チンパンジーと私たち(松沢哲郎,瀬戸嗣郎)
対談・座談会
2012.09.17
【対談】
チンパンジーと私たち
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「進化の隣人」と呼ばれるチンパンジー(「MEMO」参照)。500万年前に人間の共通祖先と分化したとされ,現生生物では最も人間に近縁な種の一つと言われている。2005年には,遺伝子配列の約98.8%が人間と同じであることも明らかにされた。そんなチンパンジーと私たち人間,どこが同じで,どこが違うのだろうか。私たち人間とは,何か――?
本対談では,長年チンパンジーの認知と発達の研究に携わり,昨年『想像するちから』(岩波書店)で毎日出版文化賞を受賞した松沢哲郎氏と,松沢氏とは大学時代の同級生で小児科医の瀬戸嗣郎氏を迎え,チンパンジーを通してみえる人間の本性,そして医療の在るべき姿についてお話しいただいた。
瀬戸 先ほど,研究所内を見学して,約10年ぶりにアイ(右写真)とアユムに会いました。アユムの成長ぶりには驚かされますね。松沢先生とアイは,何年ぐらいの付き合いですか。
松沢 アイは私が霊長類研究所に赴任した翌年に来ましたから,付き合いはもう35年になりますね。
アイは霊長類研究所のチンパンジー。比較認知科学に基づいたさまざまな認知課題を行い,「数を数える天才チンパンジー」として有名になった。2000年にアイの息子アユムが誕生すると,親子の参与観察研究も開始された。
瀬戸 先生はどのような経緯でチンパンジーの研究を始めたのですか。
松沢 学部時代は文学部哲学科にいて,修士課程ではマウスの脳の研究,縁あって博士課程の途中から,霊長類研究所でチンパンジーの研究をすることになりました。そんな経歴ですが,昔から変わらず根底に持っている問いは「人間とは何か」ということ。歴史上,多くの研究者がこの命題に挑戦してきたなか,私は「アウトグループ」に着目しました。
簡単に言うと,例えば日本のことを知りたい時,海外と比較する人がいますよね。それと同じで,人間のアウトグループ,人間ではないものに目を向ける。この切り口で,「人間とは何か」という問いに挑戦してきました。人間に最も近縁だけど,人間ではないチンパンジーは,人間を研究するにあたって非常にユニークな存在。人間だけを見ても絶対にわからないことが,チンパンジーを研究してわかってきました。
瀬戸 その発想は斬新ですね。
松沢 医師も持つべき考え方だと思います。患者を理解することは,医師である自分を顧みること。患者と向き合っているその人自身は,当然「医師」なのですが,患者だけではなく患者の周囲にも目を向けると,自分が医師である以前に,親であり子であり,上司や部下であることに気付くでしょう。患者やその家族と向き合うことは,おのずと自分自身や周囲にいる医療従事者を理解することにつながるのではないでしょうか。
瀬戸 なるほど。その視点を持つことは,自分たちの生活や日々提供する医療を見つめ直すことにもつながりそうですね。
あおむけの人間らしさ
瀬戸 アイとアユムの親子研究から明らかになった,人間とチンパンジーの発達過程や育児過程における違いは何でしょうか。
松沢 乳児期の人間らしい特徴として挙げられるのが,あおむけの姿勢です1)。赤ちゃんの時期にあおむけの状態で安定するのは,実は人間だけ。人間の親は,赤ちゃんが生まれたその日から横にポンと置きますよね。一方チンパンジーは,生後3か月ごろまで子どもを一切離しません。互いに抱き合って生活しています。
瀬戸 なぜ人間はあおむけに寝かされ,チンパンジーはそうされないのですか。
松沢 そもそもの生物学的な繁殖戦略が違うからでしょう。チンパンジーの場合,母親が一人で子育てをします。もちろん生物学上のお父さんはいますが,特に何もしません。母親は子どもがある程度大きくなるまでしっかり世話をするため,5年間は次の子どもを産まないのです。
瀬戸 5年も! それまでは母親の体が出産に向けて整わないのですか?
松沢 はい,出産後4年間は発情しません。一方人間は,多くの場合生まれたその日から,父親,祖父母,きょうだいと,いろんな人が子育てに参加します。こうして多くの人が子どもに関わるため,母親は短期間に複数の子どもを出産しても,同時に育てられるようになりました。
瀬戸 だから人間は,まだ手のかかる子どもがいても,最短で翌年には次の子どもを出産できるのですね。
松沢 ずっと抱えられていなければならない赤ちゃんよりは,あおむけでじっとしている赤ちゃんのほうが,母親はより少ない負担で,多くの子どもを育てられます。こうして人間の赤ちゃんは,あおむけで寝られるよう進化したと考えられるのです。
瀬戸 チンパンジーの母子が一対一の育児関係であるのに対して,人間は赤ちゃん一人に対して大勢が関わる。そんな違いがあるのですね。
松沢 こうしてあおむけで寝るようになった人間は,3つの重要な特徴を持ったと考えています。
まずは,対面コミュニケーション。あおむけにされると,両親や祖父母,周囲の人からのぞき込まれますね。すると,次第に赤ちゃんは反応するようになる。相手の目をみて,あんなにニコニコ笑うのは,人間の赤ちゃんだけです。
瀬戸 人間は生後1か月半から2か月で,ニコッと微笑むようになりますね。大人が世話したくなるのもわかります。
松沢 二つ目は,声によるコミュニケーション。チンパンジーの子どもは夜泣きをしません。なぜなら,おなかがすけば自分で目の前にいる母親のおっぱいを探せばいいのですから。でも人間の場合,母親が離れているため,泣いて呼ばなければなりません。それに対して母親も,「どうしたの?」と声をかけます。声のコミュニケーションは,赤ちゃんが言葉を喋る以前から始まっているのです。
最後が手と道具です。チンパンジーも大人になれば道具を使用しますが,生後4-5か月で何か物を操作することはありません。人間はあおむけで手が自由だから,早くから物を扱えるようになったと考えられます。
瀬戸 確かに人間の赤ちゃんは早期から物を持ち替えたりして遊びますね。
松沢 よく本には,人間は二本足で立つようになったことで,手が自由になり,物を扱えるようになったと書いてありますが,あれは間違いだと思います。なぜなら私たちは赤ちゃんのころから,つまり立てるようになる前から,あおむけの状態でいろんな物を操作していますよね。人間の道具使用,ひいては脳を進化させたのは,二足歩行ではなく,あおむけの姿勢だったのです。
瀬戸 赤ちゃんがあおむけに寝かされることひとつから,こんなにさまざまな人間らしさが見つかるのですね。
教えないチンパンジー 褒めて認める人間
松沢 教育という観点で面白いのが,チンパンジーの母親は子どもに何かを教えようとしないということ。チンパンジーでは,母親ではなく子どもの方に,非常に高い動機付けが存在します。彼らはまず周囲がやっていることをじっと見て,次第に真似てみるようになり,そうするうちに道具使用や小さい子どもへの世話を学んでいく。これが,チンパンジーの「教えない教育」です。
瀬戸 人間の社会にもありますね。例えば,すし職人は弟子にすしを握って見せるだけ。弟子は雑務をしながら,師の技を横目で見て学び,徐々に握れるようになります。
松沢 人間の教育でも,「教えない教育」というのは一つの型なんだと思います。これと対極にあるのが「教え込む教育」,学校教育ですね。
瀬戸 私は,背中を見て学べという教育のほうが,自分の解釈や意見,芸術性といったものを芽生えさせると思います。人間にとってすごく本質的な教育の在り方ですが,現代においては忘れられがちではないでしょうか。
松沢 どちらの教育も否定されるものではありませんが,私のいる基礎学問の世界では間違いなく「教えない教育」のほうが優れていますね。「教え込む教育」では師を超えられない。先生に教え込まれてしまうと,その先生よりいいものになんかなりっこないですから。
瀬戸 そこは医学界の教育とは全然違いますよね。職業人としての医師を育てるためには,一定レベルを満たす知識や技術の標準化が要求されます。
松沢 そうですね。標準化も重要ですし,私みたいに一年に一人の学生を育てればいいというわけにもいきませんから,効率性も大事ですよね。
瀬戸 それでも「教えない教育」には憧れますね。良い医師を育てたいと思ったら,効率性を教育の物差しにはしたくないです。
松沢 気持ちはよくわかります。
もうひとつ,人間らしい教え方を見つけました。それが「認める,褒める」ということです。
瀬戸 チンパンジーは,子どもを褒めないのですか?
松沢 うん。こうしてうなずくこともありません。認めるというのは,「教えない教育」とも「教え込む教育」ともまったく違う,すごく人間らしいささやかな配慮だと思います。
瀬戸 確かに人間は,教える時に認める行為を繰り返しますね。
松沢 つまり,「今日の手術はよかったね」と褒め,「もうちょっとこうするといいんだよ」とそっと手を添えるのは,チンパンジーが絶対にしない,人間らしい教え方だと言えるんですよ。
アイの認知実験の様子 |
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