医学界新聞

対談・座談会

2011.02.14

対談

「病院の世紀」を超えて

松田晋哉氏(産業医科大学医学部公衆衛生学教室教授)
猪飼周平氏(一橋大学大学院社会学研究科准教授)


 「大きな転換期を迎えている」。これは日本の医療供給システムを議論する際にしばしば用いられるフレーズだ。では,私たちがいま直面しているのは一体いつ以来の転換期なのだろうか。もしこれが100年に一度の事態だとするならば――。

 20世紀の医療供給システムが終焉を迎えつつあることを著書『病院の世紀の理論』において示した猪飼周平氏は,いまこそ長期的観点から基本デザインを構想する必要があると説く。これに対し松田晋哉氏は,コミュニティケアやまちづくりが重要であるとして,医療関係者の発想転換と参画を提唱する。「病院の世紀」を超えて,高齢社会に望ましいヘルスケアの構築へ。本紙対談において両氏が,その架橋を試みた。


松田 『病院の世紀の理論』の中で猪飼先生は,現代人が常識としている「病院を中核とする医療」が,実は20世紀という時代の産物であることを歴史的に検証されています。

猪飼 19世紀までの病院は,治療よりも福祉的な機能にその存在理由がありました。欧米諸国の富裕層が病院への寄付を通して財政を支える一方で自らは入院しようとしなったことは,当時の病院が治療上有利な施設ではなかった事実を象徴的に示しています。

 20世紀に入ると治療医学が進歩し,その社会的期待に応える形で,病院が高度な治療機能の担い手となった。この治療医学に対する社会的期待が医療供給システムを規定したという意味において,20世紀を「病院の世紀」と定義しました。また,これにはもうひとつの含みがあります。それは,「病院の世紀」が終焉を迎えつつある21世紀において,日本の医療供給システムが1世紀ぶりの大規模な変動のさなかにあるという歴史認識です。

Trustの再構築

松田 「病院の世紀」の終焉を示唆するものとして,治療医学に対する社会的期待の相対的な減退,QOL(Quality of Life;生活の質)概念の浸透を挙げていますね。高齢社会を迎えるなかで,治療医学を主体とした医療供給システムがうまく機能しなくなりつつあることを私も実感しています。ただ他方では,消費者主権的な意識が高まるなか,急性期・高度医療への志向がむしろ強まっていて,その両極で揺れているようにも思えます。

猪飼 消費者主権的意識に基づく急性期・高度医療への志向の問題は,つまるところtrust(信頼)の問題だと考えています。

 かつての医師-患者間には権威主義的なタテの関係がありました。ですから,例えば1970年代の医療社会学においての関心事は,「医師による患者からの収奪をいかに防ぐか」でした。ただ,そういう弊害もあったにせよ,医師-患者関係には一定のtrustが成立していました。

 現在は,医師-患者関係がタテからヨコへと変容しつつある。この流れが治療医学に対する社会的期待の減退へと進む一方で,消費者主権的意識と相まって「より間違いの少ない医療,より高度な医療」を求める方向に進む可能性もあります。もちろん,その論理自体に正義はあるかもしれません。ただ,そこから出来上がったものがシステムとして回っていくかというと,かなり難しいでしょう。なぜなら,消費者主権的な流れは相互不信がベースになっており,今度は医師-患者間でお互いを収奪するリスクが出てくる。社会的・経済的なコストが非常に高くなる恐れがあるのです。これは医師-患者間のtrustがより低くなっている状態とみることができます。

松田 それが端的に表れているのが,患者・家族への説明です。説明責任が重視されるあまり,目に見えないコストが大きくなっている。これは,名医や画期的治療などセンセーショナルな話題ばかり取り上げるメディアにも問題があって,患者さんの期待値と現場の医療にギャップができてしまい,コミュニケーションがさらに難しくなるのです。医療者側も,訴訟対策などで防衛的になっている。そうした相互不信状態が確かにありますね。

猪飼 かつての治療医学の権威に依拠したタテの関係性の復権は難しいでしょう。そう考えると,消費者主権的・相互不信的な方向に向かうのを避けながら,ヨコの関係でのtrustをいかに再構築するか。そこにポイントがあるのではないでしょうか。

 これはとても難しい問題ですが,少なくともひとつの有効な手段だと私が考えているのは,医療者と患者の間の長期的な関係の構築です。そういう意味では,かかりつけ医の存在が 大きい。かかりつけ医がもっと普及すれば,ある程度は解決の方向に向かうのではないでしょうか。

松田 かかりつけ医モデルをどう再構築していくかは,日本がまさにいま突きつけられている課題ですね。

猪飼 さらには,医師と患者の関係だけではなくて,あらゆる医療職と患者・利用者との関係のなかで,長期的な関係の構築が重要になってくるでしょう。一例を挙げれば,妊産婦と開業助産師の間には,妊娠から出産に至る過程で非常に強固な紐帯が発生します。ヘルスケアが産み出し得る紐帯・連帯の可能性というのはたくさんあると思います。そういった「点」をみつけては「線」につなげていくことが,ひとつの手なのではないか。差し当たってはそう考えています。

「病院か,在宅か」の二項対立ではない

松田 『病院の世紀の理論』には次のような記述があります。「医療システムは,自らの失敗=内生的要因によって瓦解しようとしているのではない。むしろ,ここで生じていることは,医療システムが,生活の論理という外生的要因によって変容させられ,20世紀を通じて謳歌した特権的な地位から降りようとしている」(同書390頁)。この認識は非常に重要だと感じました。

 癌や心不全,呼吸不全など,医療依存度の非常に高い要介護者が在宅で暮らす時代になっています。しかもあと10年もすれば,年間150万人が死亡する時代がやってくる。日本では現在,8割以上の方が病院で亡くなっていますが,それだけの数を看取るキャパシティが病院にはありません。ターミナルのある一定時期は在宅で過ごさざるを得なくなります。ですからこれからは,「診療所の延長線上としての在宅ケア」ではなく,「入院医療の延長線上としての在宅ケア」を考えていかなければいけません。

猪飼 在宅ケアを推進する上でのポイントは何だとお考えですか。

松田 以前,全国の済生会組織の事例を基に,重度要介護高齢者の在宅ケアが可能になる条件について整理したことがあります1)。その要点は3つです。1つ目は,かかりつけ医の存在。2つ目は,家族の介護力。そして3つ目が,後方病院を持ち, 24 時間体制で緊急およびターミナル期に対応できる訪問看護サービスがあることです。

 在宅医療を提供する主体はかかりつけ医ですが,ソロプラクティスが多い日本の現状を鑑みると,かかりつけ医だけで24時間365日,患者と家族を支えるのは無理があります。在宅医療を支える訪問看護体制をいかにつくっていくかがポイントだと考えています。

猪飼 病院にはナースステーションがあって,ナースコールや巡回で患者の状態を確認し,必要があれば医師を呼びますよね。これを地域・在宅に展開することになるのでしょうか。

松田 その通りです。何かあったときは24時間入院に結びつけることができる「地域のナースステーション」が必要になってきます。在宅療養しつつ"もしも"のときは入院できるという安心感が,患者・家族にとっても医療者にとっても大事なのですね。その柔軟な仕組みを地域でどうやってつくるか。「病院か,在宅か」という二項対立ではなく,「コミュニティケア」という発想が求められます。

■「海図なき医療政策の終焉」に向けて

猪飼 病床数は削減され,急性期を中心に再編される方向にありますから,患者が病院から在宅方面に押し出される潮流は動かしがたいものとしてあるでしょう。そして結果として,病院の負担が軽減される効果もあるでしょう。ただ,それによって医療・福祉のコストが下がるかというと,むしろ逆ではないかと思います。

松田 患者と家族へのコストシフトをもたらすわけですからね。

猪飼 そうなってくると,システムを維持する上でサービスの効率性が問われなければならないし,何よりも,そうした代償に値するもの,在宅ケアを推進する上での本質的な理念が問われるのではないでしょうか。

松田 それは,QOLでしょうね。ですから,コストシフトに見合うだけの「療養の質」が保証される仕組みづくりも重要です。

猪飼 私も同感です。これに関連して,以前から伺いたかったことなのですが,松田先生は医療経済や保健医療システム,介護予防など,研究領域が多岐にわたりますよね。医療システムの効率的運用というような単純な発想で仕事をされているようには思えません。その根底には,どのような問題意識があるのでしょうか。

松田 私は学生時代から社会医学系のサークルに入っていて,やや"左系"の人間でした(笑)。そのころからずっと,利他的で社会民主主義的な社会が望ましいと考えています。幅広く研究しているのは,節操がないだけです(笑)。ただ,「自分にとって暮らしやすいのはどんな社会か」と常に考えていて,それが根底にあるのかもしれません。

猪飼 どういう社会を思い描いておられますか。

松田 それはやはり,猪飼先生が冒頭で示した「trustのある社会」です。そのtrustを再構築するためには,「責任化原則」が重要だと考えています。自己責任論ではなく社会連帯論に基づいた社会であり,構成員はおのおのが社会システムの維持に対して責任を負うべきである,という発想ですね。つまり,医療者は患者に対して適切な医療を提供する義務があるし,患者は医療を適正に利用し,費用を負担する義務がある。そして,行政と保険者は必要に応じてシステムを修正・調整し,これを維持していく義務があります。

猪飼 その理念には,障害者政策も包含されていると考えてよいでしょうか。

松田 猪飼先生が著作の中で示されているとおり,日本の障害者に対する医療・福祉は,一般の医療とは別の扱いになってきました。そのことが,多くの人が加齢に伴う障害を持ち得る時代の医療提供体制を考える上で,困難をもたらしているように感じます。障害は確率的に出てくるものですから,個人の責任に帰するのではなく,社会全体で支えていくのを本来の原則とすべきです。

 そうした社会連帯論に基づくtrustのある社会が,私の理想としてはあります。学生時代の想いを持ち続けるのは青臭いかもしれませんが,理念は大事だと思うのですね。

猪飼 いや,本当に大事です。特に,地域のヘルスケアはアンペイド・ワークで支えられる部分があって,それをコストとして換算するとすごく大きなエネルギーを必要とします。人々から自発的なエネルギーを調達するためには,理念が示されることは決定的に重要であると思います。

松田 ドラッカー(Peter F. Drucker)の著書に『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社)がありますよね。非営利というのは,金銭的な推進力が効かないので,理念の共有なしに組織は回りません。そう考えたときに,昨今の高齢者医療制度改革をめぐる議論などは,理念がほとんど語られていない点に不満を感じます。

猪飼 そうなのです。システムを維持するための議論はもちろん重要ですが,「なぜそのシステムを維持するのか」ということも語られる必要がある。

松田 理念の共有ができていないから,それぞれがそれぞれの自己主張をするだけであって,結局は声の大きいところに政治家が寄っていく。そこに不安を感じています。

 現在,医療界からは労働環境,医師不足などに関する問題提起が強くなっています。医療者の労働環境が大変に厳しいことは心底理解できるのですが,ただ,もう一歩先の話,つまり「どういう社会をつくりたいのか」を医療界から発信していくべきなのだと思います。それは結局,まちづくりなのですね。高齢者のニーズは医療だけではありません。まちづくり,コミュニティの基本デザインがあって,そのなかに医療も介護も位置付けられるべきです。そこまで考えなければならないというのが,いま私の問題意識の根っこにあるのです。

猪飼 以前,「海図なき医療政策の終焉」と題する論文2)を執筆したことがあります。治療医学への社会的期待に沿う形で基本デザインが自動生成されていた20世紀においては,医療政策が近視眼的性格を帯びていたのはそれなりに必然性があったと思うのです。しかし,病院の世紀の幕が引かれようとしている現在においては,基本デザインを長期的観点から構想する重要性が認識されるべきなのでしょう。

 どんなにエネルギーを使っても前に進めない時期はありますが,施策の方向性さえ首尾一貫していれば,すっと進む時期がやがてやってきます。方向性を定める上では,起こり得る未来をどこまでイメージできるかが鍵になってくるのではないでしょうか。

松田 それに関して私たち研究者がやるべき仕事は,ドラッカーの言う「既に起こっている未来」を見つけることですね。将来必要になるであろう枠組みを,小規模だけれども既に形成しているところがたくさんあります。そうした場所に足を運んで情報を集めて,システムとしての意味付けをしていくことがわれわれ研究者の役割だと思います。

 これほど豊かな社会が人口減少と超高齢社会を迎えるというのは,他の国にモデルがないですから,日本が自力で考えていくしかありません。研究者にも覚悟が必要で,これまでとは違ったアプローチが求められるのでしょう。

猪飼 おそらく,長期的な時間尺に基づく思考が重要になります。「歴史は未来を説明する道具だ」という意識が,これまでの厚生行政の世界ではついぞ忘れられてきたのではないでしょうか。

松田 ドラッカー自身は,自分のことを歴史学者だと言っていますね。

猪飼 未来はそれ自体として研究できません。未来学というのは,歴史の研究なのですね。

生活と医療は常に混在している

松田 歴史的な観点でひとつ参考になるのは,1980年代に欧州の福祉国家が終焉し,地方分権化の流れができたことです。日本も今後は,地方分権の推進が求められるでしょう。

猪飼 地方分権は,中央政府・行政が柔軟性を持った枠組みを提示することが前提になりますよね。その際に,「生活と医療は常に混在している」という認識を持つことが大事ではないでしょうか。これまで行政は,施設ごとに医療と介護の機能を定義して切り分けてきましたが,これは規模の経済があってこそ効率性を発揮できる都会的発想です。地域のニーズに合わせて,施設や地域で生活と医療をミックスできるのがおそらく理想で,そのためにも診療報酬・介護報酬の支払いに柔軟性が必要だと思います。極端な話,余計なサービスが供給されないようにできるのであれば,病院の空いた病床で生活している人がいたって別にいいわけです。

松田 福岡県で長期入院・入所高齢者を調査3)したことがあるのですが,「病院にずっといたい」と希望する高齢者の医療・介護ニーズは,必ずしも高いとは限りませんでした。なぜ彼らが医療機関・施設にとどまっているかというと,「安心だから」「生きがいがあるから」「帰る場所がないから」という答えが返ってくるのです。

 確かに療養病床や老人保健施設は,そういう方々にとっていちばん安心できる場所なのです。1日3食出て週に何回か入浴できるし,リハビリテーションやレクリエーションがある。皆で食堂に集まってテレビの時代劇番組を観るのも楽しい。そして,何よりも大事なのは,「○○さん」と固有名詞で毎日話しかけてくれるスタッフがいることです。地域に帰ると,話しかけてくれる人もいないわけです。

 そう考えてみると,悪玉のように批判される社会的入院も,高齢者にとっては合理的な選択なのですね。もし彼らを地域に戻すのであれば,地域のなかに代替機能を持たせなければなりません。コミュニティでケアするという視点が必要です。そして,その在り方は地域のいろいろな状況で変わり得るものでしょう。地域自らが考える必要があります。この意味で地方分権,地域の独立が必要です。

生活者にとっての施設ケアとは

猪飼 社会的入院というのは,その人に適切なサービスが供給されないから問題として認識されているだけなのですね。もっと言うと,社会的入院ではない高齢者の入院なんてそもそも存在しない(笑)。住んでいるところが病院だろうが施設だろうが自宅だろうが同じだ,という柔軟な枠組みができないかと考えています。

松田 そうですね。

猪飼 とりわけ,急性期病院と在宅の中間に位置する施設の役割については,いま一度定義付けする必要性を感じています。急性期病院と在宅は将来の存在理由が明確ですよね。一方で,自治体病院を含む先端性の低い病院群から老健・特養などの介護施設に至る中間領域の施設群に対しては積極的な位置付けが与えられていない。アイデンティティ・クライシスです。

松田 いちばん難しいところかもしれません。急性期病院や在宅はニーズがはっきりしていて,医療者・患者の双方にとってわかりやすい世界ですよね。その中間領域にある重層的なニーズをどう評価していくか。全体として機能しているものを,個々の要素に分けてしまうと評価ができなくなるでしょう。複合的なニーズを丁寧にひもとき,理論付ける作業をやらなければいけません。それはまさに,医療社会学の領域ではないでしょうか。

猪飼 「生活者にとっての施設ケアとは何か」という問いは,未来のヘルスケアを考える上での難問のひとつです。ただ言えるのは,急性期病院が機能を特化すればするほど,副次的にそこに当てはまらないものが大量に出てくる。そういったものを統括するロジックとして,医療と生活の「混在」はあったほうがよいと思うのです。

松田 歴史的な背景として,日本の住宅環境は社会政策ではなく,経済政策の一環として整備されてきました。高齢者が安心して住める場所が地域に整備されていないのも,貧困な住宅政策にルーツがあります。

 それを今後どう再整備していくかですが,医療・介護施設の周辺に住宅を整備していくことを考えてもいいかもしれません。例えば,病院と地域ケアセンター,高齢者向けの住居が複合施設になっていてもいいわけですよね。それはアジア的なまちづくりです。欧州は機能で分けて物事をつくっていきますが,国民性としてアジア的な混在のほうが向いているのかもしれません。

地域にひらかれた病院,地域を育てる医療者

松田 広井良典先生(千葉大教授)が行った調査(地域コミュニティ政策に関する自治体アンケート調査,2007年実施)で,「コミュニティの中心として特に重要な場所は何か」という質問項目があります。結果は学校が1位で,興味深いのは福祉・医療関連施設が2位だったことです。つまり,福祉・医療関連施設にコミュニティの拠点としての機能が求められている。そこに鍵があるような気がするのですね。そのためには,病院や施設がもっと地域にひらかれることが大切です。

猪飼 確かにそうですね。コミュニティケアを推進する以上は,地域の「支える力」をどう養うかという基本設計も同時に考えていく必要があります。しかし,町内会の組織率なんて年々下がっていく一方で,「支える」基礎体力はどんどん落ちているわけです。ヘルスケア関連職がそこで果たすべき役割は大きいでしょう。

松田 北九州にある「ふらて会」理事長の西野憲史先生が「半農半患者構想」を提唱しています。高齢者は,デイケアや通院だけが社会参加になっている場合が多いですよね。そういう人たちのために福祉農園をつくったわけです。通院やデイケアがないときは,農業指導員に教わりながらその農園で働いて,採れた作物を持って帰ったり,病院の食堂で食べたり,病院の売店で売ってお小遣いを稼いだりする。病院側には収益性のないサービスですが,通院の延長線上に社会参画が生まるのです。

猪飼 ああ,なるほど。高知で始まって全国に普及しつつある「いきいき百歳体操」にも当てはまりそうですね。

松田 そうですね。「いきいき百歳体操」は公民館や集会所のほか,グループホームや病院・診療所でも実施されていますが,それ自体は施設のフォーマルサービスではない。ボランティア主体で展開し,施設は社会参画の"場"を提供しているわけですね。

猪飼 私自身はいま,保健師,開業助産師,訪問看護師など地域で働く職種の可能性について勉強しているところですが,いろんな研究ができそうな感触を得ています。現場でさまざまな事例をみて,現代的な連帯やコミュニティづくりを考察してみると,それは「楽しいことを起こす」という感覚に近いですね。

松田 楽しい,つまり同じ関心のもとに人が集まるわけですね。

 血縁や地縁が薄れていくなか,社会の単位としては小さなグループが地域のなかに重層的にあるほうが望ましいと思うのです。そのときに,同じ関心を持つ人による集団活動――金子勇先生(北大教授)のいう「関心縁」がキーワードになってくる。高齢者の場合はまさに"健康"が関心縁です。フォーマルサービスを行っている施設にインフォーマルなサービスを付加することによってコミュニティを育てるという発想が,医療関係者に求められているのではないでしょうか。

猪飼 医療職がかつて取り組んできた活動を振り返ってみると,そういった種はたくさん見つかる気がしています。そこにどう意識を向けていくかが大事でしょうね。

松田 教育システム自体にそういった学習の機会が内在する仕組みが望ましいですね。

猪飼 本日議論となったことの多くは,四半世紀ほどの長期的視野において解決をめざさなければならない課題です。このような長期的展望に立った知識を生み出すのは,行政や現在の政治ではなく,アカデミズムの役割にほかなりません。私も研究者の一人として努力しますし,医療者の方々にも,アカデミズムの役割に期待していただければと思います。

松田 団塊の世代が後期高齢者になるころには,日本の医療は大きな変容を迫られるはずです。そのときに向けて,いまから医療職と研究者が手を携え,新しい包括ケアモデルを模索していきたいですね。

(了)

文献
1)社会福祉法人恩賜財団済生会:ハイリスク在宅高齢者に対するケアマネジメント手法の開発に関する調査研究報告書;2001.
2)猪飼周平:海図なき医療政策の終焉.現代思想.2010;38(3):98-113.
3)福岡県保健福祉部:平成18年「療養病床における入院患者調査」報告書;2007.


松田晋哉氏
1985年産業医大卒。91-92年フランス政府給費留学生(フランス保健省公衆衛生監督医見習い医官),92年フランス国立公衆衛生学校卒。99年3月より現職。専門領域は公衆衛生学(保健医療システム,医療経済,国際保健,産業保健)。フランス公衆衛生監督医(Diplome de la Sante),英国王室医学会公衆衛生医学会フェロー。DPC(Diagnosis Procedure Combination;診断群分類)の開発者として著名であり,『基礎から読み解くDPC 第3版』(医学書院)が今春発行予定。

猪飼周平氏
1994年東大経済学部卒。同大大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。佐賀大経済学部助教授,英国Oxford Brookes大客員教授などを経て,2007年4月より現職。主要研究領域は医療政策・社会政策・社会福祉・比較医療史。日米英3か国における医療システムの変遷を過去100年にわたり比較し,20世紀の医療の特質について総括した『病院の世紀の理論』(有斐閣)が話題に。現在は,保健・医療・福祉を包括する社会システムの在り方に関する展望的知識の発見に努めている。

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