが」という問いかけから入ると答えが引き出しやすい,などは診療のコツを述べた名言であろう。

 名言と言えば,そこかしこに耳に残りやすい機知に満ちた表現があり,それが本書をさらに読みやすくしている。例えば「リエゾンはバトルである」という考え方には思わずうなったし,「精神療法にも副作用がある」という指摘は当然のようで,昨今忘れられていた視点である。また,「『薬を処方するしか能のない精神科医』は面接が下手なだけでなく,疾患の診断や治療に関する最低限の知識も習得できていないのではないかと疑う」というのも,辛口だが実に小気味良い一言として響いた。それもそのはず,この問題意識こそ著者が本書を書いた契機であるからだろう。

 以上述べてきたように,わかりやすくオーソドックスでありながら,目からうろこの実用的なノウハウが盛り込まれた本書は,まさに著者の狙いが極めて有効に結実した名著であろう。研修医向けであると同時に,むしろベテランの精神科医にも読んでほしい一冊となっている。

B6・頁232 定価:本体2,500円+税 医学書院
ISBN 978-4-260-02020-6


《神経心理学コレクション》
ジャクソンの神経心理学

山鳥 重 著
山鳥 重,河村 満,池田 学 シリーズ編集

《評 者》兼本 浩祐(愛知医大教授・精神科学)

21世紀の脳科学に通じるジャクソンの思考

 私が山鳥重先生のお話を直接聞かせていただいた機会は,非常に近い興味・関心を継続して持ってきたこと,神経心理学の層的理解を信奉してきたことを考えれば驚くほど少なく,わずかに2回ばかりである。いずれも今から20年以上も前のことで,私は研修医かレジデントのときで先生が私の発表にコメントしてくださったときのことだったと思う。

 最初は保続の発表に関してであったが,2回目は側頭葉てんかんの言語自動症のことについてであった。山鳥先生はそのときに,「主体意識から客体意識へとまさに言葉が音を持った言葉として生まれ落ちようとしている瞬間に宙づりになって固定された状態が再帰性発話だとジャクソンが書いており,実際にそういう実例はてんかん臨床であるのかどうか」といった質問をされた。そのとき私は質問の背景や意味をよく理解できず,単純に「無いです」と答え,会話はそこで終わりになってしまった。しかし先生のその質問はその後,ずっと私の中に残っていて,自分でジャクソンを読むようになって先生の質問の奥深さを知ることになり,さらにその後の臨床経験の中で,まさにジャクソンの言うような,最初の発作体験のときに言わんとしていたことをその後発作が起こるたびに何十年も繰り返して発語し続ける症例が存在することを何度か確認することになった。

 ジャクソンの思想は,てんかんの世界においてはいまだに深く浸透し,引用されることも多いが,脳科学あるいは神経心理学の分野では常にマイノリティーの側にあったといってもよいだろうと思う。その理由の1つは,脳を表象の図書館のように考えるマイネルトを始祖とし,ウェルニッケ,リープマン,ゲシュヴィントに至る20世紀の脳科学の思考の流れと,根本的に異なる思考の流れをジャクソンが体現していたことにある。ジャクソンにとっての表象は,エーデルマンのいう「思い起こされた現在(remembered present)」に近い。多数の感覚運動経路が,内的あるいは外的刺激に触発されて,適者生存競争を始め,その勝利者が「今,ここで」の実現された表象となって出現するというジャクソンの考えは,例えばレンガを見たら脳の中のレンガ表象が賦活され,その結果レンガがレンガだと認識されるというマイネルトが集大成した考えとは大きく異なるものであった。

 2つ目の理由は用語に対するジャクソンの哲学者のような厳密さにある。しばしば医学者は言葉の区別に鈍感で,そうした区別を強いられることを嫌がる傾向にある。例えばジャクソンが区別に腐心した,心理的プロセスとしての“感覚”と,物理的脳的プロセスとしての“印象”。山鳥先生も訳出に苦労されているように,そもそも私たちに純粋な知覚はなく,ベルグソンの言葉を借りれば,通常私たちが五感を通して受け取っているのは「記憶の刻印を否応なく帯びた知覚」であって,ベルグソンは議論を進めるためにイマージュという仮の用語を致し方なく造語しこれに当てている。実はジャクソンが厳格に線引きをしたこの印象と感覚の関係をどのように考えるかは,今脳科学を考える上でのホットな急所の1つになっている。

 陰性症状と陽性症状は,現在,精神科医であれば知らない者がいないコンセプトであるが,ジャクソンが例えばデジャビュのような複雑な体験は解放現象としての陽性症状であり,臭いのような原始的な感覚とは機序が違うと考えていたことを本書を通して山鳥先生に教えていただき,陽性症状についてのジャクソンの徹底した姿勢をあらためて再認する機会となった。ジャクソンにとっては陽性症状とはあくまでもより高次の機能系が障害された結果,より組織されより障害への抵抗力の強い機能系の脱抑制であって,例外的にではあっても人というソフトの新たな可能性を開示するものなどではあり得ない。ジャクソンを徹底して信奉しているてんかん学者たちがこのあたりについてとても厳格な姿勢を示す理由が本書を読みながら初めて私には納得できた。

 階層(レイヤー)という考えは20世紀の脳科学から21世紀の脳科学を隔てる1つの鍵概念ではないかとも思う。全体は部分の総和ではなく,それまでには無かった新たな質がそこに生ずる,つまりは層と層の間に不連続な断裂が生じ,それが結局は「私」や「意識」を,“体を操る小人”とか“魂”のような表現を導入せずに説明するための手立てになるからである。そして,本書で山鳥先生が強調されているように,記憶・感情・判断といった組織化の緩い機能は,より局在化される組織化の度合いの強い機能群とは別の階層を形作っているというジャクソンの考えは20世紀の脳科学よりも21世紀の脳科学にはるかに親和性がある。

 私はジャクソンの伝記について誤解していたところがあり,山鳥先生に自著の編集担当者を通して間接的にそれを指摘していただいたことがあるが,控え目,温厚,公平,しかし学問には厳密で常に原理へとさかのぼろうとする一貫した姿勢を保ち続けたジャクソンは,山鳥先生ご自身と重なるところがある。冒頭の学会での山鳥先生のご質問は,何十年も私の中に余韻を残すような含蓄があったが,あのときその質問の射程を理解できなかった私を詰るでもなく,温かい質問で,しかも当時,大きなキャリアの差があったにもかかわらず,対等な同僚として質問していただいたように記憶している。本書を読みながらずっとそのことが脳裏から離れなかった。

A5・頁224 定価:本体3,400円+税 医学書院
ISBN978-4-260-01977-4

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