医療安全を育む文化は醸成されたか(高久史麿,石川雅彦)
対談・座談会
2008.02.18
【対談】医療安全を育む文化は醸成されたか |
高久 史麿氏(自治医科大学学長 医療の質・安全学会理事長)
石川 雅彦氏(国立保健医療科学院 政策科学部長) |
1999年,国内で医療事故が相次いで発生したことなどを契機に,より安全な医療の実現に向けた取り組みが本格化した。以後,年々,国民からの医療の質に対する要望も高まっているが,安全性の確立こそがその質を担保する最大のファクターといえるだろう。
これまで,法整備や医療安全情報の集積をはじめとするさまざまな試みが続けられているが,医療者のあいだに医療安全を醸成する文化は確実に根づいているのだろうか。また,日々,高度化する医療のなかで,医療安全のリーダーやスペシャリストをどう育てていく必要があるのだろうか。
本紙では医療安全の現状を検証する目的で,2005年に設立された「医療の質・安全学会」理事長の高久史麿氏と医療安全教育の第一人者である石川雅彦氏による対談を企画した。
“To Err Is Human”,患者取り違え事件を契機に
石川 近年,医療安全が社会的な問題として捉えられるようになり,医療安全の視点から医療の質を高めるさまざまな取り組みが続けられています。
本日は,学会そして大学のトップのお立場から医療安全推進に携わられている高久史麿先生に,現在までのわが国における医療安全に向けた取り組み,そして今後求められていく事柄についてお話をお伺いしたいと思います。
まず,これまでのわが国における医療安全に関する取り組み,文化の醸成についてどうお感じになっておられますか。
高久 私自身が患者を診ていた頃には,医療の質や安全について,語られることはほとんどありませんでした。
転機は横浜市立大学附属病院の患者取り違え事件の発生年であり,米国の医学研究所(IOM: Institute of Medicine)医療の質委員会から“To Err Is Human: Building a Safer Health System”が発行された年でもある1999年ではないでしょうか。ちょうど時期が重なり,メディアが医療事故のことを大きく取り上げるようになって,厚生省(当時)もさまざまな対策を開始しました。
その後,2005年に“Five Years After To Err Is Human-What Have We Learned?”という有名な論文が“JAMA”に掲載されましたが,このなかに「“To Err Is Human”が発行されるまでは,医療安全が語られることはあまりなかった」という記述がありました。それまでは診断と治療がmain issueで,その後に医療安全が加わったと。そう考えると,この約10年で,ずいぶん風土は変わったのですね。
石川 エラーなどの有害事象の原因を個人からシステムに,事故対策もリスクマネジメントからセーフティマネジメント,クオリティマネジメントという視点に変わってきました。
高久 当然のことに気がついたともいえますね。個人を追及しても防止策にはつながりませんからね。やはりシステムから修正して,全体の質を高めていく必要があるでしょう。
石川 システムにはソフト・ハード両面の問題がありますが,さまざまなファクターが関連してきますね。
高久 医療安全には,医療に関わるすべてのファクターが絡み合っています。
看護師の労働環境に関しても,IOMのナースの労働環境と患者安全委員会から,“Keeping Patients Safe: Transforming the Work Environment of Nurses”が2003年に発行されました。このなかでも,看護師が忙しすぎると医療事故が起きると指摘されています。やはり絶対数としてのマンパワーがないと難しいですね。
そう考えると,現在の医療費抑制政策のなかで,安全対策を実施するというのは難しいですね。
石川 2006年の診療報酬改定において医療安全対策加算が新設され,それに伴って,医療安全管理者の業務もクローズアップされてきています。
高久 しかし,額については十分とはいえないですね。300床規模だと,加算で得られる額は月に20万円くらいだそうです。そうすると,専任を1人雇えるかどうかですから。段階的に整っていくのでしょうが,もう少し集中的に評価をしてくれないと,安全な医療の保障は難しいですね。
いまのように,病院経営そのものが厳しく,過酷な医療現場である病院から医師がどんどん逃げ出しているような状況では,かなり大変です。ソフト・ハードともにシステムをしっかりするということになると,お金がかかります。それで現場が困っていますね。
石川 人間はエラーを起こすということを前提に,可能な限り,事故を未然に防止するシステム構築が運輸や製造などの業界では行われています。同様の考え方を医療に取り入れて,エラーの誘因となることをなるべく減少させる取り組みが求められています。
高久 鉄道に置き換えてみると,JR西日本の福知山線で脱線事故がありましたが,新幹線では脱線事故はないですよね。だけど,新幹線の安全運行のためには在来線の数十倍のコストをかけてシステムを構築しているでしょう。このように,安全の実現のためには,お金がかかるものなんですよ。
石川 事故防止のためのシステムの問題,それにかかるコストの問題は,今後,大きく議論されていくことになりそうですね。
高久 そうです。コストについて議論しないで,安全だけを求められても,それは医療者にとって負担になるばかりです。もちろん,教育や心構えは必要だけれども,精神論だけで防ぐのは,やはり無理です。それこそ,竹槍でB29にはむかうようなものですね(笑)。
このことについては,国民にもよく理解していただき,コンセンサスを得ることがひとつの課題だと感じています。
わが国における医療安全に関連する主なできごと | ||||||||||||||
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*=医療法施行規則改正 |
“日本版100Kキャンペーン” いのちを護るパートナーシップ
石川 高久先生は,2005年に設立された「医療の質・安全学会」の理事長を務められています。学会発足のきっかけについてお聞かせいただけますか。
高久 2004年に医療安全をテーマにクローズドのシンポジウムを開催しました。わが国の医療安全研究の第一人者である東北大学の上原鳴夫先生をはじめ医学・看護関係者,薬学や工学関係者など30名ほどでディスカッションを行いました。このシンポジウムが学会発足のきっかけになっています。
先ほどのコストのお話に関連しますが,医師だけが「医療安全実現のためには,経費の担保が必要である」と声高にいっても理解は得られにくいので,学会をつくり,システム工学などさまざまな分野の方に入っていただき,学際的な研究のなかで国民に理解を求めていくことも必要だと考えたのです。
石川 昨年11月に行われた第2回学術集会も非常に盛況でした。
高久 最近は,産科や救急など安全な医療の提供体制に関する問題が山積して,国民共通の関心事となっています。
学会の名称となっている「医療の質・安全」というキーワードは,医療の問題をすべてカバーします。研究者の集まりではありますが,実地に役立つさまざまな提案をしていく,研究成果を社会にプロポーズしていく,ということを大きな使命としています。
学術集会でも,医療者,他領域の専門家やメディア,患者・市民団体まで多彩な分野から集まって学際的なディスカッションや提言を行いました。
最新の取り組みとしては「いのちを護るパートナーシップ」キャンペーンを今年5月から来年12月まで行うことを決定し,準備を進めています(関連情報)。
米国では,医療の質改善研究所(IHI:Institute for Healthcare Improvement)が主導し,「10万人の命を救えキャンペーン(100K lives campaign)」を全米で展開しました。医療過程で生じる有害事象による死亡者をできるだけ減少させようという呼びかけに3100施設(急性期病床数の78%に相当)が応じ,自主改善に取り組みました。
石川 この日本版の100Kキャンペーンは,今後,どのような展開をお考えですか?
高久 「いのちを護るパートナーシップ」は,有害事象による死亡者の1万人削減という目標を立て,病院から医療事故による死亡を減らす運動です。日本医師会や日本病院協議会など各種の団体や各病院,行政そして地域社会にも広く自主的な参加を呼びかけます。日本医学会も協力します。
今後求められるシステム,教育のありかた
石川 先生は,自治医科大学の学長をお務めです。医療者に対する医療安全教育に関してはどのようにお考えでしょうか。
高久 学生は,あまりにも覚えなければならないことが多くて,それに追われているのが現状ですし,研修医として,患者を受け持つようになって初めて,医療安全の意味を実感するものです。やはり患者に責任を持つようにならないと。学生のときの臨床実習は,ほとんどが見学ですから,なかなかピンときませんね。
石川 自治医科大学の臨床実習は,以前から,クリニカル・クラークシップが特徴的だったと思いますが……。
高久 そうです。それでも侵襲を伴うことは学生にはできませんから,実効性のある医療安全教育は研修医になってからですね。
石川 教育も,医師だけではないと思います。医師,看護師,薬剤師と,それぞれ違う学校で教育を受けてきて,卒業すると,患者に安全で良質な医療を提供するという同じミッションに携わるわけです。
チーム医療がいわれて久しいですが,相手の業務,立場を理解したうえで,各自の専門業務を行っていくことは非常に難しいと感じています。医療安全の実現には欠かせないことなのですが。
期待されるリーダーシップ その涵養には課題も
高久 職種間だけに限らず,医師同士でもコミュニケーションがよくない。特に医療安全においては,コミュニケーションは最も重要ですから。お互いをわかり合う努力が必要です。
そのためには管理者が,医療者間のコミュニケーションを保つ努力をする必要があると思います。診療科の壁がなくなってきているといわれていますが,職種間のコミュニケーションがよいかどうかは,病院によりけりでしょうね。それも,管理者の責任ですね。1年目の研修医や新任医師の着任時に,そういった教育もきちんとしておくべきです。
石川 医療安全もリーダーシップ,まず管理者から,という側面がありますね。
高久 どんなに小さな会社でも,トップがきちんとしていないと,その組織はだめになります。管理者は,このことを常に念頭に置く必要があります。システムエラーがあったときには,管理者の責任です。
日本ではこれまで,警察が介入することもあり,個人のエラーを追及しすぎました。個人に責任がないとはいいませんが,やはりシステムが個人のエラーの原因になっていることが多いのです。また,過労によるエラーも,やはり管理者の責任です。
石川 私が研究しておりますインシデント・アクシデント事例の分析手法である根本原因分析法(RCA: Root Cause Analysis)はシステムやプロセスにフォーカスをあてて,システムエラーを発見していく手法です。システムの脆弱性を見い出し,改善につなげていけば,医療安全が推進され,その結果,医療の質向上に結び付く可能性があります。
そしてシステムづくりにおいては,組織の管理者が決断をし,意思決定をしていかなければなりませんね。米国でもいわれているように,“まず管理者からトレーニングを”ということが重要だと思います。
国立保健医療科学院でも,医療安全に関するリーダーシップ研修を行い,医療機関の院長・副院長に集まっていただいています。ここでRCAも実施しています。
研修の後,参加者にアンケートを行ったところ,「現在,医療安全における(参加者自身の)リーダーシップの発揮に関して課題があるか」との問いに,約9割の参加者から「課題がある」という回答を得ました(註)。この結果から,リーダーシップという資質の涵養には難しい部分があると感じています。
高久 「言うは易し」ですね。やはり管理者が医療安全にどれだけ気を配っているかということと,そのためのシステムをつくるのは管理者の責任だと自覚していなければなりません。
石川 そうですね。ただ,病院経営に携わる管理者が常にすべてを見ているわけにはいかないのが実情ですから,屋根瓦方式で少しずつ医療安全管理者を育てて,2-3年で交代することが可能な体制が望ましいと考えています。
現場を担う医療安全管理者 新しい専門分野として育成を
高久 現在,医療安全管理者は看護職が多いのですか。
石川 医師も増えてきていますが,現状では看護職が多いですね。
高久 医師は自分の専門もあるし,患者も診たいだろうし,医療安全と併任といっても,なかなか大変でしょう。
石川 ただ,医師が積極的に医療安全管理に参画すると,多職種の協働による医療安全管理がうまくいっているという話も聞いています。
高久 そうでしょうね。石川先生は医療安全管理者講習も行っておられますが,成果はどうですか。
石川 成果が上がるように努力しています(笑)。最近では,医師や他の職種の方々の参加も増えてきています。研修の中でも,多職種が参加することで議論の広がりがあり,チームで医療安全管理を行う必要性を実感しています。
ただ,やはり時間が必要だと思います。多くの課題に対応して,もっと内容を深めるためには,現状の1週間程度の短期の研修ではなかなか厳しいため,国立保健医療科学院では,安全管理の長期コースも実施しています。
今後はさらに,人材育成も含めて内容を検討し,より充実した研修を実施する予定です。医療安全をより一層推進するためには,医療の新しいプロフェッショナルとしての医療安全管理者の育成,そしてチームで行う医療安全管理という視点が必要になると思います。
高久 それにはやはり,相応の評価や認定制度が必要になってきますね。
石川 昨年3月,厚労省の医療安全対策検討会議に設けられた質の向上に関する検討作業部会で,医療安全管理者の業務指針および養成のための研修プログラム作成指針が策定されました。
これを今後,どう運用していくかということは,特定機能病院や臨床研修病院だけではなく,2007年の医療法改正で安全管理体制の整備が義務付けられた無床診療所等も含めて,検討すべき課題だと思っています。
高久 現状,大きな医療事故が起こっているのはやはり大規模病院です。中小の施設は,難しい患者は設備の整った施設に送りますから,悪性腫瘍などの難しい手術件数,救急患者数ともに,急増しています。ますます大規模病院に医療負荷がかかり,当然,医療事故も起こりやすいという構造になっています。
したがって,どの施設においても医療安全が重要な課題であることは間違いないのですが,病床数や地域でその病院が担う役割に応じて,医療安全やその質の捉え方,講じる対策もおのずと異なっていくと思います。
石川 医療安全の全体像から,細部にわたるまでお話しいただきました。ありがとうございました。
註:アンケートの詳しい結果は弊社刊『看護管理』誌上の,石川雅彦氏による新連載「今,なぜ,“リーダーシップか?”」第1回(本年1月号)を参照のこと。
管理者が医療安全にどれだけ気を配っているかということと,そのためのシステムをつくるのは管理者の責任だと自覚していなければなりません。高久史麿氏(自治医科大学学長,日本医学会会長,医療の質・安全学会理事長) |
システムづくりにおいては,組織の管理者が決断をし,意思決定をしていかなければなりませんね。米国でもいわれているように,“まず管理者からトレーニングを”ということが重要だと思います。石川雅彦氏(国立保健医療科学院政策科学部長) |
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