医学界新聞

寄稿

2013.01.28

【寄稿】

話して,離して,放す――
語りのとき,あなたがいてほしいわけ

佐藤 泰子(京都大学大学院人間・環境学研究科 研究員)


 こころのケアについての援助職者用の教科書には,必ずと言っていいほど「聴くことが大切」とのくだりがある。しかし「なぜ聴くのか?」と自明を突き崩すような疑問を持つ人も多いのではないだろうか。苦しいとき,なぜ人は誰かに語りたいのか,それを聴いてほしいのか。あるがん患者が私に言った「"話す"ことは,苦しみを"離す"ことのように思う」という言葉から,援助職者にとっての「聴くことの意味」を問い直してみたい。

話す――思考の再構成の「場」

 思考は言葉を使って行われている()。しかし,その言葉の有り様は構成された流暢な文章ではなく,単語や短い文がフラッシュし,そこに想起された情景が織り交ぜられる混沌としたものである。何か苦しいことがあって悩んでいるとき,まとまりのない思いが,ばらばらに浮かんでは頭のなかでぐるぐる渦巻き,そのなかで溺れてしまうような感覚さえある。苦しい思いを理路整然とした文章のような形式で認識できることは,ほとんどない。

 誰かに苦しみを語るとは,浮かんでは沈むばらばらな言葉を紡ぎながら意味の擦り合わせを行い,文脈を取り繕い,思考の再構成をしていく作業である。人に話をする際,私たちはできるだけ文法を間違わないよう,語りの前後で文脈に不合理や矛盾が生じないよう気遣いながら発話する。しかも,語りという思考の再構成を始めると,一人で独白的に思考しているときには浮かんでこなかった言葉が,まるで抑圧の蓋が取り除かれたかのように湧き出ることがある。語りは,知り得なかった自己の思いや新しい言葉が溢れる泉のような「場」なのだ。湧き出ずる言葉を紡ぎながら語ることで,織り直された新しい世界が広がる。語りの先には,自ら見つけ出す新しい意味が控えているのである。

離す――自他間の深淵に苦しみを離す

 苦しみの語りから新しい意味を得るためには,誰かの存在が必要だ。当たり前のことだが,語っている「我」は,話を聴いている「汝」になることはできない。同じく「汝」も「我」となって,「我」の経験を体感することはできない。世に真実は一つなのかもしれないが,事実は「人の数×認識の仕方の数」だけある。つまり,事実としてわれわれの前に現れている事柄は,あくまで主観的な解釈によって認識されているのであって,他者は同じ事柄を違った事実としてその都度とらえている。したがって語り手と聞き手は,互いの思いを100%理解することはできず,その間にある深い淵の存在を認めざるを得ない

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