医学界新聞

インタビュー

2011.07.11

【シリーズ】

この先生に会いたい!!

医師免許は未来へのパスポート
やりたいと思ったことに飛び込めば,道は拓かれる

進藤奈邦子氏
(WHOグローバルインフルエンザプログラム・
メディカルオフィサー)
に聞く

<聞き手>川村優希さん
(横浜市立大学医学部6年生)


 2009年,新型インフルエンザの世界的流行は,今なお記憶に新しいところ。当時,WHOで感染制御の最前線に立っていたのが進藤奈邦子氏です。世界を飛び回る活躍を続ける一方,2児の母でもある進藤氏に,医師として,女性として将来をどう描いていくべきか聞いてみたい――医学部6年生の川村優希さんが,インタビューしました。


川村 まず始めに,先生はなぜ,医師を目指されたのですか。

進藤 直接のきっかけは,弟の言葉です。私が高校3年生のとき,弟が脳腫瘍で亡くなったのですが,彼の最後の言葉が「医者になって」でした。

 もともとは建築家になりたくて,高校で1年間留学し,大学も海外に進もうと思っていたんです。でも弟の容態が深刻になり,帰国せざるを得なくて。なんだか夢もぼやけてしまって,「将来何になったらいいと思う?」 となんとなく弟に聞いたら,「僕の代わりに医者になってほしい」と。

 彼は当時,治療の副作用や侵襲の大きな検査でいつも苦しい思いをしていたので,医療を憎んでいるのではないかと考えていましたが,そうではなかった。「お医者さんが『今日は検査をがんばったから,明日はきっとよくなってるよ』と言ってくれるから,僕は明日があることを信じて眠れるんだ」と話してくれました。

 翌日,私は修学旅行に出掛けたのですが,その最中に弟は危篤状態になり,その後は意識がないまま,7か月後に敗血症で亡くなってしまいました。

「挫折」がターニングポイントになる

川村 弟さんのことがあって,専攻も脳神経外科を選ばれたのですか。

進藤 そうです。私にとっては,「医者になる=弟のかたき討ち」でしたから。

川村 脳外科に進むことで,過去と直面してしまう怖さやつらさはなかったですか。

進藤 患者さんや家族と自分との間にはっきり線引きができず,どうしても感情移入してしまうことはありました。

川村 医師は特に,客観的であることを求められますよね。

進藤 ですからなおのことつらかった。先輩にも「もうちょっと冷静でいないと判断を誤るぞ」とよく言われました。

 いつも患者さんにとって何が最善か考えているのですが,手術が終わると内科に引き継いでしまい,社会復帰までの長い道のりをともに闘えない,あるいは最期まで看取れない。中途半端な気持ちばかり残っていました。また,必死に患者さんの命を救っても,社会に戻れなければ,患者さんのご家族にとっては重荷になってしまう場合もあります。そんな経験もして,医師は人の運命を変える力を持っているけれど,その責任をどこまで取れるのかという疑問も湧いてきてしまったんです。

 そんな疑問がどんどん心にたまっていったことと,「女には無理だよ」という周りの雰囲気とが,体力的にはもちろん,精神的にも非常にこたえました。

川村 それで,感染症に方向転換されたのですか。

進藤 そうです。脳外科を断念したときには,これまでにない挫折感を味わいましたが,細々とでも医師を続けたいという気持ちは消えなかった。どん底から這い上がるには,楽しいことをしようと思い,学生のころから好きだった細菌学ができる,感染症科にお世話になることにしました。

川村 今,感染症を学びたい人も増えていますが,その頃は,また少し雰囲気が違ったのでしょうか。

進藤 当時,日本は抗菌薬大国なんて言われていて,感染症も"前世紀の学問""途上国の話"というムードになりかけていました。でもそこにちょうど,多剤耐性菌や院内感染の問題が出てきたんです。外科では,患者さんが二次感染で亡くなることも少なくなかったので,院内感染対策委員として,抗菌薬を勧めるととても喜ばれました。慈恵医大はもともと感染症に強い大学でしたから,論文も書けましたし,研究もどんどん手伝わせてもらえて,とにかく楽しかったです。

川村 「挫折」が,振り返ると大きなターニングポイントになったのですね。

ハプニングも恐れずに

川村 ご結婚・ご出産もこの頃に?

進藤 ええ。脳外科を選んだときには,半ば出家するような覚悟でいたのですが(笑),転科と前後して妊娠がわかり,尊敬する先輩に「神の啓示だと思いなさい」と言われ踏み切りました。

 結婚も妊娠も,はじめからプランニングされていたわけではありませんが,結果的には本当によかったと思っています。子どもがいることが,患者さんに接する上で多くの示唆を与えてくれたと思いますし,人から頼られる職業だけに,支えてくれる存在がいることで,精神的な安定にもつながるのかな,と感じます。

川村 キャリアのことを考えると,"想定外"の出来事を恐れる気持ちは,どうしても出てくるかもしれません。

進藤 確かに,女性で医師を目指す人はキャリア志向が強く向上心もありますから,自分の人生も完璧にコントロールして,ステップアップし続けられると考える人も多いと思います。でも私ぐらいの年齢になると,キャリア面でも"ガラスの天井"にぶつかり,あと一段がどうしても上れないときがある。そこで初めて人生を省みて「ちょっと間違ったかもしれない」と思うより,若い時期のハプニングや挫折も恐れず,私生活にも目を向けて「終わりよければ……」の精神で人生を進んだほうが楽しいかもしれませんよ。

川村 先生に言われると,なんだか心強く感じます。

悩んだだけ乗り越える力が付く

川村 妊娠中や出産前後は,お仕事はどうされていたのですか。

進藤 長男を妊娠したときは,他の先生の負担を増やしたくなくて,職場では7か月ごろまで隠していました。でもあるとき,担当していた肝癌末期の患者さんが心停止して,心臓マッサージをしないといけなくて。腹水でお腹が膨らんでいたため,ベッドに上って上からマッサージしていたら,看護師長に目ざとくお腹を見つけられました(笑)。結局「産休の分の給料は払えないから,退職願を書いて」と院長に言われ,いきなり失業したわけです。

 そこでハローワークに行って,失業手当をもらおうとしましたが「お医者さんは失業しません」と断られ,押し問答したものの,話は通らずでした。急に暇になったので,夢だった"平日昼間のデパート歩き"もしてみましたがすぐ退屈し,健診のアルバイトなどをして過ごしていました。

 3年後,長女の妊娠時は,夫は国内留学して勉強漬けの毎日で「自分も勉強したいのに,子どもの世話をしている場合なのか?」と大いに焦りました。出産後も,少しでも医学の世界とつながっていたいと,リサーチレジデントとして働いていました。お給料も勤務医に比べると非常に安かったのですが,「毎日研究ができて少しでも収入がある,こんなにありがたいことはない」と思っていました。

 それに,長い目で見ると,私たち女性が休んでいる間, 男性は職場のしがらみや医局の権力争いに巻き込まれたりして,思ったほど進歩していない(笑)。休んだとしても,戻って来ていい仕事をすれば……。

川村 カバーできる。

進藤 そう。休んでリフレッシュしてくることで,要領がよくなるんです。子どもがいることで時間が限られる分,物事の優先順位の付け方や切り捨てもうまくなると,同僚たちを見ていても感じます。悩んだだけ,男性だったらつまずいたり挫折してしまうようなことでも,ヒョイと飛び越えられる力が付くと思います。

川村 一見遠回りに見えても,必ずしもそうではないということですね。

子育ての時期は,母親も育つ時期

川村 仕事と子育ての両立は,大変ではなかったですか。

進藤 当時はロールモデルも少なく,手探り状態でしたね。他の世界で同じようにがんばっている方々とネットワークを作り,何とか乗り越えてきました。

 その経験から言うと,独りで両立しようとするより,借りられる手は借りて,仕事は仕事,家は家と,切り替えて考えたほうがいいです。精神科医のおばや,故・飯倉洋治先生には「子育ての時期は,自分も育てる時期。ケチケチしてはだめ」「共働きなんだから,雇用機会を創出すると思って,お手伝いさんくらい雇いなさい」と助言されました。実際に雇ってみると,もう本当に手際がよくて,イライラがずいぶん減りました(笑)。

 お給料をほぼすべて家事・育児費用に費やしていたので,夫には「働いている意味があるの? 家にいるのと同じじゃない」と言われました。でも,同じではないんです。母親が,仕事なり勉強なりやりたいことができて,幸せになって初めて,子どもたちも幸せにできる。独りですべて抱え込んでつらい思いをするのではなく,ハッピーでいられる環境を作ることが大切で,そうすることが後々,自分と子どもの成長になって返ってくると考えています。

好きなことだから

川村 現在のポジションには, どのような経緯で就かれたのですか。

進藤 最初は,国立感染症研究所(以下,感染研)からの派遣のかたちでした。派遣が終わるころちょうどポストが新設され,応募したら受かったので,今度は正規職員として入ったんです。

川村 競争率も高かったと思いますが,どんな点が採用に結びついたとお考えですか。

進藤 実績にプラスして,人のネットワークを持っていたことが決め手でしょうか。感染研は太平洋地域ではNo.1の研究機関で,もともと人材の層が厚い上,海外への扉も開かれており,ネットワークをどんどん広げることができるんです。WHOが探していたのは,雇うことで感染症関連のネットワークを一気に取り込める人。その条件に合致したのだと思います。

川村 インフルエンザをご専門にされたのは,いつからですか。

進藤 2006年から,インフルエンザ専従の部署に移りました。同じころ,鳥インフルエンザ(H5型)のアウトブレイクが圧倒的に増えてきて,現地調査チームには必ず入り,その経験を基にガイドラインを作成したり,パンデミックへの準備計画を練っていました。WHOでは臨床経験のあるメディカルオフィサーは少ないため,患者管理や病院システムについて一任されると同時に,抗菌薬の知識を生かし,薬のガイドラインや治療指針などもすべて担当していました。

川村 09年のパンデミック時にはどのような状況だったのでしょうか。

進藤 当時はWHO内でワクチン,疫学,サーベイランスなど機能別のチームが6つ作られ,私は患者ケアと感染制御にかかわる20人程度のチームを率いていました。SARSや鳥インフルエンザの経験を経て,呼吸器感染症の専門家の世界的なネットワークが整備されていたので,そこから情報を集めて整理し,週報やガイドラインとして,感染の最前線で働く医療従事者に提供する役割を担いました。

川村 ハードワークだと思います。

進藤 脳外科並みでした(笑)。

川村 精神的な重圧も,大きかったのではないでしょうか。

進藤 でも,好きなことですから。パンデミックへの準備がほぼライフワークになっていたところに,本当にパンデミックが来た。ある意味では千載一遇の機会だったかもしれません。チームのメンバーの支えも,大いに励みになりましたしね。

川村 日本のトップ機関と国際機関の両方で働かれる経験を通して,両者の間に違いや差などは感じられましたか。

進藤 WHOにいても,技術的な面で悔しい思いはしたことはありませんから,日本の感染症学のレベルには自信を持っていいと思います。

 世界のトップレベルの専門家と交流する機会は,感染研でもある程度ありましたが,WHOではさらに増えました。また,本来の意味でのダイバーシティが根付いていて,女性が不利になることはありません。さまざまな国の人がいて,ものの見方の多様性に気付かされる反面,直裁的に主張するだけではうまくいかないことも多く,多方面に配慮し調整する力も求められていると感じます。

川村 今後は,どんなことに取り組んでみたいですか。

進藤 パンデミックのときにマネジメントのトレーニングを受けたのですが,日本のいわゆる"管理職"の感覚とはまったく異なるのがとても新鮮でした。技術職としては一番上のポジションまできたので,もしチャンスがあれば,マネジメントにも挑戦してみたいとは思います。

 パンデミックという大きな仕事にかかわってきて,この次はどんな仕事が待っているかわかりませんが,気持ちに余裕を持っておかないと,変化がきたときに受け止められません。今はとにかく上司がかけてくれる"take care of yourself"の言葉どおり,自分自身を大事に,気持ちも豊かにして,変化に備えていたいなと考えています。

まずは目の前のできそうなことから始めて

川村 私は6年生なので,もうすぐ研修病院を選ぶ時期になります。「10年後,20年後に何をしていたいか考えて,病院を選びなさい」とアドバイスをいただくこともあるのですが,先生は学生時代,将来についてどんなふうに思い描いていましたか。

進藤 最初は私も先のことばかり考えていたのですが,慈恵医大の学長だった阿部正和先生に「ぼんやり遠くばかりを見ていないで,もっと目の前のことを考えたらどうか」と諭され,はっとしました。

 ですからまずは目の前にある,現実的にできそうなことから手をつけてみてはどうでしょう。最初からあまり目標を狭めすぎず,いろいろな可能性を探ってみたほうがいいと思います。

川村 先生にとって"できそうなこと"とはどんなことだったのですか。

進藤 もともと資格マニアだったこともあって,認定医や専門医など,取れる資格はすべて取るようにしました。あとは,研究をきちんと論文にすること。自分の成したことをまとめることで,逆に自分に何が足りないかも見えやすくなります。

 日本の公的機関では,資格や論文数などがある程度重視されますから,感染研に主任研究官で採用されたのも,そうした積み重ねの成果だと思っています。形になるものを持っていると,世の中を渡り歩くには便利です。

 もう一つは,ネットワークを作ること。自分の研究に厚みをもたせるにも,働き口を見つけるにも,相談したり,お願いできる人を見つけておくのは大切なことです。私自身,人生の転機ごとによき先輩や仲間に巡り会い,その人たちのアドバイスで道が拓かれてきました。人との出会いこそが人生の宝だということは,強く感じます。

川村 最後に医学生や,若手医師に向けて,メッセージをお願いします。

進藤 私は,医師免許はいろいろな未来へのパスポートだと思っているんです。展開の可能性がたくさんできますから,後先を考えすぎず,やりたいと思ったことに飛び込んでみれば,そこからきっと,道が拓けるはずです。

川村 ありがとうございました。

インタビューを終えて

女性医師として結婚,出産,子育てを経験した上でキャリアを積まれてきた進藤先生のお言葉は想像以上に心に響きました。重圧のある世界でお仕事をされているにもかかわらず,大変な出来事も自然体で気さくに話されたのが印象的で,職責を果たすという次元を超えて,一歩上の視点から自分の人生を楽しもうとする姿勢を感じました。私もこれから人生の分岐点を何度か迎えると思いますが,今日のことを思い出し,自分の人生を選択していくことができればと思います。マイナスさえもプラスに変えていく力が現在の進藤先生の道を切り拓いてきたのだと思い,強い芯があれば自分らしい人生を追求できるのだと感じたインタビューとなりました。

(川村優希)

(了)


進藤奈邦子
1990年慈恵医大卒。英セント・トーマス病院,オックスフォード大などで臨床研修。92年より慈恵医大第2内科で感染症,臨床細菌学専攻。98年感染研感染症情報センター,2000年同センター主任研究官を経て,02年よりWHOに派遣。感染症アウトブレイク警戒対策に携わる。05年WHO正規職員となり,06年より現職。医学博士。その仕事や生き方は「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK),映画「感染列島」(09年東宝),林真理子氏の小説「アスクレピオスの愛人」(『週刊新潮』連載中)の題材に。思春期を迎えた2児の母でもある。

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