医学界新聞

寄稿

2008.08.11



【特別寄稿】

『免疫学の巨人 イェルネ』を読む

矢原 一郎(医学生物学研究所)


ニールス・カイ・イェルネ(Niels Kaj. Jerne, 1911-1994)
 1911年デンマーク人の両親のもとロンドンで生まれる。バナナ会社勤務,ライデン大物理学部卒後,医学を学ぶことを決意し,34年にコペンハーゲン大医学部に入学。43年,デンマーク国立血清研究所に秘書として入り研究を進め,抗体形成理論により国際的に評価される。56年にWHO,その後米国ピッツバーグ大微生物学教室主任教授を4年間勤めた後,バーゼル免疫学研究所の開所に携わり10年間所長を務める。84年,モノクローナル抗体の作製法を開発したセザール・ミルシュタインおよびジョルジュ・ケーラーとともに,免疫制御機構に関する理論の確立でノーベル生理学・医学賞を受賞。免疫学の「巨人」として名高い。


■世界を揺るがした免疫学者 イェルネの謎

自己演出にかけた科学者の物語

 著者によると,イェルネは,肺腺癌の病床においても,死後の名声がどうなるか非常に気にしていた。著者が,この本の書名を『逃れようとする何たる抗い』としたいと言うと,気に入らないという。イェルネは,「ジョン・キーツの詩から取ったのでは」と,「そうです」と著者。「その前の行は,『狂おしい何たる追求』だね」とイェルネ。「そうです」と著者。「それは,フランシス・クリックの自伝の書名だな」。「そうです」。著者のいぶかるのに対し,イェルネは「クリックの後塵を拝するのはごめんだ」と,はっきりと言った。

 死の2か月前。これが,イェルネと著者の最後の会話となったという。

 まさしく本書は,どこまでも自己演出にかけた科学者の物語であり,いろいろな読み方ができる。

 例えば,女性遍歴だけとってみても,並の物語ではない。イェルネのサイエンスが開花したのは,芸術家であった妻チェックが自殺してからであるが(1945年10月),彼女はイェルネの心の伏流となって,最後まで彼の生き方を支配した。イェルネの長男イヴァールによれば,イェルネは「チェックは天才だった」といい,同時に「私もただ者ではない」と回想していた。

 一方で,イェルネはチェックの友人である既婚者アッダとの情事に,「支配する」(実際のSM的な意味も含めて)よろこびを見出していた。その後,イェルネはアッダと再婚し(公的な記録はないが),マックス・デルブリュックが君臨するCaltechで一年間過ごした(1954年8月)。

 16歳のとき,ロッテルダムで,ジャニンに夢中になって以来,イェルネは一貫して性的な面では,ありふれた言い方をすれば,奔放であった。ただ,これもイェルネが自己を演出した結果と思われるふしがある。

 ちなみに,イェルネはその生涯にわたって,手紙やメモなどを何百ものスーパーマーケットの袋に入れて屋根裏部屋に保存して,自伝を書くために用意していた。もちろん,著者もこの資料を使わせてもらったが,抜けていたところがあった(イェルネが意図的に捨てた)。イェルネの女性関係と彼のサイエンスとの相関は,面白い分析対象ではあるが,私の最大の関心対象であるサイエンスそのものの問題に触れなければならないので,これ以上深入りは止めておく。

キェルケゴールに強い影響を受ける

 さて,イェルネが「抗体の選択説」の親であることは,だれもが知っていることである。イェルネがこの説を想起したのは,1954年3月の夕方,コペンハーゲンの国立血清研究所からアマリエの家に戻る途中(クニッペル橋を渡っているとき)ということになっている。これは,1966年デルブリュックの還暦を記念してコールドスプリングハーバー研究所から出版された“Phage and the Origins of Molecular Biology”にイェルネ自身が書いていることである。この芝居がかった発見物語も,3月ではなくもっと後(8月)でないと辻褄の合わないことが明らかになり,イェルネ本人も認めたという。なぜ,時期を早めにしたかというと,選択説のアイデアが,デルブリュックの研究室に加わってから生まれたのではないことを,はっきり示したかったのだという。そうして,Pasadenaに発つ前に,イェルネは「抗体の選択説」を記した書類を机の引き出しに入れて,「遺書」として保管した(遺言執行人として,上司であったO.モーレーとデルブリュックを指定した)。デルブリュック還暦記念のイェルネ論文の文頭には,セーレン・ケルケゴール(キェルケゴール)の「哲学的断片」の考察を引用してある。この本から離れて,ケルケゴールの本によって以下,説明する。

 

 ソクラテスは「メノン」の中で,「人は既に知っていること(真理)を求めることはできない。なぜなら,知っていることはもう知ってしまっているのだから,これから求めることはできない。また,知っていないことは何を求めるべきかを知らないはずだから,やはりそれを求めることはできない」という論争家好みの命題に対して,答えを出した。すなわち,「無知なる者にとって必要なことは,自分が既に知っている事柄を自分の力で思い出すことができるようにその想起を促してもらえさえすればよい」のだと(以上,ケルケゴール著作集6,「哲学的断片」,大谷愛人訳,白水社より抜粋引用)。

 

 イェルネは,デルブリュック記念論文で,この「真理(truth)」を“the capability to synthesize an antibody”と置換して,上のソクラテスの説明を,抗体の選択説の論理的基盤と考えられると述べた。

 イェルネは若い頃,コペンハーゲンの芸術家サークルに出入りしている頃に,ケルケゴールの哲学に触発されたという。出来すぎた話であるが,いいとしよう。

抗体の選択説発見の基盤

 イェルネの「選択説」の基盤は,国立血清研究所で,WHOからジフテリアと破傷風のトキソイドの国際基準を決めるという課題を与えられたときから育まれたと思われる。まず,抗毒素血清の希釈と毒素との沈殿形成の関係から,抗毒素は毒素と反応するとき多価物質であるとの結論になった(これ自体はイェルネのオリジナルではない)。次に,免疫を2回,3回と繰り返すたびに,血清の力価が大きな増加を示したことである。

 イギリスの研究者J.B.ホールトは,2回目以降の免疫反応は,既に貯蔵されていた抗体の遊離によるとの説を主張していた。しかし,イェルネは1回目の免疫で出現する抗体も,既に貯蔵されていたものであるという考えに傾いていった。イェルネの学位論文は,高度な統計学的処理によって解析されたジフテリア毒素と抗毒素の反応についてであった(1950年8月)。しかし,イェルネは国際標準化の仕事から距離を置きはじめ,バクテリオファージの研究に熱中していった。

 バクテリオファージの研究は時代の流れであり,モーレーもデルブリュックの研究室からコペンハーゲンの研究室に導入した(1949年)。直ぐに,22歳のジム・ワトソンと26歳のG.ステントが加わった(1950年10月)。共に狷介なステントとイェルネの交流はイェルネの晩年まで続いた。イェルネは,T4ファージ抗血清の中に,ファージを不活性化する抗体だけでなく,逆に活性化状態を維持する因子の存在に気付き,それもまた抗体らしいと考えた。この可能性は,この因子もT4ファージ免疫によって1000倍にも増えたという結果によって確信に変わった。つまり,抗体は生体防御(ファージを不活性化する)のために生産されるのではなく,化学反応として生産されることを理解した。また,ウマの正常血清中にも少量だが活性化因子(特異抗体)があることも見出した。ここから,「抗原はそれと反応する抗体を選択し,増やす」(イェルネの記述にしたがえば,抗体分子を増やす装置を備えた細胞に運ぶ)というアイデアが生まれた。これらは,イェルネの思想の根幹にかかわる部分であるが,彼がおそれていたように,T4バクテリオファージ・スクールの影響を強く受けていることが分かる。

 イェルネは理論家肌だと思われているが,一方では見事な実験データを出し,その解釈に圧倒的な非凡さを見せた。血清の標準化問題(希釈効果)やバクテリオファージの不活化実験などは,ほとんど網羅的にデータを蒐集してロジカルに結論を導き出した。この傾向がもっとも見事に発揮されたのは,「イェルネのプラークアッセイ」である(1963年5月)。これは,特殊な抗体を産生する一つ一つのリンパ球を溶血プラークとして検出する手法で,免疫学ではもっともエレガントな実験として知られている。

ダーウィニズムの支配への抗い

 最後に,本書を読んで感じた,いささか不思議な印象について述べたい。現代免疫学の基盤を成す「抗体の選択説」を提唱しながら,イェルネは,「彼の説の出発点を理解するのにダーウィニズムは重要でない」と言ったという。本書ではわずか3ページしか割いていないが,この問題は掘り下げてみる価値がある。1970年代の前半,私のボスであったジェラルド・エーデルマン(本書にも何回か登場する)は,イェルネと極めて親しく,また畏敬していたが,一貫してダーウィン2世(彼の研究室が作製したオートマトンがダーウィン3世)と自負していたのと対照的である。晩年のイェルネはチョムスキーの生成文法理論と抗体レパトワ形成の類似について論じたが,論理的な連関に敏感なイェルネがダーウィンを論じなかったのは,最初の妻チェックの支配から逃れようとしながら,結局逃れられなかった生き方と同じように,その思考が常にダーウィンに支配されていたためと想像できる。

 この点をさらに深追いして論ずれば,抗体の多様性形成の仕組みは,ダーウィンの選択説の範疇には含まれるものの,イェルネの選択説をもう一歩超えた原理に基づくことは,現代の免疫学が明らかにしたことである。すなわち,抗原と反応する抗体分子の部位(CDR領域という)は抗原刺激によって体細胞突然変異を頻繁に起こし(somatic hypermutation),その中から抗原との反応がもっとも適合したものが選択されるという,合目的性をもったメカニズムによって支配されている(このプロセスをaffinity maturationという)。イェルネの「既にあるものが選ばれる」というのは第一の原理であって,「選ばれるべき部位の多様性は後天的に付与され,選択の幅を広げる」という,まさに<適応>というダーウィンの選択説そのもののような原理が働いていることは,イェルネにとって不愉快なものであったと思われる。指令説に対するイェルネの選択説の勝利を決定づけたのは,まさしくワトソンとクリックたちが先導した分子生物学であったが,イェルネの選択説は,遺伝情報は変化しないという枠組みの中で精彩を放つものの,高親和性を有する真の意味での生理的意義を持つ抗体がどうやってできあがるかについて,言及することができなかった。芸術家のように絶対を求めるイェルネにとって,選択説の幅が自説の枠を越えることは,彼に不機嫌な晩年をもたらした。

 本書は,イェルネの人間を見事に描き出しており,数百のスーパーマーケットの紙袋につまったイェルネ自身が集めた資料が生きた結果である。それは,イェルネの思惑にはまった感がする一方で,著者が意図的にはまったとも思える。医学の原点である免疫学に興味がある人が,考えながら読む本としてはこれ以上のものは極めて稀である。


矢原 一郎氏
1966年東大理学系大学院博士課程修了。東大医科学研究所助手,ロックフェラー大学Research Associate,Assistant Professorを経て,76年東京都臨床医学総合研究所に移り,2000年より医学生物学研究所伊那研究所長。専門は細胞生物学。

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