医学界新聞

対談・座談会

2013.02.11

【座談会】

20年目の再会に,日米の“医人”が語る
今,日本の医療に求めること
日野原 重明氏(聖路加国際病院理事長)
ローレンス・ティアニー氏(カリフォルニア大学サンフランシスコ校教授)
青木 眞氏(感染症コンサルタント)=司会


 ローレンス・ティアニー氏と青木眞氏。二人はともに1992年,日野原重明氏により日本に招かれ,今や日本の医学教育,臨床の発展を語る上で欠くことのできない存在となった。聖路加国際病院の院長室での対面から20年ぶりに集った三氏が,幾多の出会いと学びの積み重ねを経て描き出す,日本の医療の在るべき姿とは――。


青木 ティアニー先生の日本への初訪問が,日野原先生により実現されたことをご存じない方も多いのではないでしょうか。まずは,その経緯からお話しいただけますか。

日野原 私が聖路加国際病院で院長を務めていた,1992年のことです。カリフォルニア大学サンフランシスコ校(以下,UCSF)附属病院を訪れた際,ティアニー先生の教育回診に同行する機会がありました。その回診が非常に印象的で,ティアニー先生はレジデントのために素晴らしい教育ができる真の医師であると感じました。

 日本の若い医師や医学生にもぜひこのことを実感してほしいと思い,日本財団から助成金を受け,福井次矢先生(現・聖路加国際病院院長)が教授を務めていた佐賀医科大学(当時)に,臨床指導医としてご招待しました。それが始まりです。

ティアニー 私の人生を変える出来事でした。その年は,国立東京第二病院(現・国立東京医療センター)と聖路加国際病院をベースにして,東京大学や慶應義塾大学,そのほか日本各地の医療機関で指導を行いました。

青木 実は私もこの年,日野原先生のお招きで米国から帰国,聖路加国際病院に就職し,院長室でティアニー先生と初めてお会いしています。

ティアニー そうでした。それぞれに親交を深めてきましたが,3人がそろうのは実に20年ぶりですね。

 私はサバティカル(研究のための長期休暇)の一環として来日したため,教育に集中できたことがありがたかったです。

日野原 私が聖路加看護大学で取り組んだ改革の一つが,教員に対するサバティカルの導入でした。研究者や教員にとっては,大変意義深い制度だと思います。

ティアニー 全くその通りです。以来,私は何度も来日していますし,何人もの医師を日本に送り出すとともに,UCSFにも受け入れてきました。

 また,娘Julieと妻Mary-Joも日本で多くのことを学びました。特に妻は,精神科看護を専門に看護師の資格を取り,さらにナース・プラクティショナーの道に進みましたので,精神疾患患者のプライマリ・ケアについて聖路加で講義をしたり,看護雑誌で論文を発表するなど,貴重な機会を得ました。日本の医療者の方々とは,家族ともども素晴らしい協力関係を築くことができたと思っています。

 近年私は中国やオーストラリア,東ヨーロッパにも赴くようになりました。それもすべて,日野原先生にいただいたチャンスから,他国の医療制度を知る重要性を学んだことがきっかけです。

日野原氏に"Your influence has spread widely around, not only in Japan but also in U.S., the United Kingdom, and everywhere."と語りかけるティアニー氏。

忘れ得ぬ出会いの数々

青木 日野原先生は,戦後間もない時期から海外に渡られ,多くの偉大な医師と交流の輪を広げてこられたことと思います。ティアニー先生との出会いのように,大きなインパクトを受けた経験があればお聞かせください。

日野原 1951年から1年間エモリー大学に留学した際に,『セシル内科学(Cecil Textbook of Medicine)』の編者であったポール・ビーソン(Paul Beeson)先生に師事しました。

ティアニー 私も,エモリー大のグレイディ・メモリアル病院で研修に従事しました。また,ビーソン先生は私の父とも交流があり,私の講義にご参加いただいたこともあります。日野原先生と一緒に過ごされた時期があったことは,初めて知りました。

日野原 彼の診察からは,驚きと学びを多く得ました。グレイディ病院には当時,35人もの患者さんが失明で入院していました。そのうちの一人を診察したとき,ビーソン先生は検眼鏡で瞳孔の変化を見つけ「メチルアルコール中毒でしょう」とおっしゃいました。

ティアニー 視神経炎を伴うメチルアルコール中毒ですね。

日野原 そのとおり。それを,瞳孔を見ただけで診断されたのです。そして「眼底の診かたを学びなさい」と,私に検眼鏡を貸してくださいました。

 日本では,検眼鏡は眼科医のみが用いるものであり,循環器専門医を自負していた私は当初,戸惑いました。しかし,毎晩病棟に通い,眼底を診させてもらう訓練をして,帰国後は研修医にその使い方を教えるまでになったのです。狭い専門分野に凝り固まりかけていた私にとって,視野を広げてくれた経験でしたね。

ティアニー 実は私も,グレイディ病院のレジデント時代,検眼鏡を用いて網膜に小さな斑点を確認し,粟粒結核症の診断をしたことがあります。現在も,私のもとに実習に来る医学生には瞳孔を拡大する目薬を渡し,眼底検査の方法を実体験させています。忘れられがちですが,一人前の医師になる上では,身に付けておくべきスキルでしょう。

日野原 ビーソン先生は,回診を終えてオフィスに戻ると『セシル内科学』を開いて加筆すべきことをメモし,さらにそのつど,共同編集者全員にメモの内容を送っておられました。先生の『セシル内科学』には1ページおきに白紙のメモ用紙が挟まれ,厚さが2倍になっていたのを覚えています。

青木 熱意のある方だったのですね。

日野原 そのおかげで,『セシル内科学』は2年という短いサイクルで改訂され,読者は常に最新の医学知識を享受できていたのです。

 また,45年前,英国でのジョン・フライ(John Fry)先生という高名な開業医との出会いも印象深いです。フライ先生は長年に渡り『UPDATE』という英国の家庭医向け雑誌の編集に携わった方で,当時から既往歴の記録や,健康診断の重要性を強調されていました。私は彼から多大な影響を受け,日本に招待したこともあります。

青木 病歴や身体診察を重んじる考え方は,ティアニー先生に通じるものがありますね。

日野原 ええ。そうした出会いと学びの積み重ねが後々,ティアニー先生をはじめとした,新たな優れた医師たちとの出会いへと連なっていくのだと思います。

■プライマリ・ケア領域の拡大のために

ティアニー 初めての来日から20年,毎年のように日本を訪れ,医学界の変化を見てきましたが,とりわけ重要な進展は初期研修の必修化だと思います。

 かつて私は,卒後臨床研修が必修ではなく,医学部卒業後すぐ専門科へと配属されることを,日本の医学教育の問題点として指摘しました1)。しかし2年間の卒後研修が必修化され,各科をローテートする要件が導入されたことで,若い医師の臨床スキルは格段に向上したと思います。

青木 おっしゃる通りです。沖縄県立中部病院や聖路加国際病院,亀田メディカルセンターなど,必修化以前から優れた臨床研修制度を備えていた一部の病院に続き,市中病院に質の高い臨床研修プログラムが次々に出現し,優秀な研修医はそちらに集まるようになりました。

 一方で,大学は苦境に陥りました。大学病院に研修医を集めることができなくなり,医局制度の維持も難しくなったのです。それにより医師不足が表面化したという指摘もあるところですが,日野原先生,この点についてどう思われますか。

日野原 医師不足に関しては,単に医師数を増やしても根本的な解決にはなりません。初期研修修了後の進路が個々人に一任されている状況が問題であり,必要なのは,プライマリ・ケアにかかわる領域を志す若い医師を,もっと増やすことでしょう。

ティアニー そのためにはまず,日本の医学部教育や,その背景にある大学の文化の在り方から変えていかなくてはならないと思います。

 私が医師としてのキャリアを歩み始めたころ,UCSFには一般内科の部門さえありませんでした。しかし,ジェネラリストを求める時代の声に押され,大学は教育方針を変更,私も教育を担当すべく招聘されたのです。現在,UCSFの一般内科部門は,臨床科の中で最大規模に成長しつつあります。

青木 他の大学でも同様なのですか。

ティアニー ええ。ハーバード大や,ジョンズ・ホプキンス大でも同様の傾向がみられています。

 そして,教育改革に加えて行うべきなのが,専門医数の規制です2)。例えば米国の神経外科領域においては,受け入れる研修医の人数を制限した結果,過剰な受診や手術を抑え,バランスを保つことに成功しています。各科の専門医集団(Board)が一定の要件を設け,訓練施設やプログラムの質を担保・保証し,自主的に医師数を規制・調整することで,専門医の質も維持されるのです。

 このBoardの中心メンバーは大学に所属する医師が多いのですが,第一線で診療業務をこなす医師も含まれます。重要なのは,専門医になるためには,大学の教授でも他の医師と全く同じ3-6年の正規の臨床訓練を受け,専門医試験に合格しなければならない点です。これに例外規定は基本的にありません。

青木 そうして専門科が適切に規制されつつ,一方でプライマリ・ケア領域が広がる流れが生まれているのですね。

ティアニー そういうことです。

 もう一つ,実際的な手段としては,経済的なインセンティブを設けることでしょうか。学問的な名誉だけでなく,今よりも多くの報酬を得られるようになれば,魅力を感じる若者も自然と増えるのではないかと思います。

日野原 ただ,高収入を得ることが第一の目的になってはなりません。あくまで「患者さんにとって良い医師である」という医師の使命を最優先した上で,熱意や努力に見合った報酬を得られる。それが理想的なかたちだと思います。

女性医師の働き方をもっと柔軟に

日野原 日本では昨年,100歳以上の高齢者が5万人を超えたことが発表されました。社会の高齢化が今後いっそう進む中,特に求められるのは,高齢者を診られるプライマリ・ケア医です。老年医学の知識に加えて,認知症の患者さんなどに接する際の思いやりや,コミュニケーションをうまくとるといった能力も必須になると考えられます。

ティアニー 老年医学は,米国でも成長著しく,レジデントにも人気がある分野です。私は年々増えている女性医師が,この分野でもっと活躍できるのではないかと考えています。

青木 日本でも女性医師の数は増えています。しかし,彼女たちを取り巻く環境はまだ厳しく,出産・子育てなど女性のライフイベントと両立させようと思うと,なかなか思う通りのキャリア選択ができないことが問題になっています。

日野原 “女性医師が増えれば増えるほど実質的なマンパワーが減るのではないか”。男性より優秀な成績を収める女性がたくさんいるのにもかかわらず,女性の医学部合格者数があまり伸びない背景には,そういう懸念が潜んでいるように思います。

ティアニー 米国でも,1970年代ごろまでは同様の状態でした。しかし今や,UCSFの医学部では女性の数が男性を上回っています。もちろん,比較的負担の少ない眼科や皮膚科を専門として選択する女性も多く,例えばUCSFの皮膚科は,ほぼ女性で占められています。ただ一方で,泌尿器科など,昔は女性のなり手がほとんどいなかったような専門科をめざす女性も増えているのです。

 女性医師たちの長年にわたる運動の結果,いかなる専門や職種からも排除されないことが法的・倫理的に保障され,自分の人生で重きを置きたいことに合わせた,柔軟な働き方が可能となりつつあると言えます3)

青木 “仕事か,家庭か”の2択ではなくなったということですね。これは,日本でも参考にしたい事例です。

110歳の“夢”は……

青木 最後に,日野原先生が注力しておられるメディカル・スクール(医師養成大学院)構想についてお話しください。

日野原 今,医学界に求められているのは,受験勉強一筋の学生よりむしろ“人間に関心のある”学生です。しかし現状の制度だけでは,そうした長所を持った学生がどうしても選ばれにくい。米国などのように,社会人や一般大学の卒業者を受け入れる専門職大学院を作ることで,これまでの選抜方法では見いだせなかった人材が発掘できる可能性があるのです。

ティアニー UCSFでの教職生活を40年近く続ける中で,一般教養を学んでいったんは金融や建築などの職に就き,高収入を得ているものの「医学部に入り直し,もっと充実した仕事をしたい」と希望する20-30代の若者を多く見てきました。

 大学で基礎科学を学んでいなくても,ハーバード大やカリフォルニア州オークランドのミルズ・カレッジなどにある,医学進学課程(Pre-Med Course)で1年間集中的に学び,進学適性テストに通れば,医師養成大学院に出願することができます。そうして医学の世界に足を踏み入れた人たちは,年齢以上に成熟しており,素晴らしい経験をしてきた人ばかりです。優れた医師になる場合も多いと断言できます。

日野原 実のところ,日本ではこの制度案に賛同しない声も多くあります。しかし,実行する前から批判するのではなく,まずは新しいルートを創出し,新しい人材を育てさせてほしい。そして10年後,育った医師を見て判断してほしいのです。

 聖路加国際病院に,クリーブランドクリニックやメイヨークリニックのような医師養成大学院を創設することが,この先110歳までの私の夢です。

青木 使命感と熱意を持った医師を増やしていく教育のための発信を,ぜひ今後も日野原先生には続けていただきたいと思っています。また,ティアニー先生にもぜひ継続して,日本の臨床教育の行く末を見守っていただければ幸いです。本日はありがとうございました。

(了)

文献
1)Tierney L. An Experience in Japanese Academic Medicine. West J Med. 1994;160(2):139-45.
2)ローレンス・ティアニー.卒後臨床研修における必修科目削減を憂う.週刊医学界新聞.第2826号;2009年4月13日.
3)連載「ノエル先生と考える日本の医学教育」第910回.週刊医学界新聞.第2866号,2870号;2010年2月8日,3月8日.


日野原重明氏
1937年京都帝大医学部卒。41年聖路加国際病院の内科医となり,92年には同院院長に。73年(財)ライフ・プランニング・センターを設立。米国臨床医学の導入,日本初の独立型ホスピスの創設など,医療,看護領域において改革の先駆者であり続けている。2000年には「新老人の会」を結成,全国の小学校に出張し「いのちの授業」を行っている。99年文化功労者,05年文化勲章受章。近刊の『日野原重明ダイアローグ』(医学書院)をはじめ,専門書から絵本まで,著作は200冊以上におよぶ。

ローレンス・ティアニー氏
1967年米国メリーランド大医学部卒。85年より現職。「診断の神様」と呼ばれ,最も尊敬される内科臨床医の一人。92年から毎年来日し,いくつかの臨床研修病院で教育に当たる。患者から学ぶことを最も大切にし,病歴と身体所見のどこに着目するか,鑑別診断の重要性についてユーモアを交えながらの教育講演は絶大な人気を誇る。昨年11月『ティアニー先生のベスト・パール2』(医学書院)を刊行。

青木眞氏
1979年弘前大医学部卒。沖縄県立中部病院,米国ケンタッキー大などで研修,その間宮古島で離島医療も経験する。日野原氏との出会いは,同島で企画した症例検討会。青木氏の開発した細菌室用ソフトが縁で,後に聖路加国際病院に招かれ,同院感染症科,国立国際医療センターエイズ治療・研究開発センターを経て現職。全国の医療機関などで感染症コンサルテーションを行うほか,複数の大学の客員教授・講師を兼任。著書に『レジデントのための感染症診療マニュアル(第2版)』(医学書院)など。米国内科学会フェロー(FACP),米国感染症学会フェロー(FIDSA),米国内科専門医,米国感染症内科専門医。

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