医学界新聞

対談・座談会

2012.01.23

座談会

変革期の今,社会資源としての看護職に期待される役割とは

松月みどり氏(日本看護協会常任理事)
安井はるみ氏(医療法人あんしん会 四谷メディカルキューブ看護部長)=司会
長松清潤氏(横浜妙深寺・京都長松寺住職)


 看護職は,常に保健福祉医療の「受け手」である患者の視点で看護実践をとらえ,その責務の「担い手」として,社会から要求される役割を遂行している。そうしたなかで自らの専門性を最大限に生かすには,「受け手」のニーズの変化と,「担い手」の役割との調和をいかに保つかが大きな命題となる。

 国民の価値観が大きく転換したと言われる2011年。新たな年を迎え,本座談会では,社会とのかかわりのなかで看護職の在り方を模索する松月みどり氏,安井はるみ氏,社会活動を通じて宗教家としての存在意義を問い続ける長松清潤氏と共に,「社会資源」としての看護職がこれから担うべき責任や役割について考えたい。


安井 「ハーバードビジネスレビュー」誌などでも取り上げられているCreating Shared Value(CSV:共通価値の創造)という概念が話題となっています。企業が社会に対して責任を持つCorporate Social Responsibility(CSR:企業の社会的責任)から,社会とともに新たな価値を生み出していくCSVへの変化。つまり社会的責任があるから何らかの事業に取り組み,社会貢献につなげるのではなく,社会貢献を第一義的目的とし,事業展開を通じて社会と企業,両方の役割や存在価値を高めたり,新たな価値を創造していくという考え方です。

 医療と企業活動では若干異なる面もありますが,CSVは変革期にある医療界全体の中で,看護職に求められる役割拡大,価値の可視化など,医療の「受け手」「担い手」の双方において高品質な「価値」を創造していく概念として参考になるのではないかと思いました。

松月 昨今医療者と患者のよりよい関係づくりが模索されていますが,医療者と患者はいまだ「助ける人」と「助けられる人」という構造になっていて,一つのコミュニティを形成するパートナーにはなり得ていないように思います。そのようななかで「共通価値」を見いだしていくことへの難しさも感じます。

 とはいえ,看護は実践の科学と言われるように,患者さんの個別性に対応すべく日々応用が求められます。その時々で社会に何を求められ,それにいかに応えていくかは,やはり重要な課題と言えます。

社会での専門職の存在意義をあらためて問い直す

安井 長松さんは僧侶でいらっしゃいますが,東日本大震災直後にいち早く被災地に向かい,最高級のステーキや有名イタリア料理店のピザを被災者に提供されたそうですね。

長松 被災地の状況は刻々と変わり,必要なものも変わります。震災発生直後には衣服や靴,続いて水や食糧,老眼鏡などを届けました。少し時間が経過したところで「炊きたてのご飯を食べたい」という被災者の声が届いたので,お寺に集まる人の輪を通じて協力を仰いだところ,趣旨に賛同した企業などから食材を提供していただくことができ,大規模な炊き出しを行ったのです。

安井 ただ空腹を満たすだけではなく,おいしくて生きる意欲につながるものを満たすことに専心されたということですね。

 長松さんは宗教という枠にとらわれない広い人的ネットワークを構築されており,日ごろからそれを活用して新たな役割を実践されていると伺いました。

長松 私はこれまで,寺院は地域のコミュニティの中心だと思ってきました。現代は「無縁社会」とも言われますが,仏教では本来,お寺こそ地域の中で「有縁社会」を築き,人と人をつなぐ存在ととらえています。お寺は檀家のためだけにあるのではない。ですから,震災時には僧侶としてやるべきことを考えて活動したつもりです。

 しかし,その活動を通して痛切に感じたのは,寺院,僧侶の存在意義とは何か,ということでした。

安井 何かきっかけとなる出来事があったのですか?

長松 震災直後,被災地のあるお寺に物資の提供を申し出たところ,ご住職に「必要なものは足りているから,別に要らないよ」って断られたんです。私たちはそのご住職や家族に対して物資を届けたかったのではなく,近隣の避難所や被災した方,あるいは寺院に避難してきた人たちに対し,寺院を介して必要な物資を行き渡らせたかったのです。しかし実際には,被災した人たちのために門戸を開かなかった寺院もあったと聞きますし,住民も寺院に助けを求めなかった。全国津々浦々に寺院があるにもかかわらず,仏教はいまや儀礼化し,こういう緊急事態ですら地域のコミュニティから孤立している。生きた人たちが集う場ではなくなっていると実感しました。

安井 医療も同じような課題を抱えているように思います。医療者は自分の施設や部署に強い帰属意識を持ち,眼の前の出来事には一生懸命対応する反面,地域や社会の視点から見た自らの役割を客観的に考えて,行動するということに至らない場合もあります。

 震災当日,当院には思いがけず地域の方々が多く避難されてきて,その対応に追われました。病気やけがはないけれど,不安を抱えた生活者に気軽に当院を活用していただくことを事前に想定していなかったのは,私自身今でも反省しています。日ごろから地域のコミュニティに存在する意義を考えて備える役割が医療施設にはあることを痛感しました。

専門的価値に基づく判断とは

長松 私は常々,寺院と病院は社会から求められる役割に共通している部分があって,本来的には非常に近い存在だと考えています。仏様は「すべてのものは燃えている。欲望と怒りと愚かさによって」という言葉を遺しておられます。その火事を消し人々を救い出す,いわゆる消防士の役割を担うのが僧侶であるというのです。

 さらに,消防士に火災予防に努める任務があるように,日ごろから人々とかかわり悩みを聞き,“心の火事”を未然に防ぐ。本来はこのような役割を担っているはずです。

安井 人とかかわりながら,病気を早期発見して大きな火事になる前に治療する“消す”という役割と,病気になる前から健康管理や命の大切さを説く“防ぐ”という役割を担う医療と,共通する部分がありますね。

長松 「近代医学の祖」といわれる緒方洪庵が著した『扶氏医戒之略』には,「医の世に生活するは人の為のみ,おのれがためにあらずということを其業の本旨とす。安逸を思はず,名利を顧みず,唯おのれをすてて人を救はんことを希ふべし」と書かれています。この言葉にも,仏教と相通ずるものを感じます。

松月 そう言われて思い出したのですが,日本の看護の歴史を紐解くと,奈良時代,飢饉や疫病の際に病んだ人々の世話を行ったのは僧侶であったとされています。さらに時代が下り戦国時代になると,外科治療の心得のある僧が戦場に赴いて兵の治療に当たったとされます。

 1995年の厚生白書で,医療は初めて「サービス」と定義されました。以降,私たちは自分たちの業務をそのようにとらえ直そうとしているのですが,どうしても違和感がある。今,長松さんのお話を伺って,私たちは「人を救おう」「人のために何かをしよう」という日本の文化に根付いた伝統的な価値観を自然と身につけているのかもしれないと思いました。

安井 そうした価値観を有しているが故に,医療をサービスととらえにくくなっているということですか。

松月 ええ。例えば,超過勤務をしてでも「この患者さんにこれをしてあげなければいけない」という思いが看護師にはありますが,特に管理者という立場では日々葛藤があるんですよね。「この人にこういうことをしてあげたら,もっとよくなるのに」と思うけれども,時間には限りがありますから,すべてをやることはできない。だからこそ,ある程度割り切って,患者さんを観察して優先すべき事柄を総合的に判断し,適切にかかわることが看護の専門性とされるのですが,スタッフにとってはなかなか納得できない部分もあるようです。

長松 疲れ切ってしまって「目の前のことだけやっておけばいい」と思うのではなく,逆に「自分の時間を削ってでも,この患者さんにこれをやってあげたい」と思えるのはすごいことですよね。

松月 ただ,そうとも言い切れない部分もあるんです。例えば,「残業してでも,患者さんの身体をきれいにしてあげたい」とスタッフが固執する姿を見ていると,管理者目線かもしれませんが,「それは患者さんが気持ちいいのではなく,あなた自身が気持ちいいんでしょう」と,時として思うことがあります。

安井 「患者さんが望むこと」ではなく,看護師である「私」が個人的価値観に基づいて価値を見いだしているということですね。

松月 ええ。もちろん清拭という行為には,患者さんの血行を良くする効果があります。看護はこれまで自分たちの日々の実践を検証し効果を見いだすことで,専門性を確立してきました。であるが故に,患者さんに自分の技術を提供しないことには看護師としてのプライドを否定されたような気になる,そういった気持ちが見え隠れしているように思うのです。ケアの対象ではなく,自分が主語になってしまっている。

長松 実は,私たちの間でも同じような警鐘が鳴らされています。仏教の世界では公に対する行いを「ご奉公」と言い,英語では「サービス」と訳されるのですが,言葉では「ご奉公」と言いながら,結局は自分が食べるためであったり,「やってやった」と自己満足して喜んでいるのではないか。つまり自分自身に奉ってはいないかということです。

安井 相手が主語になるのか,あるいは自分自身が主語になってしまうのか,人間はどちらにもぶれることがあると思います。だからこそ,「何のためにこの仕事はあるのか?」という基本に立ち返って,自分を俯瞰するバランス感覚が大切だと思います。

専門分化すればするほどできる壁

長松 先ほど医療者と患者間のよりよい関係づくり,というお話がありました。何か転機となる出来事があったのですか?

松月 1999年に起きた横市大病院における患者取り違え事件などを契機に,患者と医療者の関係が大きく転換しました。これまで安全だと思って身を委ねていた医療には不確実な部分があると,国民が知ることとなった。それまでは,たとえ思い通りの結果にならなくても,医療者が全力を尽くすことで納得してもらえたのですが,それだけでは通用しなくなるという大きな壁にぶつかってしまったんです。

 さらに,医療者と患者の信頼関係に基づく新たな医療の在り方を模索するなかで,「治療に当たる上での患者さんへの十分な説明と同意」が強調されるようになりました。そこでぶつかったさらなる壁は,患者さんに“言葉が通じない”ということでした。

長松 それはどのような意味ですか?

松月 例えば,「ショック」という言葉について,医療者は「患者さんの血圧が低下して命が危ない」という意味で用いますが,一般の方にとって「ショック」とは,心の状態を表す言葉です。このように,病院で使われる言葉の多くは,患者さんにとってはなじみがなく理解するのが難しいものが多いのです。言葉が理解できなければ,患者さんも自分の治療について的確な判断を下すことは難しい。そのような問題意識から,国立国語研究所が中心となり,2009年に「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」が出されました。

 事前のアンケート調査では,8割を超える国民が「医師が患者に対して行う説明の言葉の中に,分かりやすく言い換えたり,説明を加えたりしてほしい言葉がある」と回答しています。その結果を見て初めて医療がどのように見られていたかを知り,社会からの視点をより意識するきっかけとなった気がします。

長松 素晴らしい取り組みだと思います。

松月 とはいえ,医療者の受け止め方も千差万別ですし,多くの患者さんにとって医療は一過性のものですから,病気が治ってしまえば医療とのつながりは薄くなり,根本的な問題は先送りになってしまっているのが現状です。

長松 実は仏教も,古来同じような歴史を繰り返してきました。専門化が進みすぎて言葉が通じなくなり形骸化し,それを立て直そうと改革の気運が高まり,一般の人にも受け入れられやすいように大衆化する。乱世と治世を繰り返すのは,ある意味自然な流れなのかもしれないですね。

安井 乱世と治世を繰り返すことは,ぶれ過ぎた状況からあるべき「原点」を見直した結果ではないでしょうか。「原点」とはつまり,「何を追求する(価値を見いだす)か」ではないかと思います。それはとても大事なことです。医療の不確実性にしても,言葉にしても,どうしても完璧には共有できないものがある。そのようななかで必要となるのは,高度な知識や技術の習得といった専門性を追求するだけでなく,社会の人たちと対話し,めざすものを共有しながら追求していく視点なのかもしれないですね。

松月 同感です。でも,実現はまだまだ難しいです。

 実は,患者さんと医療者の間に共通言語がないことが明らかになったとき,私は「情報の非対称性」という問題をあらためて痛感し,市民に最低限の専門用語を知ってもらう必要があると考えました。患者さんの側にも自分自身の身体のことについて理解する姿勢を持ってもらわなければ,対等な対話は成り立たないからです。

 そこで考えたのは,子どもたちに対して病院で用いられている専門用語を伝えていくことでした。そうすれば次代の医療はもっとよくなるはず。そんな期待を込めて,近所の小学校に提案したんですね。そうしたら,応対してくれた先生は「僕は元気で死にたい。病気のことは怖くて考えたくない」って(笑)。病院とは縁なく,健やかに死にたい。なるほどなぁと,それからさらに一歩踏み込むことができませんでした。

「看護職の社会化」を牽引する

松月 私は最近,看護職の役割がどのような存在であるのか,社会に見える形になっていないのではないかと危機感を抱いています。集中治療室の看護師は,血圧の実測値など患者さんの病態をアセスメントし,昇圧剤の投与量を医師の指示の範囲内で,自分で判断して調整しています。そういったことは看護師も説明しないので,患者さんやご家族はほとんど知りません。おそらく病院での看護師のイメージは,患者さんに声をかけたり,注射したりしているという認識にとどまっているのではないでしょうか。

 看護師一人ひとりは,自分の専門性に対する意識は非常に高いけれど,その一方で,例えば看護師の中に認定看護師,専門看護師がいること,さらに看護師特定能力認証制度の法制化に向けた取り組みが進んでいることを,世の中の人はどのくらい知っているでしょうか。私たちは病院という閉ざされた空間で,内側を向いて歩いているのではないかと考えさせられます。そろそろそのことをきちんと認識し,自分たちがどのような存在であるべきかを問い直す時期にきていますよね。

長松 それは私たちも同じかもしれません。今は仏教ルネサンスと言われるように,僧侶であることに誇りを持ち,外に向けて情報発信する若い世代は確実に増えていますが,それでもなお,寺院の外では僧侶は全然見えていないですよね。そもそも私たちはお坊さんの格好では病院に入れないんです。

松月 そうなんですか?

長松 「縁起が悪い!」って,患者さんが嫌がるから(笑)。仕方なく,私たちはスーツに着替えて患者さんのお見舞いに行っていますが,欧米ではベッドの上に十字架があるのも,牧師が病院で病人の手を握り,祈るのも当たり前です。以前は日本でも,病人に寄り添い,看取り,ご遺体を受け取って着物を替えて水をいただく,という一連の流れは,僧侶の重要な役割でした。僧侶こそが「おくりびと」であったわけです。

 生きている人にごく自然にかかわっていくにはどうしたらよいのか。それが,これから私たちが越えなければいけない壁だと感じています。

安井 そのために何が必要でしょうか?

長松 私自身は,まずは交流の場を持ちたいと,月1回「ボーズバー」を開催し,近隣の方と語らう機会を持っています。看護師さんの場合は,もっとごく自然な形で活躍する場がたくさんあるのではないでしょうか。

松月 多くの看護職は社会の役に立ちたいという思いを強く持っています。看護の役割が今後ますます拡大していくなかで,自身の専門性を高めるだけでなく,例えば地域看護に取り組む,あるいは市民の健康教育に携わっていくなど,活躍の場は無限にあります。とりわけ超高齢社会の今,地域にどのような人がいてどんなニーズがあり,どこにどのような医療資源があるのかを見極め,そのサービスを地域の人がうまく活用できるように調整する保健師のような役割も,ますます重要になってきます。

安井 現状では,組織のルールに縛られて,既存の役割の枠から出られないことが多いのかもしれません。自分の組織の中で決められたことを正しく行うことに比重が置かれ,組織の外に出て,社会の中で新たな自分の役割をつくっていくことに関心が向きにくくなっている。

長松 「あなたは,絶対に外へ出ても役に立つよ」と言ってくれる存在がいるだけで,大きな後押しになるのではないでしょうか。

松月 そうですね。私が病院に勤務していたころは,看護師長にその役割を期待していました。病院の置かれている状況や社会の動きにアンテナを張り,3-5年先のビジョンを持ってスタッフを後押しする。そういった師長がいると,スタッフにもよい影響を与えますから。

安井 昨年の第15回日本看護管理学会のテーマは「先をよむ」でしたが,変革期だからこそ日々に埋没し過ぎず,社会状況の変化を看護の仕事とつなげて考えることができる力,想像力が,管理職にとって重要ではないでしょうか。

社会資源としての意味を問う

長松 お話を伺って,看護職は専門性が高く,緊張感を持って続けなければいけないハードな業務であることを実感しました。

松月 本当にそう思います。それだけに,高い志を持っていても,自分の役割について立ち止まって考える余裕がなくなっていることが懸念されます。私は「疲れたら充電することも大切」とスタッフに言ってきましたが,長松さんは悩める人が来たら何と言うんですか?

長松 「持ちすぎだよ。降ろしてみたら」と言うでしょうか。「捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」。浅瀬に乗り上げているのは荷物を積みすぎているからで,何かを捨てれば吃水面が浮かび上がって,また動き出す,ということです。

 仏教の教えには「成丈の分相応のご奉公」という言葉がありますが,「万民を救いたいけれども,万民は救えない」ということを腹に据えておかなければ,かえってトラブルを起こしかねません。

松月 それは大事なことですね。

長松 大きな志があると,ついたくさんのものを抱えてしまいますが,それによって,もともと持っていた信念を結果的に捨てることになってはいけないですよね。私たちには「木を見て森を見ず」も「森を見て木を見ず」も許されませんから。

安井 私たち看護職は,「もっと勉強しなきゃ」「ほかの人がやっているから,自分も頑張らなきゃ」という意識が非常に強いです。一方で,新しいものにただ飛びついて疲れて終わり,というような傾向があるようにも思います。何のために勉強しているのか,「公に対する志」を腹に据えながら,自分たちの役割を考えていくことが大事ですよね。

松月 私は看護部長を務めていたころ,看護師長に対し,よく「あなたは何がやりたいの?」と問いかけていました。自分の病棟,病院をどうしたいのか,そのビジョンが日々のリーダーシップの礎となるからです。

 本日の座談会を通して,今度は看護職皆に「『これからあなたの好きなことを何でもやっていいですよ』と言われたら,あなたは何をやり続けますか」と尋ねてみたいと思いました。その人がどのようなものの考え方をしているかは,必ず日々の業務に反映されます。皆さんそれぞれ看護観を持っているわけですから,自主性がもっと強化されればもうひと皮むけて,社会資源としての自分の意味を自覚できるのではないでしょうか。

 今後,今までよりも看護職の業務は拡大するかもしれません。私たちの役割や世界がさらに広がっていくことを積極的にとらえ,自分のこだわりを持って社会に一歩踏み出してくれることを願っています。

安井 本日は,抽象的なテーマについて,看護職と宗教家という異なる専門家同士でお話しいただきました。生活者と共に社会に存在している看護職が,専門職集団の枠を超えて社会に目を向け,生活者の視点から,あらためて社会資源としての看護職がめざす「社会貢献」とは何かを考える機会を得ました。

 超少子高齢多死社会の到来を感じるなか,看護職だけで看護の役割や価値を語るのではなく,社会の一員として看護職という特性をいかに生かして,社会との共通価値を創造していけるか,今後も追求していく必要性を示唆していただきました。

(了)


松月みどり氏
三重大附属高等看護学校卒。日大板橋病院を経て,2006年田附興風会医学研究所北野病院看護部長。10年より日本看護協会常任理事。現在,日本看護管理学会理事,日本救急看護学会理事,日本意識障害学会理事を務める。大阪市立大経営学科大学院に在学中。

安井はるみ氏
国立療養所霧島病院附属高等看護学校卒。青山学院大・同大大学院卒。東大病院,日本看護協会,神奈川県看護協会等を経て,2010年よりセコム提携医療機関グループ・医療法人あんしん会四谷メディカルキューブ看護部長。聖路加看護大大学院博士後期課程(看護管理学)に在学中。

長松清潤氏
帝京大卒業後,本山宥清寺に止宿,佛立教育専門学校卒。財団法人佛立生活文化 研究所理事長,本門佛立宗・海外弘通特別委員,佛立研究所研究員を経て,2000年より横浜妙深寺・ 由緒寺院 京都長松寺住職。「三日坊主の会」(2泊3日の寺院での修行体験)による情操教育活動や「お葬式0円」を掲げた有縁社会プロジェクトなどを展開するほか,国際貢献にも尽力している。

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