文字の脳科学―過去・現在・未来(岩田誠)
文字が文化をつくり,脳が文化を支える
インタビュー
2007.11.19
文字の脳科学――過去・現在・未来
文字が文化をつくり,脳が文化を支える
岩田 誠氏(東京女子医科大学 医学部長)に聞く
『神経文字学――読み書きの神経科学』が発刊された。「神経文字学」とは編者の岩田誠氏が生み出した言葉で,「脳機能との関係から文字を操作する能力の体系を比較検討する分野」と定義される。氏は神経文字学を提唱した背景について,「人間が社会的な学習で獲得する能力が脳の中でどう営まれているかについて,文字を調べればわかると思った」と語っている。岩田氏の文字にかける熱い想いについてお話しいただいた。
文字をつくったヒトの脳の不思議
――「神経文字学」という言葉を思いつかれた経緯からお話しください。
岩田 私は,もともと言語に興味がありましたが,特に文字に惹かれました。
文字は1つの図形であると同時に,意味のある言語としての側面も持っています。さらに,文字が集まって言語となるうえで,語や音の並び方,語をつなぎ合わせるための文法も関わってくる。また,集めやすく残しやすいので,研究対象としても扱いやすいという特徴がありました。ですから,言語を研究し始めたころから読み書きの研究に力を入れていたのです。
そのうちに気がついたのは「文字は人間にとって非常に新しい時代のものなのだ」ということでした。ヒトの誕生がいつかという議論には諸説ありますが,10万年前だったと仮定しても,文字が生まれたのはたかだか5千年前です。それ以前もおそらく言葉は話されていたでしょうし,人間として完成した脳を持っていたはずです。なのに文字は存在しなかった。それが,何世代かが過ぎて文字というものが出てきたとたん,それらはものすごい速さで各地でつくられ,広まっていったわけです。
「これは面白い」と思いました。ちょうどそのころは,遺伝子にスポットが当たり始めたころで,ヒトとチンパンジーの遺伝子はほとんど同じだということが明らかにされていました。にもかかわらず,ヒトは文字をつくり,チンパンジーはつくらなかった。この違いは何なのか,文字とはいったい何なのか,と思ったのです。
世代を積み重ねることで初めて発現する能力
岩田 生物において,ヒトの遺伝子を持つものだけが文字を生み出せたことは確かです。ヒト以外の生物は,ネアンデルタール人ですら,いまだかつて文字というものを残していないわけですから。しかし,文字が実際にできあがるには,個体としてのホモ・サピエンス・サピエンスに生まれるだけでは不十分でした。とてつもない数の世代を経て,少しずつ少しずつ積み重なってきたものが,ヒョコッと水面に顔を出した時に,文字というものが生まれたのではないか。そこが面白いと思ったんです。
当時はそんな言葉のかけらもありませんでしたが,これはまさに,最近で言うエピジェネティクスです。しかも,通常,エピジェネティクスとは個体の一生の中で起こるできごとを指しますが,文字の場合は世代を経る中で起こるできごとを指します。つまり,世代を積み重ねることによってはじめて可能になる何かがある,そしてその設計図をヒトの遺伝子が持っていたのだ,そのように私は理解したわけです。
「神経文字学」の誕生
岩田 このようなことを考え始めたのは1980年頃だったかと思いますが,ちょうどそのころ,Ignace J. Gelbの“Grammatology”という本を読んだのです。それは,象形文字や楔形文字などさまざまな文字の発達を記したものでしたが,自分のやっていることと似ているなと思いました。ただ,私は,それらを脳を基盤にして考えていた。その時に“Neurogrammatoloy”という言葉が自然と湧いてきたのです。
たまたま同じころ,慶應義塾大学におられた塚田裕三先生が1982年に国際シンポジウムを開かれたのですが,そこで初めてこの言葉を使いました。でも,その時はぜんぜん受けなかった(笑)。しばらくはそんな感じでしたが,去年の5月,日本神経学会で会長をさせていただいた際に,「神経文字学」というシンポジウムを行いました。そこではけっこう皆さんに受けて,シンポジストの方も,聞いてくださった方も面白いと言ってくださいました。その時のシンポジウムがもとになってこの本ができたのです。
■遺伝子が決めるものと決めないもの
――日本人は漢字と仮名を併用するという独特の点で,西洋の言語使用とは異なっていると思われますが。
岩田 神経心理学会を設立したのが1978年のことですが,ちょうどそのころ,外国の脳研究者が漢字に興味を持ち始めました。当時われわれは漢字と仮名という2つの文字体系を使って西洋の研究と比較し,整合性を図ることで普遍的な脳の仕組みを解明したいと考えていました。漢字と仮名を一個人の中で比較することができるわれわれは非常に恵まれていたわけです。
しかし同時に,諸外国では「日本人の脳は特殊な働きを持っているのではないか」「漢字は図形として認知され,右脳だけで処理が行われているのではないか」という誤った考えが広がっていました。その誤解を解きたいと考えたのもひとつの理由です。
そこでわれわれは離断脳者で実験を行い,日本語においても読み・書きともに左脳が行っていることを証明しました。人間の脳というのは人種や民族によって特殊なものではありません。ですから,アルファベットの文字体系の扱い方と,われわれの文字体系の扱い方も,現われ方が違うだけで,実は同じことをやっているのではないかと思いました。そうして研究を進めていたところ,1990年ごろにイギリスの研究者たちが,まったく同じことを結論づけたのです。つまり,アルファベットを用いる民族でも何らかの脳病変があった場合,文字の読みと語の読みでは違う形の障害が出てくる,ということでした。日本語が特殊なのではなく,「自分たちもこれと同じことをやっていたのか」と気づいてくれたことがとてもうれしかった。このような経験もあって,「神経文字学というのは,文化の神経学的基盤だ」という思いを新たにしました。
日本語の読み書きで西洋人と違うことが起こっているという指摘は多く,立派な論文もたくさんあります。でも,どうして違うのかという点までは追究されてこなかった。私は,しつこく追究したので,逆に共通点が出てきたんです。「違う」ということだけではなくて,「どこが共通しているのか」と考えることのほうが大事だと思うんですよ。だって,脳は同じなんですから。
日本人の両親から生まれた純粋な日本人でも,英語で育てられれば英語の読み書きしか...
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