エキスパートの暗黙知を学ぶ(楠見孝,前田樹海)
対談・座談会
2014.02.24
【対談】
経験を糧にするのは問いと振り返り
エキスパートの暗黙知を学ぶ
楠見 孝氏(京都大学大学院教育学研究科 教授 教育心理学)
前田 樹海氏(東京有明医療大学看護学部 教授 看護情報学)
実践の科学といわれる看護学。看護の臨床現場でエキスパートになるためには,看護手順や手技などのマニュアル化できる形式知だけでなく,経験から獲得し言語化が難しい知ーいわゆる暗黙知も身につけなければならない。同じ教育を受けたり,同じ環境で同様の経験をしたりしても,看護師としての熟達度合いに違いが生じてくるのはなぜだろうか。
本紙では,エキスパートが暗黙知を獲得する過程を研究している楠見氏と,看護において暗黙的技術が獲得される過程の理論化をめざす前田氏に,暗黙知を身につけるために必要なスキルや習慣についてお話しいただいた。
学校での学びと仕事での学びはどう違うのか
前田 本日は,各界のエキスパートが持つ実践知を研究対象とする楠見先生に,看護のエキスパートが持つ暗黙知やその身につけ方について聞きたいと思い,やって来ました。まずは,心理学者である楠見先生がエキスパートの実践知に着目された経緯を教えてください。
楠見 私の専門は認知心理学や教育心理学という分野で,人がどのように知識やスキルを獲得するのかについて研究しています。そこで注目したのが学校での学びと仕事での学びの違いです。
きっかけは,私の大学の学生が「アルバイト等の仕事の場のほうが学校よりも多くの学びを得ている」と言っていたことでした。学校の学びと職場での学びは一体何が違っているのか,という疑問を持ったのです。そこで学生たちにレポートを書いてもらったところ,職場のエキスパートが行う仕事の素晴らしさや,その人と比べて自分が未熟であることへの気付き,さらには仕事の学びから自分の成長の実感を得ていることがわかりました。
前田 実際に働いて初めて獲得できる知識というのは,確かに存在しますよね。学校では秀才と呼ばれた人が働き始めるとうまく活躍できなかったり,反対に学校ではそれほど優秀でなかった人が仕事で活躍するケースは,しばしば耳にします。
楠見 仕事の場で活かされる実践知のなかには,学校の講義や教科書を通して獲得される知識――形式知と呼ばれるものと,それとは対比的にとらえられ,経験から獲得される言語化しにくい知識があるとされていて,後者を暗黙知と呼びます。私は研究を進めていくうちに,エキスパートの実践知のなかでも,学校で教える知識ではとらえられない暗黙知が獲得される背景に関心を持つようになりました。
前田 看護界においても,暗黙知が注目された時期があります。それまで自分たちのケアをあまり言葉で表現してこなかった看護界だったのですが,1990年代,病院機能評価の一環として「看護師とは何をする人なのか」ということが問われ始め,看護手順のマニュアル整備をはじめとして自分たちの働きを見える形にしようという動きが起きました。また,そのころベナー氏の『From Novice to Expert』が日本に紹介され1),エキスパートと呼ばれる看護師が実践する素晴らしい看護を言語化することで,若手への技術継承も試みられました。
ところが,実際にやってみると,なかなかうまくはいきませんでした。折しも90年代後半に,野中郁次郎氏らの著書『知識創造企業』(東洋経済新報社)で“暗黙知”という言葉がクローズアップされ,看護界では「自分たちのやっている看護は暗黙知だから言語化できないんだ」という口実として使われる場合と「だったら見えるようにしてやろう」と挑戦の動機になる場合とに二分されたように思います。
楠見 看護師という職業は,他の職業と比べて,暗黙知が重要な仕事だと考えられています。他には教師の仕事も暗黙知の多い仕事と言われていて,単に教科の内容を伝えるだけではなく,多様な生徒の気持ちを酌むスキルが求められます。教師は子どもだけが相手ですが,看護師は子どもから高齢者まで,出産から死まで,人生において大事な時期にある人を相手にしているという意味では,教師よりももっと暗黙知が求められていると思います。
前田 学校で学べる知と,仕事の経験からしか身につかない暗黙知というのがあるならば,それぞれにどんな行動や技術が含まれるのか,もう少し明確に区分できないかと大学教員としては思うのです。
というのも,看護の現場では,新卒の看護師は即戦力にならないと言われることがしばしばあって,学生はもちろん,教員も頭を悩ませています。即戦力として期待される部分に暗黙知的なものが多分にあることから,経験の少ない新卒看護師はその期待に応えられていないのかもしれません。そのギャップに苦しみ,早期に離職してしまう看護師の増加も問題になっています。
楠見 看護における暗黙知は,現場の人とのやり取りの中で身につけ,仕事の場で発揮されて初めて認識される知ですから,どう学ぶのか,どう伝えるのかは非常に難しいですね。
前田 ええ。これらの問題を解決するためには,看護のどういった部分が暗黙知なのかを理解し,教育現場や臨床現場で共有することが必要になるのだと思います。そして,なんでもかんでも「見える化」をめざすのではなく,形式知化できない知識,経験することでしか学べない知識は,なるべく多く経験できるよう環境を整備したり場数を増やしたりする。そういった新たな教育スタイルが考えられるのではないでしょうか。
楠見 そうですね。これまでは,優れたエキスパートが持つ暗黙知を伝えるために形式知化することがめざされてきたのだと思いますが,全てを形式知化して伝えることは不可能です。暗黙知を学校で教えるのに限界がある以上,現場における良い経験でしか学べないこともあるという理解を共有したほうが賢明でしょう。
実践知を支える4つのスキル
楠見 ただ,暗黙知を身につけたエキスパートの思考や行動から,その知を獲得するために必要なスキルを明確化することは可能です。これまでの研究をまとめると,暗黙知を含めた実践知を支えるスキルは, 4つあると考えられます(図)。ひとつは,仕事を早く正確に行うために重要なテクニカルスキル。これは,自分がしなければならないタスクをうまく管理して,仕事を効率よく行うために必要です。仕事のパフォーマンスを支える形式知と暗黙知で構成され,熟達段階によってより高次の力が求められるのは,このスキルです。
図 仕事の実践知を支える4つのスキルと行動(文献2のp.28より転載) |
前田 看護においては,クリニカルラダーがその指標となっていますね。
楠見 ええ。もうひとつが対人的なスキル――ヒューマンスキルと呼ばれるもので,患者の求めや意思を酌む,あるいは同僚とうまく協働するためのスキルです。3つ目のメタ認知スキルは,自己管理のスキルとも言われ,自分の状況やとりまく情報を一歩離れて対象化して考え,振り返り,適切な行動をとるために必要な力です。自分のモチベーションをコントロールしたり,組織の中で自分を成長させるといった意思の強化にも欠かせません。
前田 ヒューマンスキルもメタ認知スキルも,患者さんはもちろん,多職種とも密にかかわる看護職には欠かせないスキルと言えます。特にメタ認知スキルは,悩みの渦中にある自分を客観視するために大切な視点でしょう。
楠見 4つ目がコンセプチュアルスキル。これは,現場の複雑な状況を理解・分析し,問題を発見して解決をしたり,ビジョンを立てて新たなものを創造したりするためのスキルです。特に管理者などの職に就く人には重要なスキルと言えるでしょう。
前田 コンセプチュアルスキルを学校で教えるのは難しそうですね。
楠見 そうですね。学校で学んだ理論や知識をベースとしながら,現場で自ら主体的にかかわった経験を通して身につけなければなりません。かなり難しいスキルだと言えます。
暗黙知を身につけられる人とそうでない人
前田 現場で経験しないと身につかないスキルがあることはわかりましたが,同じような環境で同じような経験を積み重ねていても,暗黙知を身につけられる人とそうでない人がいるのはなぜでしょうか。
楠見 暗黙知の獲得に差が生じる要因のひとつには,経験から学ぶ力や態度の差が挙げられます。同じ経験から多くのことを学べるかどうか,あるいは同じ環境にあっても新たな取り組みにチャレンジできるかどうかが,分かれ目ではないでしょうか。
また,周りの人,特に先輩から良いアドバイスをもらえるかどうかも重要です。壁にぶつかって悩んだり,苦しんだりすることがあったとしても,同じようなことを先輩たちも経験しているでしょうから,先輩や同僚の持つ経験知――つまり暗黙知を,言葉や行動で示してもらうことができれば,自分の経験を学びに変える重要な手掛かりとなるでしょう。
前田 経験を積んでいるからこそ「先輩」と呼ばれるわけで,利用しない手はないですよね。ただ,最近の学生の多くは,問いかけることをタブー視しているようにも感じます。授業でも「バカな質問をしちゃいけない」と思い込む学生が多いようで,私も発言や応答が少ないことに苦慮しています。
楠見 そうした背景には,高校までの学校文化において質問があまり奨励されていないことがあるのでしょう。例えば授業の流れを妨げたくない,あるいは自分の理解不足を知られたくないといった理由で質問をためらうところがあります。大学や職場ではそうした雰囲気を払拭し,質問は非常に大事なことだという認識を共有することが重要でしょうね。また,学生や若手には,ためらうことなく積極的に質問をするよう心掛けてもらいたいです。
ク
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