長尾能雅氏に聞く
インタビュー
2010.06.07
【interview】
「インシデントレポートは病院へのコンサルテーション。患者の治療のための前向きの業務」
長尾能雅氏(京都大学医学部附属病院准教授・医療安全管理室長)に聞く
新研修医の皆さんは,入職時オリエンテーションでインシデントレポートについて説明を受けたでしょうか。安全管理者のよくある悩みのひとつは「医師の協力が乏しい」。「安全管理は看護師さんの仕事」なんて思っていませんか? ならばまずは図2をみてください。有害事象の把握には,医師の積極的な報告行動が不可欠なのです。組織の透明性確保に,研修医の果たす役割は大きい! 臆せずインシデントレポートを提出し,病院に豊かな医療安全文化をつくっていきましょう。
――京大病院におけるインシデントレポート数の推移から教えてください。
長尾 近年増加傾向にあり,年間7000件を超えるようになりました(図1)。特に,医師からの報告が増えていることが特徴です。
図1 京大病院におけるインシデントレポート数の推移 |
――他施設と比べるといかがでしょう。
長尾 当然,病床数にもよりますが,医療安全に熱心な病院で年間数千件。7000件以上となると数えるほどだと思います。当院のように医師からの報告が単一施設で600件以上というのは,私自身は聞いたことがありません。
――医療安全活動の指標となるような数値はあるのですか。
長尾 科学的な根拠は不明ですが,「インシデントレポート総数が病床数の5倍,そのうち1割が医師からの報告」というのが透明性のおおよその目安と言われています。当院のように1000床規模の病院ならば,総数が5000件,そのうち500件を医師からの報告で占めるのが目標となります。
有害事象の把握には医師の積極的参加が不可欠
――なぜインシデントレポートの数,しかも医師からの報告の割合にこだわるのでしょう。
長尾 もちろん,レポート数さえ増えれば安全が保証されるわけではありません。しかし,まずは院内で発生した有害事象を病院が正確に把握するのは組織として当然のことですし,それができないと対策も的外れなものになります。そして有害事象の正確な把握には,医師の積極的な報告行動が不可欠なのです。
医療事故の発生頻度に関して「日本で唯一のエビデンス」とされる研究1)があります。これは全国の病院で第三者がカルテをレビューし,一定の基準に従って有害事象を拾ったものです。この研究結果を基にした試算に昨年度の当院の報告数を当てはめると図2のようになります。
図2 京大病院インシデントレポート数の検討(2009年度) |
医療行為中に,患者を含めた医療チームにハザード(危険)が近づく。未遂で終わるものもあれば,実際に危険が発生するものもある。発生したもののうち,無害で終わるものもあるが,一部は有害事象を引き起こす。有害事象のうち軽く済むものと,重くなるものがある。1000床規模の病院では1年間におよそ50件の重大な有害事象が発生しているという医療事故の発生頻度に関する試算と京大病院のインシデント数を照合すると,同院の有害事象はインシデントレポートによってほぼ把握できたことになる。また,「ハザード→有害事象(軽度なもの含む)→重大な有害事象」と図の右側に進むにつれ,医師からの報告の割合が増えることがわかる。すなわち,医師からの報告は有害事象抽出において重要な役割を果たしていると言える。 |
1000床規模の病院では,過失の有無は関係なく,重大な有害事象が年間50件ほど発生していると推測されます。では当院の医療安全管理室がどのくらい把握できたか。2009年度はインシデントレポートによって56件を把握し,そのうち32件が医師からの報告です。
――研究結果と照合する限り,重大な有害事象は隠蔽されることなく,インシデントレポートの形式で報告されるようになったということですね。
長尾 それに近づいたと考えています。
――ハザードから有害事象,重大な有害事象と,徐々に医師からの報告の割合が増えていますね。医師からの報告は,他職種の報告と比べて圧倒的に重症度が高いとも言えます。
長尾 このことは,医師からの報告が少ない限り,病院は有害事象を正確に把握できないことを意味します。安全管理者としては,有害事象(図2の点線より右側)をできるだけクリアにして,特に重大な有害事象については病院の粋を集めて対応したいと考えています。看護師からの報告は未遂・無害事例,擦り傷や打撲などの軽症事例を多くつかむことができますが,それだけでは不十分なのです。
当院は医師からの報告が増加したことによって有害事象の全体像を把握しつつあるところであり,医療安全のスタートポイントにようやく立つことができると感じています。
――インシデントレポートが日本で普及し始めたころ,看護師からの報告が多いことを受けて,「看護師は医療の最終行為者だから多くなる。看護業務は医療事故と隣り合わせにある」という分析がなされていました。
長尾 指示の受け手であり点滴や処置の最終行為者となる看護師が,強い危機感を持って医療事故防止策に取り組んだのは自然な流れだと思います。一方の医師側は,業務の連鎖の始点にいますから,指示がうまく伝達されなかった場合,関与したスタッフに非があるという感覚に陥っていたとしても不思議ではありません。
しかし実際は,医師は手術や検査,診察,処置などの直接的な医療行為を行っており,重症度の高い有害事象に日々直面しています。また,医師のあいまいな指示のあり方が莫大な業務ストレスを院内に発生させています。
いずれにせよ,病院が真につかむべき安全上の重要な情報ソースには,医師が関与していることが多い。医師からの情報提供がなければ,こういった出来事がまったくのブラックボックスになってしまうのです。はっきり言えば,いまも多くの病院は,重大な有害事象やその事実関係がコンスタントに明らかになる体制にありません。
――これまでは看護部が熱心にインシデントレポートを出し,それをもとに病院が事故の「対応」を頑張ってきましたが,実はその前段階の「抽出」でつまずいているわけですね。
長尾 私はその点を特に意識しています。「抽出に忙殺されるより,数が少なくても1つひとつ有効な対策を打つほうが大事だ」と主張される方もいます。もちろんそれはよくわかるし,われわれも予防対策や改善活動に取り組むのですが,医療事故の全貌を病院が公式に把握するために最大限の努力をすることは,社会的に譲れない大きな柱だと思うのです。インシデントレポートシステム以外にもさまざまな手段を組み合わせ,有害事象を把握するための努力を病院はすべきでしょう。
インシデントレポートの多い診療科は事故抽出力が高い
――医師からの報告を増やすのはなぜ難しいのでしょう。
長尾 理由のひとつに,医療行為の最終責任者としての警戒感があると思います。病院に報告するのは自分のミスを認めることだという感覚があり,そもそもミスなのかどうかよくわからない出来事も多く発生するわけです。医師は他の職種に比し,病院に報告しておいたほうがいい事例とそうでない事例を自分たちで判断し,分別すればよいと考える習慣があるのだと思います。
また,例えば看護師の場合は交替勤務で,勤務の最後には引継ぎがある。その日の医療行為が他者の目に触れ,共有できる機会があります。一方で医師の多くは主治医制で診療をしており,チームとして迅速にヒヤリハットなどを認識する機会が乏しい。そういった勤務体制の問題も関与しているのではないでしょうか。
――2005年度は199件だった医師からの報告が,翌年度には465件にまで急増しています(図1)。この間何があったのでしょうか。
長尾 私が京大病院に赴任したのが2005年10月で,その前月にインシデントレポートが電子化されました。それまでは手書きだった入力が多少楽になり,院内LANによって医療安全室に報告される仕組みになりました。
――電子化するだけで増えたのですか。
長尾 それがまったく変わりませんでした(笑)。「やはりそうか,何か別のアクションを起こさないといけない」と思い,まずは院内の診療科別の報告数を,全職員宛てのメールで公表しました。そこから動きがありましたね。
――その意図は何だったのでしょう。
長尾 報告の多い科は“危険な科”ではなく“事故抽出力や透明性が高い科”であり,これは高く評価されるべきだというメッセージをメールに添えました。「インシデントが年間5―6件という科はあり得ない」と,クレバーな集団ならすぐわかりますよね。院内での情報公開によって診療科間のコントラストが提示され,報告が少ない集団は事故抽出力が低く不透明であるという認識が芽生えていったのだと思います。
「患者安全の確保」のためのレポート
――ただ,中には合併症の有無など判断が難しいものもありますよね。
長尾 これについては,「合併症と考えられても報告すべき具体的基準」をつくりました。主治医が合併症と考えても,「患者が予期していなかった合併症」や「患者が予期していても,医療者がヒヤリハットした合併症,あるいは重篤な結果となった合併症」は報告対象とするように定めました。基準がわかりやすくなったことで,報告数も増えてきました。
そして,「インシデントレポート提出の意義」も作り直しました(表)。医療安全分野で当時よく言われていたのは,「正式な支援」と「システムの改善」です。これらは確かに大事で当院も重視していますが,医師に報告を促そうとするとこの2つでは弱いのです。
表 インシデントレポート提出の意義 | |
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――なぜですか。
長尾 「正式な支援」,さらに言うと「職員を守る」ことは全例にできるわけではありません。もちろん病院は支援するし顧問弁護士もいますが,レポート提出によってその出来事が消えてなくなったり,免責されたりするわけではありません。「システムの改善」も,すべてのレポートにすべての改善はなかなか難しいのです。「レポートを提出すれば守ってくれる」「改善してくれる」といった他力的な期待感が芽生えてしまうと,実現できなかった場合には失望へとつながり,やがて報告しなくなるでしょう。
私が特に強調したのは,「患者安全の確保」と「事象の共有」です。とにかく報告は「治療のためのコンサルテーション」であると。有害事象が発生した場合,最初に取り組まなければならないのは報告・救命・治療であり,これらに真剣に取り組んで初めて,職員が守られることもあるし,改善につながるケースもあるということです。
――治療のためのコンサルテーションなら,医師として当然やるべきですね。
長尾 幸い,早期報告によって集学的な対応をしたおかげで救命できた事例や,犯罪を防止した事例をいくつも経験しました。個人あるいは単一部署で背負い込んでも解決できることは限られていますが,病院管轄の問題として共有すれば解決できることがあります。そういった体験を共有することで理解者が増えていったと感じています。
医療者が患者とともに事故に向き合うことの痛みは当然あるわけです。しかし,その痛みを恐れ遠ざけようとすれば,より深刻な結果が待ち受けます。これらの課題の克服において,病院執行部のリーダーシップがぶれないことも重要であり,当院はその点でつくづく恵まれていたと言えます。
研修医は病院の「扇の要」
――研修医からの報告は多いですか。
長尾 多いですね。傾向としては,未遂・発生無害などのヒヤリハット報告が多いです。その中には,一緒に診療する上級医から「これは報告しておいて」と指示を受けたものも含まれると思います。私の個人的な感覚ですが,有害事象の報告が一定数以上あって,かつヒヤリハット報告のほうが有害事象より多いと,透明性が高い診療科という印象を持ちます。
――日ごろから些細なことでも報告する文化があれば,有害事象が生じたときも報告するだろうと。
長尾 そういうことです。有害事象だけきれいに抽出できれば効率はいいかもしれませんが,それは現実に難しい。泥臭いやり方ですが,院内の有害事象を明らかにするためにはどのくらいの報告の分母が要るのかという視点でも見ています。インシデントを臆せず報告できる豊かな文化土壌があって初めて,本丸に切り込むことができます。
――研修医による報告数を示すことが,上級医の刺激にもなりますね。
長尾 実際,医師の報告総数に占める研修医の割合は年々減ってきています。上級医からの報告が増えたことが原因です。当院の研修医はそういう意味で事故抽出の屋台骨になっており,将来が楽しみです。
――時に研修医が重大な有害事象を起こすこともあり,その際にインシデントレポートを出すのはやはりつらいと思うのですが。
長尾 以前大きなトラブルが発生し研修医が茫然自失となったとき,指導医が鼓舞してなんとかその場をしのいだことがあります。事態が落ち着いてその研修医がインシデントレポートを出した際,指導医がいろいろと業務上の注意を与えたあと,最後にこう言ったそうです。「だけど君は今日ひとつだけいいことをした。それは,病院にこのことを報告し,改善のための努力を記したことだ」と。この言葉には私自身とても感心しました。
「エラーは病院がシステムとして防ぐべき」という考えが,近年は少し誤解されているのではないかと懸念しています。今すぐにはシステムで防げないエラー,個人の修練が必要となる部分も当然あるわけで,若いうちからそこに向き合うことを覚えておく必要があります。その際に指導医・上級医がいかにフォローできるかも大事ですね。
――研修医に向けて,あらためてメッセージをお願いします。
長尾 常に忘れないでほしいのは,医療の公益性です。自分たちがいかに重要で公の業務についているか。その自覚を持てば,医療安全の重要性もおのずとわかるでしょう。インシデントレポートは病院へのコンサルテーション,患者さんの治療のための前向きの業務です。恐れたり恥ずかしがったりする暇はなく,報告することで患者の救命・治療につなげる医療現場を,私たちはつくっていかなければならないと思います。
それから,先端医療・高度医療は,安全文化が成熟したチームでなければ行ってはならないことを肝に銘じてほしいですね。特に大学病院などは「トライアルの中から新しい治療が生まれる。それを事故防止の観点で抑制するのはよくない」という風潮が芽生えやすい組織です。しかし,医療安全という“チケット”を手に入れたグループのみが先端医療に着手することが許されるのであって,このことをはき違えてはいけません。
――研修医はいろいろな診療科をローテートしますから,医療安全管理者としては期待も大きいですよね。
長尾 もちろんです。ローテートしているからこそ,安全管理室が気づかないような各診療科の課題がわかる。それに各科のエース級を知っているのは研修医で,集学的な事故対応が必要な際に間接的に力を発揮します。研修医が「扇の要」になり,診療科間の連携が強まることを期待しています。
(了)
文献
1)厚生労働科学研究費補助金医療技術評価総合研究事業「医療事故の全国的発生頻度に関する研究(主任研究者:堺秀人)」平成15年度~17年度総合研究報告書,2006年.
長尾能雅氏 1994年群馬大医学部卒。公立陶生病院,名大病院,土岐市立総合病院などを経て2005年10月より京大病院医療安全管理室長,10年4月より准教授。大学卒業後,当時は少数派だった全科スーパーローテートを経験。その経験がいま活きていると実感している。医療の質・安全学会評議員,日本呼吸器学会専門医。 |
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