医学界新聞

インタビュー

2008.09.08

ベッドサイドで何が分かるのか
Dr.ウィリスに学んだこと

松村理司氏(洛和会音羽病院院長)に聞く


 病歴と身体所見に基づく臨床診断の重要性を説き,「ベッドサイドでの診断技術は決して時代遅れになることはない」と語るG・クリストファー・ウィリス氏は,日本における卒後臨床研修システムの先駆けとなった,沖縄県立中部病院や市立舞鶴市民病院において,多くの医師を育てた。

 このたび,氏が医学生や若手医師の指導のために作成した通称「ウィリスノート」が,『Dr. ウィリス ベッドサイド診断――病歴と身体診察でここまでわかる!』として発刊された。本書の監訳を務めた松村理司氏に話を聞いた。


「軽薄な頭脳によって検査の洪水が起こる」

――ウィリス先生とは,どのような出会いがあったのですか。

松村 ウィリス先生の存在を知ったのは1983年です。当時,沖縄県立中部病院の呼吸器医長でおられた宮城征四郎先生(現・群星沖縄臨床研修センター長)のベッドサイド回診の研修に,2か月ほど行っていたときでした。ウィリス先生は1975年からの5年間,同院で後進の指導にあたっていたのですが,私が研修に行ったときには,既に去られて数年が経過していました。

 宮城先生からは,ウィリス先生のように病歴聴取と身体診察をしっかり行うことで,確実な診断に早くたどり着き,不必要な検査を省けることを教わりました。ベッドサイド回診のときには,「君たちのその軽薄な頭脳によって検査の洪水が起こる」「ウィリス先生がベッドサイドで君たちを指導してくれれば,もっと簡単に診断にたどり着くことができて,医療費5兆円の節約になるんだよ」と言われました(笑)。

 そのときにはすでに,『Dr.ウィリスベッドサイド診断』のもとになった「ウィリスノート」の原型のようなものがあり,コピーして皆で読みました。

 その後,私は京都の市立舞鶴市民病院に医局長として赴任が1983年8月に決まり,その翌年にかけて1年間弱,アメリカに留学しました。そのときに,カナダのモントリオール総合病院の救急室に勤務していた“幻の名医”であるウィリス先生のもとを訪ね,数日間滞在しました。先生は当時61歳で,将来はどうされるのか尋ねたところ,もう少し医師をしていたいということと,アジア,アフリカで何がしか影響を与えられることができればうれしいと話されました。

 当時,私は舞鶴市民病院に,本格的なベッドサイド診断のできる優秀な臨床医かつ教育者が必要だと思っていました。ですから,「沖縄県立中部病院はもう立派に成長したので,市立舞鶴市民病院のようなところにこそ,ウィリス先生の活躍の場があります」と言ったんですね。当時は本当に実現できるとは思っていなかったのですが,日野原重明先生(聖路加国際病院理事長)の口添えもあり,ウィリス先生を半年間の予定で招くことができました。

原点はジャングルでの“伝道医療”

松村 ウィリス先生は,病歴聴取と身体診察(=history taking and physical examination:H&P)によって診断に至るという,非常にオーソドックスな医療をなさっていました。その先生が,なぜアジア,アフリカ志向なのかというと,ご家庭が代々熱心なクリスチャンで,父親も生計を別の道で得ながら伝道しており,先生は上海で生まれ育ったそうです。その影響で,ご自身も医師として生計を立てながら伝道を行っており,アジアやアフリカでの伝道活動にも関心があったのです。

 以前は,マレーシア領のジャングルに8年弱滞在し,自分ひとりだけが医師であるという,いわば伝道医療を行っていたと聞きました。そこで,医療水準を欧米並みにするにはどうしたらいいかを考え,H&Pと,ごく簡便な検査だけで診断にたどり着くという方法論を確立されたのだと思います。

――この本にウィリス先生の診察七つ道具がありますが(写真),これで診察・診断ができるということですね。

松村 必要最小限の簡単な診察道具というわけですね。病棟の片隅の小さなスペースに各種の試薬が置いてあって,尿検査などを行うのです。ジャングル医学の成果ともいうべきその簡便な検査方法については,もう絶版になりましたが,『救急室で役立つ臨床検査の実際』(G.C.ウィリス著,宮城征四郎・平安山英達訳,医学書院)という書籍が発刊されています。

魔法を見ているようだった

松村 市立舞鶴市民病院は,「300床以上の施設」という当時の臨床研修指定病院の要件を満たしていなかったこともあり,教育を重視する土壤ができていないと感じていました。そこで,まずは私が責任者を務めていた救急室と内科において,若い医師の教育を始めました。そうするうちに,冬は雪が降って非常に寒い日本海沿岸にある人口10万人の土地に,一般内科でのH&Pを診断の要にする方法を学びたいという人たちが,全国から集まってくるようになりました。

 ウィリス先生には,当初予定していた6か月を延長して,1990年4月まで,結局延べ4年数か月指導にあたっていただき,非常に多大な足跡を残してくださったと思います。

――印象に残っているエピソードは,ありますか。

松村 診断の妙味ということが第一ですね。鑑別診断の幅が非常に広い。間口が広く,しかも奥行きが深いのです。

 市立舞鶴市民病院に来られた翌日の回診で,診断をつけられずに困っている症例について,卒後2年次の研修医がプレゼンテーションをしたときのことです。ナースステーションで患者さんの病歴を述べ,「何らかの血液疾患が想定されるので,今日腹部のCTを撮る予定です」と話しました。それを聞いたウィリス先生は,「それは典型的な脾臓の破裂(splenic rupture)だ。自信がある」と言うのです。

 先生は,まだ患者さんを診ていないのです。私たちも,患者さんから「お風呂でふらっとした」ということは聞いていたのですが,脾破裂はまったく想定していなかったので,非常に驚きました。そこで患者さんを診に行ったところ,やはり左胸腹部に傷があるのです。それで,このときの打撲で脾破裂が起きたのだと分かりました。患者さんの病歴を聞いて,こちらが想定もしていない断片から1つの道筋をつくっていく様子を見て,何か魔法を見せられているような気がしました。

 ウィリス先生はよく,「なぜ検査の前に,自分自身のbrainを使わないのか」と言っていました。われわれは,「もうこれ以上取れない」というほどのH&Pを行っていますが,一方のウィリス先生は,たとえ一度もその患者さんを診ていなくても,ベッドサイドへ連れて行って,研修医が英語で病歴と身体所見を述べただけで,われわれの診断とはグッと違う方向に持っていくのです。まさにホームランバッターです。そういうことを何回か経験して,検査の前に診断が成り立つことを実感しました。

 このように,特にはじめの頃は,われわれのH&Pのレベルが相対的に低かったということもあって,H&Pの力を使って,臨床の場で魔術のように正診に至る様子を見せつけられました。飽きるということがない日々でしたね。私自身,まだ35-40歳ぐらいで,もともと胸部外科医だったので,一般内科学を学びたいと非常に強く思っていたときでした。

 H&Pが大事だというのはよく言われますが,実際にその大切さを実感するのは難しいと思います。例えば,心臓の第3音や第4音も,薬や自然経過によって数時間のうちに消えてしまうことがあるので,研修医のフットワークと,指導医の適切な場所と時刻をわきまえた指導がないと,容易に見過ごされてしまいます。ですから,臨床現場での点検,確認,肯定,場合によっては否定などが適切になされなければ,身体診察の妙味に生涯触れることがないまま,すぐに検査志向になってしまうのではないでしょうか。

――一緒に患者さんを診て,身体所見の重要性をリアルタイムで実感しなければ,なかなか腑に落ちないのですね。

松村 そうですね。それと,病歴をもとにした所見を想定していないと,たとえ異常所見があったとしても見逃してしまいます。これらは「身体診察前確率」の推定を行うという作業です。有能な臨床家,あるいはH&Pに強い人は,身体診察を行う前に,病歴聴取だけで想定できる疾患を頭に描くことができるのです。

 ベテランが持つそのあたりの妙味は長年の臨床経験に基づいているため,それをマスターしている人にしか教えられないものです。生涯のなかのどこかの時点,できるだけ若い時代に,「H&Pはこんなに役に立つ」ということを経験すれば,「自分はもっと修業しなければならない」ということが分かるのだと思います。

■日常診療の下支えとしての総合診療医の機能

――松村先生は,院長という立場で,やる気のある医師が集まり,いい医師を育てる教育環境を整えるために,どのようなことをなさっていますか。

松村 音羽病院は588床の病院で,そのうち急性期病床が428床です。専門科が28科あるので,研修するにはいい規模の病院だと思います。

 卒後3年目以降は,大半の人が専門医の初期段階である専門コースに進みますが,専門性を深めるためには,一般に大学病院や1000床クラスの病院の方が向いていると思います。一方,当院は,総合診療や一般内科,救急を生涯にわたって目指していきたい,もしくは若い時期に幅広い症例を経験しておきたいという医師が学べる環境が整っていると思います。

院内外における“出前診療”

――音羽病院では,“総合診療医による出前診療”というユニークな取り組みを行っているとうかがいました。

松村 当院の総合診療科は,現在卒後6年目以上の総合診療医が14名,後期研修で主として総合診療をやりたいという者が9名,合わせて23名の大所帯です。その大きな部隊を5名ずつ4チームに分けて,そのうちの1つのチームを,2年ほど前から院外に“出前”に出しています。

 この背景には,昨今の医師不足という問題があります。当院の多くの科の部長・副部長・医長など中堅以上の医師は,いくつかの大学の医局から派遣してもらっています。400-500床規模の病院の場合,自前で職員を充足できることはまずないのですが,現在はこの医局からの派遣が円滑に機能しなくなっています。これは当院も同様で,各科が手薄になってしまいました。その上,それぞれの科が専門医と若手医師もしくは研修医で構成されているため,各診療科の互換性がないのです。

 その対策として,総合診療科がその下支えに入ることになりました。例えば血液疾患の場合,入院患者さんの主治医を総合診療医が担い,血液専門医はコンサルテーションに専念しています。脳外科も2名体制になり,オンコールと手術に手一杯なので,術後の遷延性意識障害の患者さんはすべて総合診療科で診ています。

 そして,その延長として,同じ洛和会グループの丸太町病院へ“出前”を行っています。同院は170床の病院なので医師不足が如実で,内科系がほぼ壊滅状態になったのです。それで,2年ほど前に当院から2人移ったのですが,今は総合診療科から1チームを出前しています。

 丸太町病院規模の場合,自分の専門外の症例は大きな病院に送ることになります。ジェネラリストとスペシャリストとの“握手”ということがよく言われますが,ジェネラリストが握手をしようにも現場にはその相手が少ないので,自分たちで幅広く,かつ深く診なければならないし,診ることができます。また各科の専門医療にうまく溶け込み,信頼を得るためにも,総合診療医は臨床的実力をしっかり身につける必要があります。当院では,チームごとに屋根瓦式教育を行っています。

 特に小,中規模病院では,以上のような役割を果たす総合診療医の必要性が全国的に求められているのではないでしょうか。今年6月に出された「安心と希望の医療確保ビジョン」においても,「総合的な診療能力を持つ医師の育成」が課題として挙げられていました。このことは以前から言われていますが,それが効率よく陸続と展開されているようには見えません。本当にできる人がどれだけいるのか,あるいはそういうものをつくる体制がどれだけあるのかが,課題だと思います。

 新医師臨床研修制度においても,病歴をきちんと取る,身体診察をきちんと行うということではまだまだ不備があり,きちんと展開される兆しがないことを残念に思います。やはり,教育できるほどの力のある人が限られているという現状もあるのだと思います。

 当院では,卒後10年目前後の若手医師が,数日から1週間にわたって,一般病床200-300床規模の研修病院に招かれるようになってきました。これが「院外出前」です。朝6時半から夜9時,10時まで毎日,それこそ小型のウィリス先生のように教育的手腕を発揮し,ベッドサイドでの技を披露しています。「へとへとになりました」と言いながらも,非常に楽しそうにやっています。

“First, God. Second, family. Third, medicine.”

松村 ウィリス先生は非常に優れた名医でしたが,欧米における名声はありません。あれだけの能力を持った人なので,そういう道を歩めば,名のある人になったと思います。しかし,“First, God. Second, family. Third, medicine.”というのが,先生の信条でした。したがって,17時には医学を全部忘れる。朝,始業時刻に来て,そのときから職業としての医師が始まるのです。

 われわれが夜遅くまで残っていると,「その時間は,家族とともにあるべき時間だ。医学を混在させてはならない」と言われました。しかし,あれだけ完璧な医療を提供しようとする人が,17時以降に医学のことを考えずにいることが本当にできるのかと思いましたね。実際,ご自宅にうかがったときに見た書斎の机には,数冊の辞書と『ハリソン』があるくらいで,他には何もなかったのです。にもかかわらず,頭の中は常にクリアで,「どうなっているのだろう?」と思いました。

 彼は聖書もまた,当然だけれども頭に入っていて,聖書をめぐって,誰とどのような議論をしたか,例えば「その議論は,23年前の何月何日に誰としたけれども,自分はそれに対してこう主張した」ということを覚えているのです。

 また,「年をとると認知症になってくるので,自分がきちんと判断できるうちに医者を辞めなければいけない」と言っていました。ウィリス先生が舞鶴市民病院を去ったのは66歳のときでしたが,それを機に医者を辞めると聞きました。これ以上医者を続けると,人類に対する冒涜であると。ただ1996年にウィリス先生のもとを訪ねたとき(写真)には,「NEJM」の最新号がどこかにありましたね(笑)。何か勉強しているな,という感じはありましたが,医師活動をしているというわけではないのですね。

 17時まで医学をするけれども,それからあとはファミリーと神の時間なのだということを,生涯を通じて本当に展開されたという感じがします。

 ウィリス先生が日本を去って18年が経ちました。本書がもっとup to dateなものを扱うような学問内容でしたら,古すぎて役に立たないということになります。しかし,H&Pは普遍的なものであり,命は長いと思います。長く愛されることを願っています。

(了)


松村理司氏
1974年京大医学部卒。同年同大結核胸部疾患研修所胸部外科,75年国立療養所岐阜病院勤務,77年国立がんセンターにて研修,78年京都市立病院呼吸器科勤務。83年沖縄県立中部病院,83-84年米国バッファロー総合病院,コロラド州立大病院にて研修。84年市立舞鶴市民病院内科勤務。91年同院副院長。2004年より現職。

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