医学界新聞

寄稿

2014.02.24

【寄稿】

福島第一原発から最も近い病院で活動した看護師の記録
東日本大震災から3年を迎えて

高田 明美(南相馬市立総合病院)


 2011年3月11日の東日本大震災からまもなく3年になります。マグニチュード9.0の大地震は,大津波を引き起こし,自然災害の猛威を知らしめました。福島県では,大震災に加え福島第一原子力発電所(以後,原発)での事故が発生し,未曽有の被害に苦しんでいます。本稿では,原発から最も近い病院での活動記録を残すとともに,そこで得られた教訓をご紹介します。

屋内退避指示下での医療崩壊と緊急搬送

 3月12日,原発から20キロ以内の地域に「避難指示」が,3月15日には20キロから30キロ圏内に「屋内退避」(その後に「自主避難」)という指示が出されました。私の勤務する南相馬市立総合病院は原発から23キロに位置しており,患者の受け入れが不可能となりました。また,入院患者を規制区域外の受け入れ可能な病院へ移動させることが求められました。

 しかしながら,このような全患者避難はそれまで経験も訓練もなく,病院長の指示のもと,職員による緊急対応となりました。この時期最も深刻だったのは,屋内退避という制限により物流・医療・メディア関係者の出入りさえ止まってしまったことです。重症患者を搬送するドクターヘリも運用休止となりました。

 入院患者の搬送は,南相馬市から西へ50キロ方面にある川俣町,福島県立医科大学附属病院までのドッキングによる搬送となり,病院の救急車,消防の救急車,旅館のマイクロバスなどによるピストン移動を何度も繰り返しました。搬送の間に残された患者の中には,酸素マスクや人工呼吸器を使用中の患者がいました。しかし,燃料・酸素・医薬品・物資の不足により,病院での治療継続は困難な状況です。看護師は院内にある酸素ボンベとサチュレーションモニターをベッドサイドに設置し,最悪の状況に備えました。結果的に,在宅酸素の機械を利用することによりギリギリのところで対応できました。また,真夜中に勇気ある民間人が液体酸素を搬入してくれたおかげで,患者の命が守られました。

 病院内のエアコンは,外部から汚染空気流入の恐れがあるため被ばく予防の観点で使用できず,患者も職員も寒い院内で過ごしていました(在宅酸素の機械が発する余熱は,病室を温めるという予想外の効果をもたらしました)。患者の食事は1回につきおにぎり1個(煮崩しておかゆ状にすることも),もしくは食パン1枚にジュースという状況でした。

外来・避難所に看護師を配置,昼夜を問わず広範囲な対応

 薄暗く寒い院内には,物資の不足や環境の悪化,設備の破損など多くの問題が重なっていました。看護師は患者の体調経過に際し,感染症の発症やメンタルバランスの変化により多くの注意を注ぐ必要がありました。医師や看護師・委託職員の避難によって人員不足が生じ,事務処理・清掃業務・警備を行う必要性もあり,本来の看護援助が十分には実施できなかったという申し訳ない思いでいっぱいです。

 3月18日からは重症患者の搬送が始まりました。他施設からの医療関係者・事務員の派遣はなく,自衛隊と当院職員で患者搬送を実施しました。当初は一日で終わる予定でしたが,原発の状況が不安定なため予想外に時間がかかりました。3月19-20日は,病院全体が入院患者の搬送に追われました。

 すべての患者搬送終了後,私たち南相馬市立総合病院の看護師は,原発から30キロ圏内唯一の外来機能を維持するための病院ス...

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