この先生に会いたい公開収録版(日野原重明)
インタビュー
2011.05.16
【シリーズ】
日野原重明先生(聖路加国際病院理事長)に聞く
シリーズ「この先生に会いたい!!」の公開収録版を医学書院で開催し,全国から74人の医学生が参加しました。演者は,今年100歳を迎える日野原重明先生です。今回のテーマは,「医師になるための基本的な学生時代の生き方」。日野原先生ご自身の生い立ちや敬愛するウィリアム・オスラーの座右銘を基に,リベラルアーツ(人間教育)の重要性や学習の指針が語られました。「いつか誰かのために生きる」ために,医学生に向けた力強いメッセージです。
皆さん,「よい医師になる」とはどういうことでしょうか。医師は単なる職業(job)ではありません。高度な教育・訓練を必要とするプロフェッション(profession)です。プロフェス(profess)には「神様への誓約」という意味もありますね。
医師は,「医のプロフェッション」としてどうあるべきでしょうか。そのために,医学生時代をどう過ごすべきでしょうか。これが今日のテーマです。私の経験や努力,そして私が大きな影響を受けたウィリアム・オスラー博士らの話を通して,今日に至る私の証しをお示ししたいと思います。
「感化力ある教育者」との出会い,リベラルアーツという「人間教育」
私はこれまで,たくさんの師に出会ってきました。諏訪山尋常小学校(現・神戸市立こうべ小学校)で担任だった谷口真一先生は,米国マサチューセッツ州で始まった自由教育指導(ドルトン・プラン)の影響を受けた方です。当時としては珍しい授業で,生徒が8人ずつのグループに分かれ,グループごとに好きなテーマを決めて自己学習を行い,1週間後にみんなの前で発表していました。私はそこで,自ら考えて学ぶ楽しさを知ったわけです。
ただ,「そのような授業をしていては受験に影響が出るのではないか」と,谷口先生の指導法が次第に問題視されるようになりました。それを知った私たち生徒は「谷口先生を苦境に立たせてはいけない」と,帰宅後も一生懸命勉強しました。その結果,私も含め,例年以上に多くの生徒が名門・県立神戸第一中学校に合格できました。
そうやって迎えた中学校の入学式当日です。友達とおしゃべりをしていたら,校長先生に「日野原,立ちあがれ!」と突然どなられた。その学校は教育方針が厳しいことでも知られていたため,「なじめないのではないか」と不安になった私は両親に相談しました。両親も理解を示してくれて,もうひとつ入学許可をもらっていた関西学院中学部への進学を決めたのです。そこでも,尊敬する先生方との出会いがたくさんありました。私はこうして,教育者の在るべき姿を肌で感じることができたのです。
教育制度がいくら整備されていても,影響力を与える教師がいなければ教育の効果は上がりません。オスラーは,神学者ニューマンの残した次の言葉を好んで引用しています。「教師の人間としての感化力は,教育制度なくしてもその力を示すことができるが,教育制度は,教師の感化力なくしてはその機能を果たしえない。感化力あるところに生命(life)あり,感化力なきところに生命(life)なし」。皆さんも,「感化力ある教育者」と出会えることを望んでいます。
関西学院を卒業後は,京都にある第三高等学校に進学しました。ここでは,ドイツ語の先生が授業中にリルケの詩を朗読したり,ハイネの詩になる「ローレライ」を歌ってくれました。数学の授業は英語で書かれた教科書が用いられ,理科の授業ではドイツ語で書かれた動物学の書籍を読む。倫理の授業では英訳されたプラトンの著書が用いられました。進学したのは理科でしたが,哲学や宗教学,経済学にも興味を持っていたので,京大にもぐりこんで西田幾多郎先生や河上肇先生の講義を聴講したこともありました。
第三高等学校での経験を通じて,「リベラルアーツとは何か」を私は学びました。リベラルアーツはよく「一般教養」と訳されますが,そうではない。「人間教育」です。そして,リベラルアーツを理解しなければ良医にはなれない。このことを後の私に強く,強く教えてくれたのも,オスラー博士でした。このことについては,後でもう少しお話しします。
闘病,敗戦,そしてオスラーとの出会い
大学は,猛勉強の末に念願の医学部(京都帝国大学)に進学することができました。
もともと,初めて「医師になりたい」と思ったのは,10歳のときです。ある晩,病身だった母が尿毒症で痙攣を起こしました。私は不安で仕方なかったのですが,そこに主治医が往診に来てくれて,適切な処置で一命を取りとめた。大好きだった母を助けてくれた医師の姿を見て,私も「病気で苦しんでいる人を助けたい」と思いました。
私自身も大きな病を二度経験しています。小学校5年生のときは急性腎炎に罹り,学校を1か月間休みました。医師から運動を1年間止められたので,代わりにピアノを習って,ショパンやベートーベンの曲を弾けるようになりました。大学に入ってから,ストレプトマイシンのような結核の特効薬のない時代に私は肺結核に罹り,闘病生活は1年にも及びました。でも,病むことは決してマイナスの経験ばかりではありません。私の場合は音楽をレコードで聴き,作曲の自己学習をし,その後音楽が生涯の趣味となり,また一方で何よりも,患者さんの気持ちに共感する感性が育まれました。
大学卒業後は2年間の内科研修を経て大学院に進み,真下俊一教授のもとで循環器学を専攻しました。私は心音の研究に取り組んだのですが,これも闘病生活中に作曲を独学するほど,音楽が好きだったからです。ただ,海外の文献を調べると,すでに先行研究がたくさんあったのですね。教授に助言を求めても「それは君が決めることだ」と返されて当惑しました。でもそこで,誰もやったことがないアイディアを思いつきました。のどから飲み込める小さなマイクロフォンを作って,食道内から心房の音を記録してみようと考えたのです。1年間工学部に通って作った手製のマイクロフォンを用いて,実験は見事に成功しました。これをもとに「心音(心房音)の研究」(1-8報,『日本循環器病學』,1940)と題する博士論文を執筆し,後に『American Heart Journal』誌(22巻6号,pp.726-36)にも"Systolic gallop rhythm"と題した英文論文が掲載されました。
1941年7月,聖路加国際病院に内科医員として就職しました。その年の12月に太平洋戦争が始まり,多くの医師が徴兵されましたが,私は結核の後遺症があったため兵役を免除され,大空襲に遭いながら病院を守りました。ところが,何とか戦火をくぐりぬけ終戦を迎えたのもつかの間,病院は看護専門学校の校舎とともに連合国軍の陸軍病院として接収され,医療者も患者も病院から追い出されることになったのです。仕方なく,近くの有床(15床)の診療所を借り受けて診療を続けました。
陸軍病院となった聖路加の図書館には,米国の書籍や雑誌がたくさん所蔵されていました。聖路加の職員だった私は病院長にかけあって入館許可証をもらい,診療後は図書館で,それら書物を読みふけるようになりました。そこで知ったのが,「ウィリアム・オスラ...
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