医学界新聞

対談・座談会

2010.11.15

『リハビリの夜』第9回新潮ドキュメント賞受賞記念対談

「敗北の官能」から自由が立ち上がる

大澤真幸氏
熊谷晋一郎氏


 無限に広がる選択肢。何者にも縛られない意思。“自由”とは何かと問われたとき,こうした概念を思い描く人は多いだろう。しかし今,それらを手に入れた私たちは本当に“自由”なのだろうか?

 『リハビリの夜』(医学書院)は,脳性まひ者で小児科医でもある熊谷晋一郎氏が,“ままならない”自らの身体との交渉の道のりを詳らかに記した身体論である。このほど同書が第9回新潮ドキュメント賞を受賞したことを記念し,時代を彩るさまざまな事象から自由についての省察を重ねてきた社会学者の大澤真幸氏と熊谷氏が対談。大きな力に身を任せ,敗北の快楽に飲み込まれたときにこそ自由が立ち上がる――逆説的自由論を両氏が展開した。


敗北に快楽が潜む

大澤 『リハビリの夜』新潮ドキュメント賞受賞,おめでとうございます。

熊谷 ありがとうございます。

大澤 この本を特徴付けるならば,脳性まひ者から見た一種の現象学的哲学であり,それに医学的見地からも検証を加えたもの,と言えると思います。

 僕が驚いたのは,脳性まひを持つ方ならではの特殊なエピソードが書かれていながら,そこから生み出された概念には非常に普遍性があって,皆が共感できるという点です。そうした普遍的概念のひとつが,「敗北の官能」だと思うのですが,この言葉が生まれるきっかけとなった体験を,あらためて教えていただけますか。

熊谷 小学校低学年のころ友だちと,「熊谷でも参加できるルールで競争しよう」ということで,「腹ばい競争」をすることになりました。いざスタートしてみると,やはり友達のほうが圧倒的に早く,私はすっかり置いていかれてしまったのですが,そのとき,それまで経験したことのない“焼けるような感じ”があり,同時に下腹部・肘・胸など床と身体との接触点がものすごく敏感になってきたのです。そしてついには運動を取り持つ秩序がバラバラになって,自分の身体が散逸してしまう感覚に陥りました。そうした感覚を,『リハビリの夜』では,「敗北の官能」と呼んでいます。

大澤 「敗北の官能」という概念がユニークなのは,通常は自分自身にとってネガティブなこと,不快であったり不幸であったりするものとされる「敗北」を,他者との関係性において,ポジティブな体験としてとらえている点です。具体的には,まず「敗北」が人を動かしていることがあります。友だちは,熊谷さんをいじめようとして競争を提案したわけではないんですよね。

熊谷 はい。

大澤 こちらが,つまり熊谷さんの側が従属的・受動的な立場にいるにもかかわらず,「一緒にやってみたい」と相手に思わせ,行動に移させている。言わば,見えないところで主従の関係が逆転しているのです。

 もう一つ特徴的なのは,先ほどの体験のように「敗北」に快楽を関連付けていること。僕が思うに,「敗北の官能」に比較的近いのは“マゾヒスティックな快感”のような気がします。性的な快楽というのは,『リハビリの夜』流に言えば「開かれる」感じというか,自分の意思に反してはいないけれど,完全に自分の予想通りことが進んでいるわけでもないという,微妙なところに宿るものですよね。「敗北の官能」にもそうした面があり,そこに皆が共感を覚える,自分にもそんなときがあるという感覚を得るのではないかと思います。

意識するとこわばる身体

熊谷 実は『リハビリの夜』を書く前に大澤先生の『〈自由〉の条件』を拝読して,非常に刺激を受けました。自分の経験を言葉にする上で,大いにヒントをいただいたと感じています。

大澤 それは嬉しいですね。

熊谷 文中で,〈自由〉を構成する条件として受動性について述べておられますね。私もリハビリを通じて,自分の意思とはあまり関係なく,大きな力に身体が“ほどかれた”ときに立ち上がってくる動きが自由を切り開くという感覚を得てきたので,とても共感を覚えました。

 通常動きの基本となるのは,“理想の動き”をイメージし,それに沿って体を動かしていく,医学で言う随意運動だと思います。でも,特に私のタイプの脳性まひは,意思を持つととたんに体がこわばるという特徴を持っています。イメージを具体化させるほど,それに沿わない身体を突きつけられてこわばるという悪循環に陥るんです。

 そうした状態から,自分なりの動きをどう立ち上げていくか。脳性まひの先輩は,「酒を飲むとスムーズに動ける」と話していましたが(笑),同じように,何かに身を委ねるように動くイメージが,自分の中に構築されてきたんです。

大澤 今のお話には「〈自由〉とは何か」という問いへの答えにつながる,哲学的にとても深い含みがあると思います。僕たちは,随意に動くこと,自分が自分をコントロールできることこそが自由だと思い込みがちですが,よく反省してみると,普段から動くプロセスをいちいち意識しているわけではないし,そんなことをすると逆にぎこちなくなる。

 神経心理学者のベンジャミン・リベットが,動作を起こそうと意識してから脳の運動前野が活動し始めるのではなく,意識に先立って脳の活動が始まっていることを証明した実験はよく知られています。この実験により“第一義的に意識(自由意志)があって,意識が行為を規定する”というそれまでの常識に大いに疑義が呈されたのですが,熊谷さんは実体験からそれを証明していると思います。

■“つぶつぶ感”が残っているくらいがいい

大澤 動きに意識が先立たないとすると,なぜ自由自在に動けるのかという疑問が次に生じます。それを熊谷さんは「身体内協応構造」「身体外協応構造」という概念で説明されておられますね。これは,一般的な言葉なのですか。

熊谷 「協応構造」はもともと,運動生理学者のニコライ・ベルンシュタインが提唱していたものなんです。

大澤 身体の内部にも外部にも複数のエージェントがあって,エージェントたちがそれぞれ他のエージェントの反応を「拾う」――つまりエージェント間に連鎖反応的なつながりができることで身体に動きが生まれる,という理解でよいですか。

熊谷 はい。ベルンシュタインは身体の内・外という分け方はしていませんが,私は身体の輪郭が可変的に動くというさまを表したいなと思い,“身体内”と“身体外”と仮称してみました。

 一人暮らしを始めてから特に意識するようになったのは,身体の内外の境界線は健常者ほど自明に引かれていないということです。電動車椅子に乗ったとき,トイレ介助をお願いしたとき,車椅子や介助者が,まるで自分の身体の輪郭と一体化したように感じられるのです。

 ただ,身体内と外とが分離する場面もあり,何がその差を決めているのだろう? と考えたとき,ある程度の“あそび”は保ちながらも,私の動きとかなりリンクして動いてくれるflexibleな協応構造を持つものならば,身体に取り込まれる――身体化されるのではないか,と思ったのです。

大澤 “あそび”を保つということは,エージェントの集合が餅のように完全に一体化するのではなく,“つぶつぶ感”が残っているくらいがよい,ということですよね。

熊谷 そうです。そもそも脳性まひの身体が不自由なのは,身体内協応構造がrigidすぎて,身体を構成するパーツが1つの岩のようにガチッと固まっており,外界としなやかな協応構造をキープできなくなってしまうことが原因ですから。

 そして,凝り固まった協応構造がほどけた瞬間の快楽が,「敗北の官能」なのです。私は「折り畳みナイフ現象」という医学用語を借りて説明しましたが,抗えない力を加えられ,ほどかれてぐにゃぐにゃになる感覚があり,しかしそこで初めて,身体の輪郭が外の世界とつながる余白が生じると感じています。

大澤 内側に閉じてしまっているものを緩ませた上で,外との巧みな協応構造を形成していくわけですね。

不確実性を処理するためのアニミズム

大澤 熊谷さんは「便意」を内なる他者として,協応構造の中で考えられていますよね。身体内では腸と協応して蠕動運動が起こる一方で,身体外では社会規範との協応構造で,便意を我慢しなければならない。そして腸との“交渉”に失敗すれば,失禁の恍惚に至る……という,エッセイとしてもとても魅力的な記述でした。

熊谷 毎日のように自分の身に起きていることなので,筆が乗ってしまいました(笑)。

大澤 「古くから知る地元の不良」に腸を例えていて,彼が不意に声を掛けてくるんですよね(笑)。初めは知らん顔を決め込むけれど,次第に強い調子で「いつまで俺を無視するつもり?」と肩を叩かれる。

熊谷 腸があまりにも不確実で動きが読めないので,アニミズム的に人格帰属させることで対処しているんです。交渉に当たってはいつも「おとなしくしないと暴飲暴食をしてやるぞ」というカードを切るんですが,腸は「また漏らしてやるぞ」と返してくる。わずらわしさを振り払うようにワーッと食べては,また腸が押し寄せてくるという,そういう付き合いをずっと続けています。

 おむつをつければ「漏らしてやるぞ」と脅されても「漏らせば?」と言えて,交渉が相当有利になるので,実は今,検討しているところなんです(笑)。

大澤 アニミズムという言葉が出てきましたが,熊谷さんの場合,医師という自然科学系の職業に従事していながら,地面をはじめとする「生きていないもの」にも,ある意味で生命が宿っていると感じている印象を受けました。

熊谷 協応構造が完全でないが故の不確実性に直面したとき,それに対処するためにアニミズムや人格化の回路が作動するように感じています。

 例えば自閉症の世界がそうなんですが,自分の意思決定のプロセスをすべて意識してしまうと,自由を感じられなくなります。先ほどのリベットの実験では「自分の意思決定は自分自身では見えないものだ,不確実なものだ」ということが証明されましたが,それはすなわち,自分が自由であることの証明になるように思うのです。自己身体に内在する不確実性を処理する一つのスタイルとして,自己身体にアニミズムを適用した結果立ち現れるのが自由意志だと考えると,自然科学的にもあまり矛盾がないのかなと思います。

リンク全体が“自由”

大澤 リベットの実験は,自由や自由意志を否定する証拠に使われてきましたし,そもそもリベット自身がそのように考えていますが,むしろ,自由とは,自由意志とはいったい何なのか,誤りを解き,あらためて考えるヒントを与えてくれたとみたほうがいいですね。

 自由論において最も高名な人物の一人であるイマヌエル・カントは,人間は他人を「道具」としてではなく,「目的」として扱わなければいけない,と説いており,これは非常にざっくばらんに言えば「相手の人格を尊重しなさい」という意味です。カントはこの「道具」と「目的」という2パターンを完全に排他的にとらえていますが,熊谷さんは,自分が相手に身を委ねていることに快感や自由を感じる状況があること,つまり他人に「道具」のように利用されている状況において,自己の自由が実現することもあり得ると示しています。それはつまりカントの言葉とは裏腹に,人間関係は両義的だということを哲学的に暗示しているのではないかと感じるのです。

熊谷 身体障害者の地位向上をめざす社会運動においては「自己決定」という言葉がよく使われてきましたが,これはまさに介助者を道具として使うためのキーワードです。

 しかし,この自己決定の原則を字義通りにとらえて実行する介助者が現れると,例えば入浴介助の場面では「手から洗いますか。足から洗いますか」「手です」「手の先からですか。肩からですか」「手の先から」「小指からですか,親指からですか」「……」という問答が繰り返されるようになり,介助される側が選択しなければならないことがどんどん増してきます。そのときに,「果たしてこれは自由だろうか」と思ったんですね。

 一挙手一投足を意識して指令することは自由にはつながらない。むしろ,相手と最終的な目的を大まかに共有しつつ,ある程度自発的に動いてもらったほうが自由であり,相互に身体化し合う条件が充足するのではないかと思います。

大澤 身体のパーツ一つひとつ,さらには身体外の人やモノにもそれぞれ主体性があって,それらが緩やかに協応構造を形作っている。そうしたリンク全体が自由という状態であり,誰が自由で誰が自由でないという議論ではないこと,言わば誰が主人で誰が奴隷かは決定不能だということを,『リハビリの夜』では見事に実証しているのではないでしょうか。

複眼的な内部モデルで介護がうまくいく

大澤 脳の内部モデルの話題も興味深いですね。

熊谷 本来,脳の一次運動野から指令が出てから,実際の運動がフィードバックされるまでにはかなりのタイムラグが生じます。しかし脳の中ではバーチャルな内部モデルが状況を先取りしており,人はそれに反応してリアルタイムに外界を経験できている,という脳科学研究での考え方を援用しています。

大澤 『リハビリの夜』では脳内だけでなく,身体内部の対話も外部との関係も一律に,内部モデルをお互いに持って調整していくプロセスだと考えることがメインの主張の一つになっているように思います。

熊谷 そうですね。

大澤 内部モデルというのは,脳内の主観的な世界を外部の客観的な世界に投影しているもので,障害を持たない人の場合,客観と主観とのズレは少ないのですが,脳性まひ者の場合は内部モデルと実際にできることの間に大きな乖離がある。それを「無理やりすり合わせることはやめて,身を委ねてみよう」とポジティブに考えるのが熊谷さんらしいですよね。

熊谷 健常者向けの内部モデルを唯一のものとしている間は,やはり実際の自分の身体との乖離を,日々鮮烈に突きつけられてしまいます。しかしいったんそれを脇に置いて,無策のままで世界と交渉していく中で協応構造が立ち上がっていったときに,それを固着させるものとして,事後的に自分専用の内部モデルを作っていく感じです。

 ただやはり生活していくには,否が応でも健常者向けの内部モデルも活用していかねばならない。私は「多重規範」と称しているのですが,介助者と連動するにも,健常者から見た世界と自分から見た世界が複眼的に両立していることが必要なんです。

 介助がうまくいくのは,大澤先生流に言うと「遠心化」,つまり介助者と私がお互いの内部モデルを取り入れて,相手の見ている景色をなぞっている,そんなときです。これは「憑依」とも呼べますが,他者に身体を委ねるにあたり,少しでも不確実性を減らして相手の動きを読もうとする中で,おのずと自分の中心点が向こう側に移っていく感覚があります。私自身が実際には介助する側になったことがないのに,介助者に「こう動かしたらいいよ」と指示が出せるのも,相手の中に入り込んで誘導し,不確実性を減らそうとすることを,しょっちゅうやっているからだろうと思います。

大澤 確かによく考えてみると,介助するほうは一度も経験されていないわけですよね。人間が,外から他人を見ることで学習している部分が大きいことが,非常によくわかります。

■敗北の伝染が,世界を動かす

大澤 社会学者の宮台真司さんが最近よく,「ミメーシス(Mimesis)」について述べられています。

 ミメーシスというのは,感染的模倣,感染するようにして生じる模倣という意味ですが,宮台さんはこの概念を,主として,すごく立派な人,世界に対する勝利者がいたときに,自分もそうなりたいと模倣する,いわば「勝利」が伝染してしまう現象ととらえています。しかし僕は,熊谷さんの「敗北の官能」という概念から,「敗北の伝染」もあるのでは,と考えたんです。

 福音書に記された,イエスが語った寓話に「善きサマリア人」という話があります()。サマリア人に全面的に身を委ねた瀕死の旅人は,そのことである種の「敗北の官能」を感じている。同時にサマリア人も,倒れている人を見て思わず助けたとき,その官能に伝染しているのではないかと思うのです。

 立派な人を見て,思わずそのようになりたいと模倣するのではなく,ある種,弱く捨てられているものに,やはり弱く捨てられるものが感応していくことで,逆説的に強さが出てくる。「敗北の官能」の連鎖によって自由が立ち上がる,その例証として,『リハビリの夜』が読めるという仮説を立てたのですが,いかがでしょうか。

熊谷 まさにこの『リハビリの夜』は,ミメーシスの失敗から始まっているんです。規範的なものをインストールすること,つまりミメーシスによって居場所を見いだすことが無理だとわかったとき,どのようにして世界とつながっていくべきかという問いから,すべての物語が始まっています。

 「敗北の官能」の感染というのもまったくそのとおりで,協応構造がほどけ始めた人,秩序を失って砕け始めた人を目の前にすると,それを見た人も身体がざわめく。「打たれる少女」という章では,私がこの本で唯一サディスティックな行為に及んだ経験を書いていますが,肘打ちをして倒れていく相手を見たときのざわめきはいったい何だったのか,いまだによくわからずにいます。

 でもそんなふうに双方が協応構造を少しずつ緩め合って初めて,つながるための余白が生まれるんですね。ですから「敗北の官能」=「協応構造のほどけ」の感染が,ミメーシスできない人同士がつながるとき,一つの契機になるのではないかと感じますね。

大澤 私は社会学を生業にしているので,「敗北の官能」が一つの触媒になって人やものが苦もなく動いていくということが,社会のトータルな構造や変化を考える際のヒントにならないかと考えているんです。

 マックス・ウェーバーは,社会の変化の原点にはカリスマの出現があると考えています。歴史の中で偶発的にカリスマ的な個人が現れることがあって,そうした人物が作った理念や行動規範やモデルが人々に影響を与え,社会を動かしていくというイメージです。

 でも,「敗北の官能」に対する僕のイメージは,こういう社会変動のイメージとはまったく逆。ミメーシスされるような強い人,カリスマ的個人は必要がなくて,ある意味では無能な,弱い人が触媒になって,世界が変わることもあり得るというものです。

 『THINKING「O」』の創刊号で,アフガニスタンで活動する「ペシャワール会」の医師,中村哲さんと対談しました。中村さんは,間違いなく立派な人なのですが,「神様のような」と形容するとちょっと違和感がある。むしろ,すごく人間味があるし,いい意味で普通の方なんです。でも,その人が触媒になってとてつもないことが起きている。

 ここで「敗北の官能」という言葉が僕のなかでピンとくるわけです。1人の無力な男がやってきて,他者に対して何かを触発して世界が動いていくイメージです。そういうイメージを社会的な場面で見れば中村さんたちのアフガニスタンでの活動になるし,人間の身体というミクロでベーシックなレベルで見いだそうとすると,『リハビリの夜』になる。

熊谷 確かに『リハビリの夜』では,人間関係や社会など大きなスケールを意識しながらも,身体のことに落とし込んで書ききれなかった部分もあるので,社会というスケールで言えることと,個々の身体レベルのことがどう通じ合うのか,とても興味があります。

隙間のない脳性まひ,隙間が空きすぎたアスペルガー

熊谷 『〈自由〉の条件』では,政治哲学者アイザイア・バーリンの自由論についての記載もあり,私たちが自由を感じる条件として“複数の選択肢から選べることだけではなく,そこから一つ選ぶ必然性が生じること”とありました。そこに結びついたのが,先ほども少し触れたアスペルガー症候群や自閉症者の「不自由」の感覚です。脳性まひ者とは逆に,彼らは,次々と選択肢が乱立し無視できずに立ち止まってしまうという,協応構造で言えば「過剰に隙間が空いている」身体です。ですから,『発達障害当事者研究』共著者でアスペルガー症侯群の綾屋紗月さんに「敗北の官能」のことを話すと,「全然わかんない」と言われます(笑)。常に隙間が空いている人に隙間が空くことの官能を説いたところで,理解されないですよね。

 社会が解放的になると脳性まひ者には暮らしやすいのですが,逆にアスペルガーの人にとっては選択肢が増えすぎて生きにくい。つまり大澤先生のおっしゃる「第三者の審級」(規範の担い手,与え手として現れる超越的な第三者。神や父が典型)の弱体化と並行して,ようやく息が吸えるようになった脳性まひ者と,障害が顕在化してしまったアスペルガー症候群の人々がいるんです。アスペルガー症候群が急増している背景には,そうした社会の変化もあるのではないかとみています。

大澤 アスペルガー症候群などのコミュニケーションの問題と,脳性まひのような運動障害の問題とは普通は別次元に考えるものですが,熊谷さん流に言えばどちらも協応構造の問題ということですね。二つの問題を一つの線で結ぶことができれば,現代社会全体を見ることができる視座が出てくる可能性があると思います。

熊谷 そう思います。今,綾屋さんと新たに本を作っていて,『発達障害当事者研究』と『リハビリの夜』とを止揚できるような内容にできればと考えています。

大澤 楽しみにしています。

 『リハビリの夜』には,僕自身が独自に考えていた自由についての概念やアイデアとフィットすることがたくさん書かれていて,「わが意を得たり」という思いなんです。時間をかけて考える必要がある,とても重要な宿題がたくさん詰め込まれている本であり,今後も思考のモデルにさせていただくことになると思っています。本日はありがとうございました。

(了)

註)善きサマリア人
 ある旅人が強盗に襲われて半殺しの目に遭い,身ぐるみ剥がされた。ユダヤ人の祭司も,高い身分にあったレビ人も,旅人を避け道の反対側を通って行く。しかし3番目に通りがかった,当時差別対象だったサマリア人は,旅人を救護して宿屋まで運び,宿の主人に治療代を渡し「足りなければ帰りに払う」とまで言った。イエスは,3人のうち旅人の“隣人”はサマリア人であるとし,“真の隣人愛の実践”を説いた。


大澤真幸氏
1981年東大文学部卒。1987年同大大学院社会学研究科博士課程満期退学。同年4月-90年,同大文学部助手。90年「行為の代数学」にて博士号取得。千葉大文学部講師・助教授を経て,97年京大大学院人間・環境学研究科助教授,07-09年同教授。『〈自由〉の条件』(講談社,08年)のほか,毎日出版文化賞受賞作『ナショナリズムの由来』(講談社,07年),『生きるための自由論』(河出書房新社,10年),『現代宗教意識論』(弘文堂,10年)など著書多数。10年4月には月刊誌『THINKING「O」』(左右社)を創刊。本対談のもようは同誌11年3月発行号にも掲載予定。

熊谷晋一郎氏
2001年東大医学部卒。千葉西病院(当時),埼玉医大で小児科臨床に携わり,東大大学院医学系研究科博士課程を経て,同大先端科学技術研究センター特任講師。新生児仮死の後遺症で脳性まひになり,中学生のころから車椅子で生活しているが,大学在学中には一人暮らしも経験。共著に『発達障害者当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』(医学書院)がある。従来は専門家により外部から記述されがちだった「運動」「コミュニケーション」「痛み」といった問題に対し,当事者が内側から現象学的に記述,分析する「当事者研究」という実践に興味がある。

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