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第3230号 2017年7月3日


【寄稿】

Perspective
中動態は医療にどんな可能性をひらくのか


 かつて,「能動/中動」という二分法の世界が存在した。そこでは「その行為が誰に帰属するか」ではなく,「その出来事がどこで起きているか」に着目されていた――。この4月に刊行された『中動態の世界――意志と責任の考古学』(國分功一郎著,医学書院)が思想界の話題をさらっている。薬物依存症者との語りからヒントを得たという本書は医療界にどのようなインパクトをもたらすのか。中動態という「古くて新しい」文法に衝撃を受けたお二人にご寄稿いただいた。


中動態の世界とカツアゲの構造

藤沼 康樹(医療福祉生協連 家庭医療学開発センター)


《シリーズ ケアをひらく》 『中動態の世界』(2017年4月発行,5刷)
 思想や哲学における「考古学」というと思い浮かべるのは,現在私たちが自然で当たり前と思っている認識の枠組みが,実は歴史的にある時点から新たに生まれたものであることを明らかにする作業ということである。例えばフィリップ・アリエスが著書『〈子供〉の誕生』(みすず書房)で明らかにしたのは,大人とは本質的に違う「子供」という存在は実はある時期に発明されたものだったということであり,それ以前は「小さな大人」として取り扱われていた,ということであった。かつては,子供と大人に区別はなかったのである。こうした見方を,私たちは体感的に理解できない。また,柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社)では,日本における「風景」あるいは「内面」といった,今はわれわれが普通に使っている言葉で想起するものが,実は近代に発見されたものだったということを,二葉亭四迷や国木田独歩などの小説を題材に明らかにしようとしているのだが,おそらくそれ以前の日本人が見ていた「風景」は私達が今見ている風景とは違っていた可能性があるということである。

 國分功一郎氏はこの『中動態の世界』の中で,能動と受動という,私たちにとっては自明と思われる文法上の枠組み=二分法の起源に,ある転倒,あるいはシフトがあったということを丹念に,考古学的に明らかにしていく。かつて動詞は,能動態vs.中動態の対比のみがあったのだが,それが中動態が後景に退き能動態vs.受動態の対比に変化してしまったという歴史的な経過を見つめ直している。実は能動態/中動態の区別が主たる動詞の区別であった時代においては,世界認識そのものが現在とは異なっていたということが提示される。

 さて,この本の前半では哲学的・言語学的な考察が丹念に行われるため,読んでいる私もここからどこに行くのだろうという不安感もあったが,中盤から,アレント,ハイデッガー,ドゥルーズ,スピノザが出てきて,かれらの議論における自発性,同意と非同意,権力と暴力,自由意志と責任などの考察が出てくると俄然アクチュアルな様相を帯びてくる。こうした議論を,國分氏が能動態と中動態の枠組みで読み解くプロセスは,喚起的で,さらにその先へ考察を進めたくなる。

 こうした書物が看護系の雑誌『精神看護』の連載から生まれたというところが非常に興味深いと思う。例えば,普通の診療において,

 「血圧が高いですよ。薬飲んだほうがいいと思いますが」
 「飲みたくないなあ……」
 「いや,薬を飲まないと倒れますよ」
 「そうですね,わかりました」

 といった会話はよく生じている。実はこの本の中でアレントは,銃を突きつけられた人がポケットからお金を出して銃を持っている人に渡す,という「カツアゲ」の場面を取り上げているのだが,お金を渡した人の行為は能動的と言っていいのか? 自分の意志により渡している行為なのか? などといったスリリングな考察がされている。上記の医師と患者のやりとりは構造的にはカツアゲと同じである。この場合に患者は自分の意志で自発的・能動的に服薬をするようになったと言っていいのかという根本的な疑問に私たちは直面することになる。

 インフォームドコンセント,患者の自律性の尊重,QOLなどの医療倫理上の重要なコンセプトについても,おそらく能動態/中動態のパラダイムからそれらが問い直されるとき,医療者は,相当な不安に襲われると思うが,その不安に耐えることなしには,医療はいつまでもカツアゲと同様の構造にとどまるような気がするのである。

 そして,メルヴィルの「ビリー・バッド」を読み解いていく最終章は圧巻である。この最終章のために,その前の丹念な考察を追っていく価値があると思う。


言語化できない思いをとらえる

青島 周一(徳仁会中野病院 薬局薬剤師)


 かつて,言語には能動/受動ではなく,能動/中動という概念が存在したという。中動態という言葉から受けるイメージは能動態と受動態の間にある何か,つまり能動/受動からはみ出てしまった何事かを指し示す概念のように感じられる。しかし,中動態の世界とはそのような単純な世界のことではない。中動態の世界は身近にありふれているはずなのだが,われわれがそれに気付けないのは,能動/受動という概念を前提として世界を見ているからに他ならない。

 僕が保険薬局に勤務していた頃に出会った患者さんの言葉がとても印象的で,今でも記憶に残っている。その患者さんは,80歳を超えていたけれど,背筋がピンとしており,言葉もはっきりしていて,とても話し上手な方だった。ある日,いつも通り服薬説明を終え,その患者さんが薬局を出て行こうとしたその時,薬局の自動ドアの前でこちらを振り返り,僕にこう言った。

 「薬で生かされているんだよな。死ぬまで薬を飲まないといけないのかな……」

 薬が飲むのが嫌なのだろうか,それとも飲まざるを得ないという状況を受け入れたくないのだろうか。僕はこの言葉を聞いたときに,薬を飲まなくても良い,という選択肢がこの患者さんにはないような気がして,返す言葉が見つからなかった。

 医療を受ける,あるいは処方された薬を飲む,という行為には,患者自らの意志が存在するのだろうか。つまりこれは能動的行為と言えるだろうか。確かに患者が薬を服用したり,医療を受けようとする行為は方向性としては能動的だと言える。そして,そこには明確な意志が存在するように思えるし,「医療を受けさせられている」とか,「薬を服用させられている」といった受動的な要素は少ないように思える。しかし,受動的な要素が完全に存在しないと言い切れるだろうか。

 人の振る舞いが,自分の意志により行った自発的行為なのか,外部の要因にさせられた非自発的な行為なのか,その境界を明確に定めるのは困難である。過失致死と殺人の境界線をどう線引きするかということを考えてみれば容易に想像がつくだろう。つまり能動性と受動性は程度の差はあれ交じり合っている。別言すれば能動と受動は連続した概念なのだと言える。われわれはそれを能動/受動という「態」によって分節しながら人の振る舞いを定義付けている。

 こうした能動/受動という関心を取り払ってみると,病院へ行く,薬を飲むという行為が純粋な能動的行為から逸脱していることに気付く。病名という言葉により前景化された“健康ではない状態”という疾患概念が,われわれに対して,健康に気を使うべき,薬を飲むべき,病院へ行くべき,という外部要因をより強固なものにしていく側面がある。病院へ行く,薬を飲むという行為に存在すると信じていた能動性は,寄付のためにお金を渡すような能動性ではなく,どちらかといえば,(外部要因に)脅されてお金を渡すようなカツアゲ的な能動性に近いとは言えないだろうか。こうした観点から日常を見渡してみると,強制はないが自発的でもなく,自発的ではないが同意をしているという事態は身近にありふれている。それが見えにくくなっているのは能動/受動というパースペクティブから自由になれないからだ。

 能動/受動ではなく能動/中動というパースペクティブで見つめ直すことは,医療に新たな可能性をもたらすだろう。臨床で渦巻く「仕方なしに……」「……するより他ない」という患者の想い。それは強制でも自発でもないが言葉として概念化されない何か。能動/中動のパースペクティブはこの言語化されなかった何かを浮き彫りにさせていく。それは,医療者にとっては臨床判断の多様性を可能にするだろうし,患者にとっても選択の幅を広げるものとなるだろう。例えば,薬を死ぬまで飲まなくても良いかもしれない,ということを突き詰めて考えるきっかけをもたらすように。