「医療事故調」自民案への危惧(近藤喜代太郎)
寄稿
2008.04.28
【投稿】
「医療事故調」自民案への危惧不可抗力事故の処理は速やかに社会化すべきである
近藤 喜代太郎(北海道大学名誉教授)
医療崩壊が進んでいるが,過労とともに事故処理のあり方が最大の要因である。司法が傲然と医療を見下げ,厚労省が露を払っている――。そんなふうにひがみたくなる自民党案「診療行為に係る死因究明等について」が昨年11月30日に出された。全文はあちこちからダウンロードできる。今回の案*は,極論すれば「司法の下請け」にすぎず,中立な制度を望んでいた医療界を裏切るものである。このままでは救急や地方病院など,過労のうえ,リスクのある医療を担う医師はいなくなり,「崩壊は決定的になる」という医師もいる。
しかし,こんな案が出されたのは,医療をよくするためというより,医療事故を憎む国民の顔色をうかがっているためかもしれない。委員には患者・遺族の立場を代表する者も入っている。「処罰は謙抑的に」という,立案議員らの善意は疑わないが,ひとたび運用されればどうなるかわからない。ただ,医療界も説明責任,自浄作用を疑われた点は反省すべきであり,医療界にとっても「ないよりはあるほうがよい制度」として運用されるよう協力し,かつ理論武装すべきだ。
気づいている医師は少ないが,「改正検察審査会法」はもっとひどい。2009年から,検察が不起訴にしても,市民から選ばれた11人中8人以上の賛成で弁護士が起訴できるようになる。
私は最近,『医療が悲鳴をあげている――あなたの命はどうなるか』(西村書店)を出版し,医療崩壊をめぐるさまざまな問題を体系的に論じた。詳しくは同書にゆずり,以下,ポイントを絞って,目下の問題点を考える。
不可抗力事故の処理は社会全体で保障すべき
医療事故には2大類型がある(表)。「医療過誤」は医療側も認めるミス,不作為があり,それと因果関係のある事故による患者の死傷で,善意でも処分は免れない。例えば,ガーゼの置き忘れがこれに当たる。
表 医療事故の二大類型(『医療が悲鳴をあげている』108頁より) | ||||||||||||
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一方,それより数の多い「不可抗力事故」は同書64頁以下で詳述したように,医療がいまだ不完全で,不測の点が多い将来への賭けであるための事故である。それは注意しても一定の確率で起きてしまう。医療に内在するリスクであり,予防・対策は医学の進歩を待つほかない。この種の事故は,リスクをはらむ「医療行為」によって健康を守ることの「社会的コスト」であり,医療側に責任はない。
例え話をすると,雪山には楽しみとともに,雪崩などさまざまなリスクがある。「不可抗力事故」とは,リスクが顕在化した雪山で遭難した人を助けるレスキュー隊が最善を尽くしても力が及ばず,遭難者が死亡したような場合である。一方,「医療過誤」はロープを正しく締めず,ヘリで吊り上げた遭難者を墜落死させたような場合に当たる。しかし,現在の医療事故処理は,医学知識に乏しい警察官,裁判官が事故後すぐかかわるため,先天異常から脳性小児麻痺まで,主治医の医療過誤が追及される恐れがある。
「医療事故調」に求めるべき第一の任務は,医療過誤と不可抗力事故の峻別だ。後者については,医療側は免責すべきだ。しかし,そういうにはあまりに患者の損失が大きいので,「無過失補償制度」が必要である。前記書で筆者は,処理を健康保険の契約とし,医療の恩恵を受けた多数の人々が,事故にあった少数の人を支えるしくみを提案した。ただし,医療費を少し上げる必要はある。
医療裁判への疑問
裁判は大切な仕組みだが,医療裁判には納得できないことが少なくない。
第一に,表の事実に配慮せず,「結果が悪ければ,医療のなかに悪いことがあるはず」との前提に立つことだ。医療の本質への無知から来たものだ。
第二に,「医療水準論」である。最近,「患者は最“高”の医療を受ける権利があり,主治医がその義務者」といわんばかりの判決が多いが,法的根拠はあるのか。憲法第25条は健康で文化的な最“低”限度の生活を営む権利を保障し,その努力義務者は国としている。筆者は,医療水準論は違法と考えている。医師を罪に落としてでも補償させるため,有責の範囲をムリに拡げるものではないのか。置かれた条件でベストを尽くした医療をみだりに違法とするのは,「そこにも患者がいるから」という人道的立場で地方病院勤務をする医師や,救急を担う医師を愚弄するものだ。
医療裁判のその他の問題点は,前記書に述べた。過労に耐え,使命感だけで働いているのにこのありさまでは,社会が医療を守っているとはいえない。「逮捕,裁判になってからでは遅い」「リスクのある現場は早く去るべきだ」となってしまったのは当然である。
医事法制はこれでよいのか
医療基本法が必要とされている
「医療は債務である」といわれれば,あ然とする医師は多いと思う。しかし,不完全な医療はその不履行となり,自動的に賠償義務を生じてしまう。医事を直接に規定した条文もあるが,医事法制は万事,この調子で既存の条文を医事のさまざまの側面に流用し,寄せ集めたものだ。驚くべきことに「医療とはなにか」「医療は国家のなかでどのような位置にあるのか」といった総論がまったくない。
こんな医事法制を学んだ裁判官らにロクな医療裁判ができないのはもっともである。国民の健康を実際に守っているのは医療であって,司法でも厚労省でもない。成文法の国では法を預かる人々は,紙に書いた法令を至上と錯覚し,医療を見下げた態度をとるのではないか。
医療はGDPの10%を費やす巨大な社会的存在になったのに,いつまでもゴタゴタが絶えない。医師らは「医療は国民生活の根幹」と思って努力しているのに,そう思わない勢力も多くなった。医療の本質に触れるような重大な変更が,厚労省の吏員の恣意で,その時々の社会経済情勢でやすやすと行われ,医療が翻弄される。
こんなことでよいのか。病院勤務医の大半は辞めたがっている。もし,アメリカ人の4割という無保険者によい医療を,ということになれば膨大な医師需要が生じ,日本からも多数の“頭脳流出”となるかもしれない。
医療とは? 患者とは? 医師とは? 基本的なことを規定した基本法が必要なのではないか。そして,患者だけではなく,大切な任務を果たす医療人を等しく護る仕組みが必要である。
*その後,2008年4月3日に,厚労省から「診療行為に関連した死亡の死因究明等の在り方に関する試案 第3次案」が出された。
近藤喜代太郎
1959年東大卒。84年北大教授(公衆衛生),97年放送大教授。厚生省(当時)の多くの調査研究班員,EUヤコブ病に関する疫学委員会委員,世界神経学連合・疫学委員長なども歴任。長年,主に疫学の立場で神経疾患を研究。 |
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