日野原重明氏に聞く
インタビュー
2012.10.29
【interview】
『週刊医学界新聞』3000号スペシャル・インタビュー
日野原重明氏(聖路加国際病院理事長)に聞く
敗戦により接収された病院図書室でウイリアム・オスラーを知る。
オスラーに導かれるかのように,1951年,39歳にして米国留学を果たす。
帰国後は臨床医学教育の改革や予防医学の普及に着手。
58歳でよど号ハイジャック事件に遭遇した後,「神様から与えられた」第二の人生を医の道に捧げる。
その歩みは,101歳を迎えた今もなお続いている。
私の人生の大半は既存のシステムとの戦い。 めざすべき未来がみえたなら,行動に移さなければ何も変わらない。 |
日野原 1955年というと,私が43歳のときですね。
――そのときは日野原先生の著書『水と電解質の臨床』の紹介記事でした。
日野原 私は1941年に聖路加国際病院の内科医として赴任し,戦後すぐに『看護学雑誌』で『高等看護学講座』(後の『系統看護学講座』へと発展)の執筆を始めました。
米国エモリー大学に1年間留学したのが1951年。帰国後はドイツ式に偏っていた当時の日本の医学に米国式の医療を取り入れたいと思い,著述活動に力を入れました。そこで最初に出版したのが,『水と電解質の臨床』です。当時は日本語で書かれた電解質のテキストはなかったので,内科医も外科医もこぞって買い求めました。
――顔写真付きの記事は1959年が最初で,「『今日の治療指針』の編集に当たった日野原重明氏」と題した人物紹介の記事が載っています。
日野原 あれも,米国の“Current Therapy”に相当する本が日本にあると有益だろうということで,私が医学書院に話を持ちかけたんです。毎年改訂して,開業医も勤務医も買うから,医学書院の大きな収入源になりました(笑)。
――武見太郎先生との対談(写真)を振り返っていただけますか。
武見太郎氏(写真左)との対談「科学・哲学・医学」より |
(『週刊医学界新聞』1982年1月4日発行1479号) |
日野原 私もまだ若いねぇ。日本医師会長の武見太郎先生に対して,私は聖路加国際病院の内科医でした。おまけに聖路加の院長だった橋本寛敏先生は日本病院協会(現・日本病院会)の会長を務めた方で,病院協会と医師会は対立関係にありました。でもどういうわけか,私は武見太郎先生にはとても可愛がってもらった...
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