未知なる脅威と危機管理戦略(押谷仁,川名明彦,谷口清州,虫明英樹)
対談・座談会
2009.01.05
【新春座談会】未知なる脅威と危機管理戦略 | |||
押谷仁氏=司会(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野教授)
川名明彦氏(防衛医科大学校 内科学講座2感染症教授) 谷口清州氏(国立感染症研究所 感染症情報センター第一室長) 虫明英樹氏(NHK報道局科学文化部記者) 前列左から,押谷 仁氏,谷口清州氏
後列左から,川名明彦氏,虫明英樹氏 |
新型インフルエンザに対する関心が急速に高まるなか,世界中で新型インフルエンザによるパンデミック(世界的大流行)への準備が進められている。未知なる脅威だけに不確定要素が多く,専門家の間でさえも見解が分かれる事項もある。ただ,「パンデミックは近い将来に必ず起こる」ということだけは確かだ。パンデミックの被害を最小限にするためにどのような戦略が必要か。正確な情報をもとにした地域ごとの十分な議論と対策が求められている。
パンデミックを引き起こすのはH5N1か
押谷 2004年,ベトナムのハノイで,H5N1亜型高病原性鳥インフルエンザのヒトへの直接感染が確認されてから,既に5年が経過しました。この間,WHOは「明日にでもパンデミックが起きるかもしれない」と警告を発し続けましたが,いまだ発生していません。このH5N1がパンデミックを起こす可能性から議論を始めたいと思います。虫明さんは,トリ-ヒト感染が確認されたハノイの国立小児病院など,実際の現場を取材されていますが,どのようにお考えですか。
虫明 パンデミックへと突入するのではないか,という危機感が専門家も含め非常に高まった時期は,この5年ほどの間に少なくとも2度あったと思います。最初は,2004年初めからの数か月間です。1月にベトナム保健当局からハノイのWHO事務所に,「子どもたちの間で重症呼吸器疾患の集団発生が起こり,すでに10人が死亡している」との情報が寄せられました。私は当時,SARS(重症急性呼吸器症候群)をテーマに番組を制作していて,偶然WHOでその情報を耳にし,すぐに国立小児病院で取材を始めましたが,これが現在まで続くH5N1感染の始まりでした。
私がベトナム国内で取材を続ける間に,感染者はタイ,インドネシアにも広がり,さらにベトナムではヒト-ヒト感染も確認されました。あのとき,押谷さんも現地に駆けつけ,CDC(米国疾病予防管理センター)のメンバーも加わって,感染拡大防止に当たっていましたが,皆異常なまでの緊張感に包まれていたのを覚えています。
幸い,その後いったんH5N1の感染は収束しましたが,2005年には中国の青海省を経由して,感染が中東,アフリカ,ヨーロッパへと広がりました。このときも,急速なウイルス流行地域の拡大とトルコなどでの感染者の続出という事態があって,緊張感が高まりました。また同時期に,ウイルスがヒトに感染しやすいタイプに変異しているということも報告され,パンデミック発生が危惧される状況にあったと思います。
ただ,最近の数か月間は,各国ともトリの間での感染予防策に力を入れるなど対策を積極的に推し進め,感染者の報告例が少なくなってきていますし,先日国連が発表した報告書にあるように依然危険であることは変わらないものの,ブレーキがかかり始めているのではないかという印象を持っています。
谷口 現在,トリ世界ではトリ-トリ感染が定着しており,その環のなかで人獣共通感染症として,ヒトに偶発的に感染している状況ですね(カラー解説図3)。しかし,ブタへの感染や,ヒト型に変異したウイルスが見つかっており,さらに限定的ではありますが,ヒト-ヒト感染も起きているので,予断を許さない状況は続いていると考えます。
ただ,私たちが知る限り,これまでにヒト世界でパンデミックを起こしたのは,H1,H2,H3のみです(カラー解説図4)。H5はこれほど長い間ヒトへの感染が確認されながらも,まだヒト世界に定着していません。ヒト世界に入れないウイルスなのではないかという説もあります。また最近では,H7がヒトへの感染性を高めているという研究報告も出されています。ですから,どの亜型がパンデミックを起こすかはわからないけれども,近い将来にパンデミックは必ず起きるという前提で,危機管理として対策を講じる必要があると思います。
押谷 H5N1が本当にパンデミックを起こすかどうかは,現時点では何とも言えないというのが実際のところですね。これまでパンデミックが回避されてきたのは,世界各国でさまざまな対策が講じられたことが要因かもしれませんし,逆に何も手を打たなくても回避できたのかもしれません。しかし,パンデミックが起きる可能性がある以上は,世界に対して警告していくことが必要だと思っています。
H5N1の致死率・臨床像
押谷 川名先生は,呼吸器感染症,感染制御を専門とする臨床医として,ベトナムやインドネシアにおいてH5N1の感染者の臨床症状を診ていらっしゃいます。H5N1は,どういう臨床的な特徴があるのでしょうか。
川名 H5N1の感染者を診ると,非常に重症のウイルス性肺炎,急性呼吸促迫症候群(ARDS)を起こしています。季節性インフルエンザは上気道に限局した感染症ですが,H5N1の場合,血液や便,小腸などの臓器からもウイルスが検出されたという報告があります。ですから,呼吸器を中心に,重症の全身感染を起こし得る疾患だと考えられます。
押谷 現在WHOで確認しているH5N1の発症者387人のうち,死亡者は245人(カラー解説図2)。つまり60%以上の致死率ですが,パンデミックを起こした場合の致死率は,それよりは下がると言われています。
厚労省は,実際にパンデミックが起きた場合の罹患者を全人口の25%,3200万人として,致死率を1918年のスペインインフルエンザと同じ2%と想定した場合,64万人死亡と推計しています。罹患率25%という数字自体に根拠がないという意見もありますが,致死率についても見解が分かれるところです。
川名 スペインインフルエンザの致死率は2%と言われていますが,アジアインフルエンザ,香港インフルエンザの死亡率はその10分の1です。このように過去のパンデミックを見ると,その死亡率には大きなばらつきがあります。
H5N1がパンデミック株になった場合は,強毒なので高い致死率を想定すべきだという考えもあります。ただ,インフルエンザという疾患が,昔から人類と共存してきたことを考えると,60%の致死率のまま流行することは考えにくいです。
谷口 現在は,偶発的にヒトへの感染が起きている状況なので致死率は高いですが,ヒトに適応する以上は,ヒトとの共存に適したようなかたちに変異し,致死率は下がると予想されます。とはいうものの,インフルエンザの病原性についてはいまだ完全に解明されておらず,「わからない」というのが本当のところです。
押谷 それと,スペインインフルエンザの死因の約3分の2は,二次性細菌性肺炎だったと言われています。それを根拠に,「現代は当時と違って抗菌薬があるので,致死率は2%もいかない」と主張する人もいます。
川名 私はスペインインフルエンザ流行当時の,日本の病院の入院カルテを調べたことがありますが,確かに二次性の細菌性肺炎を合併したとみられるケースが5-10%含まれていました。その場合は,現在であれば抗菌薬が使用され,効果が期待できます。
押谷 ただ,今回のH5N1感染者の多くは,二次性細菌性肺炎ではなくて,ウイルスそのもので亡くなっていますよね。
川名 そうです。H5N1感染者の大多数が重症のウイルス性肺炎やARDSになり,呼吸不全で死亡しています。一方,調査したカルテによると,スペインインフルエンザの6割以上は普通のインフルエンザと同じように,比較的短時間で自然に治癒したと考えられる経過をとっています。ですから,現時点におけるH5N1感染症とスペインインフルエンザの臨床像とは分けて考える必要があります。
危機管理としての新型インフルエンザ対策
押谷 日本の新型インフルエンザ対策は,1997年に香港で初めてH5N1感染者が確認される前から始まっていました。スタートダッシュはよかったのですが,世界各国の対策が進み,いつの間にか3周遅れぐらいになってしまった。
虫明さんは海外取材も精力的になさっていますが,この危機感の違いはどこに由来していると思われますか。
虫明 アメリカの場合は,2005年から国家安全保障上の問題として,年間約9000億円の特別予算を投入し,パンデミック対策を開始しました。政府が危機管理の問題として新型インフルエンザ対策をとらえたかどうかの違いがいちばん大きかったと思います。
アメリカでは国土安全保障省を中心に,各省庁に明確な行動計画があります。それに基づき,すべての項目についてタイムラインを設けて実行し,成果を国民に示すという行政の枠組みを持っています。また,危機管理対策の伝統が非常に長いので,行政や医療機関にもさまざまなノウハウが蓄積されていることが日本と異なる点です。日本では,何か実施したときに,「結局起きなかったじゃないか」という批判が起こり得ますが,アメリカは最悪の状況を想定した体制整備に対して,ポジティブになり得る環境があります。
押谷 日本も最近になってようやく,新型インフルエンザ対策に本腰を入れ始めました。そのきっかけのひとつには,虫明さんたちが制作したNHKスペシャル「シリーズ最強ウイルス」がありますね(2008年1月12,13日放送)。
谷口 あの番組は非常にインパクトが強く,その後すぐに,当時の内閣官房長官が記者会見を開きましたよね。国民の意識が高まって,与党内では「鳥由来新型インフルエンザ対策に関するプロジェクトチーム」が発足しました。今年度から厚労省に新型インフルエンザ対策推進室が設立されたのも,大きな進歩です。
ただ,日本の場合,新型インフルエンザ対策のトップは「新型インフルエンザ及び鳥インフルエンザに関する関係省庁対策会議」です。どこが責任を持って対策を進めているかが明確ではありません。その点は不安を感じます。
押谷 日本はまだまだ厚労省主導で,国をあげて取り組む体制にはなっていません。パンデミックが起こると,その影響は社会全体に及ぶので,省庁が連携して,社会全体で対策に取り組むことが,今後の重要な課題だと思います。
早期封じ込めか,被害軽減か
押谷 日本のこれまでの新型インフルエンザ対策は,地域封じ込めや,国境での水際作戦など,「早期封じ込め」ばかりが検討されてきました。しかし,そもそも早期封じ込めにどの程度の実現可能性があるのでしょうか。
谷口 潜伏期がある以上,検疫で抑えるのが極めて難しいことは明らかです。SARSだって,結局検疫では抑えることができなかったわけです。
押谷 最初の段階で1-2週間,ウイルスが入ってくるのを遅らせる効果はあるかもしれません。しかし,パンデミックが世界各国で発生するような状況が1年ほど続くとすると,その間ずっと停留を含む検疫の強化を続けるのは非現実的です。
谷口 地域封じ込めについても,今の新宿駅の雑踏を見れば,少なくとも都市部では不可能ですね。もちろん,最大限の努力はする必要がありますが,現実的にはなかなか難しい。
押谷 日本での初発例が過疎地のような限られたシナリオなら別ですが,一度国内に入ってしまえば封じ込めは難しく,感染拡大は避けられません。
ではその場合にどう対応するか。アメリカは早期封じ込めを最初から考えていません。パンデミックが起きたときに何ができるのか,シミュレーションを行い,その結果をもとに,2007年にCommunity Strategy for Pandemic Influenza Mitigationをまとめました。「被害をいかに最小限に抑えるか」という視点で対策を行っています(カラー解説図8)。
谷口 幕末期に活躍した兵学者の大村益次郎は「tactics(戦術)を知りて,strategy(戦略)を知らぬものは国を誤る」と言っています。日本はこれまでワクチンやタミフルなどの戦術ばかりにこだわっていて,全体を統合する戦略を怠ってきたと思います。それを,これからつくっていく必要があります。
押谷 現在,新型インフルエンザ専門家会議(議長=国立感染症研究所感染症情報センター長・岡部信彦氏)で基本方針が策定され,それをもとにガイドラインも改訂作業中です。日本も徐々に,パンデミック期の被害軽減に主眼を置いた戦略が検討され始めましたが,まだまだ課題が多いところだと思います。
■戦術を知りて,戦略を知らぬものは国を誤る
「発症者の自宅隔離」という選択肢,その課題
押谷 厚労省は,CDCが示した推計モデル(FluAid2.0)を用いて,パンデミックが起きた場合の医療機関受診者数を予測しています。それによると,全人口の25%,3200万人が罹患すると想定した場合の医療機関受診者数は約1300-2500万人です。しかし,日本とアメリカでは,実際の受診行動パターンがまったく異なりますよね?
川名 現代の日本は,一般に医療に対するアクセスが非常によく,比較的軽症でも病院を受診するという状況に慣れています。新型インフルエンザの流行が始まり,「致死率が高いかもしれない」「タミフル(一般名:オセルタミビル)が足りなくなるかもしれない」など,さまざまな情報が出てくると,病院の受診率は予測より高くなると推察されます。
押谷 そうなると,いくつかの問題が生じます。ひとつは,何千万人もの人がいっせいに医療機関を受診することによって病院機能がパンクし,医療体制を確保できなくなってしまうことです(カラー解説図6)。もうひとつは,川名先生が言われたように,不安に駆られた受診者が増えた場合に,感染者と非感染者が一緒に狭い待合室に集まることによって,感染拡大の理想的な場所になってしまうことです。
谷口 オーストラリアでは,最初から医療現場の混乱を想定し,広大なFever Assessment Centerという施設を設置して,ここへの受診者はすべて抗インフルエンザウイルス薬で治療しようと計画しています。他に考えられる方法は,できるだけ発症者を来院させない,自宅隔離すること(Home Isolation)です。ただその場合,発症者に対して「来院を控えてほしい」と言って治療しないのは,できる話ではないですよね。
押谷 来院を控えてもらうとなると,何らかの手段で感染者に薬剤を配布するシステムが必要です。ただ,今の医療法制上は,医療機関を受診しないと抗インフルエンザウイルス薬を処方できません。これは,専門家会議でも非常に議論のあるところです。
川名 日本はタミフルを2800万人分備蓄していますが,数字上は4人に1人しか手に入らない計算です。そうすると,「早い者勝ち」という感覚が働きます。ですから,全国民分のタミフルを備蓄しておく,あるいは出遅れても平等の医療を受けられる,などの最低限の担保がないと,パニックの原因になると考えます。
専門家会議では,さまざまなアイデアが提案されています。例えば,平時に医療機関を受診すると,タミフルの事前処...
この記事はログインすると全文を読むことができます。
医学書院IDをお持ちでない方は医学書院IDを取得(無料)ください。
いま話題の記事
-
医学界新聞プラス
[第1回]心エコーレポートの見方をざっくり教えてください
『循環器病棟の業務が全然わからないので、うし先生に聞いてみた。』より連載 2024.04.26
-
医学界新聞プラス
[第3回]冠動脈造影でLADとLCX の区別がつきません……
『医学界新聞プラス 循環器病棟の業務が全然わからないので、うし先生に聞いてみた。』より連載 2024.05.10
-
医学界新聞プラス
[第1回]ビタミンB1は救急外来でいつ,誰に,どれだけ投与するのか?
『救急外来,ここだけの話』より連載 2021.06.25
-
医学界新聞プラス
[第2回]アセトアミノフェン経口製剤(カロナールⓇ)は 空腹時に服薬することが可能か?
『医薬品情報のひきだし』より連載 2022.08.05
-
対談・座談会 2025.03.11
最新の記事
-
対談・座談会 2025.04.08
-
対談・座談会 2025.04.08
-
腹痛診療アップデート
「急性腹症診療ガイドライン2025」をひもとく対談・座談会 2025.04.08
-
野木真将氏に聞く
国際水準の医師育成をめざす認証評価
ACGME-I認証を取得した亀田総合病院の歩みインタビュー 2025.04.08
-
能登半島地震による被災者の口腔への影響と,地域で連携した「食べる」支援の継続
寄稿 2025.04.08
開く
医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。