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第2995号 2012年9月24日


看護のアジェンダ
 看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第93回〉
「村上ラヂオ」の涼風

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

 突然ですが,「村上ラヂオ」って,知っていますか。この夏,村上電気が発売したエコ・ラジオです。というのは嘘です。「村上ラヂオ」は村上春樹が書いているエッセイ集です。読書好きでちょっと疲れている方にお薦めです。文体といい,大橋歩の画といい,ほんのりしていて心に涼風が通り過ぎます。

 村上春樹は,雑誌「anan」に「村上ラヂオ」という連載エッセイを書いていました(私は,昔「anan」のファンでしたが,現在は「ミセス」とか「STORY」といった雑誌を美容院で手に取るような年代なので,彼の連載を雑誌では読んでいません)。一年間,雑誌に掲載されたもの(約50編)が,本になり,このたび3冊目の「村上ラヂオ」が出版されたというわけです。

サラダ好きのライオン

 「anan」の読者層の大半は若い女性だし,村上春樹自身は「かなり高いレベルのおっさん」だから共通する話題なんてほとんど存在しないはずなので,腹をくくって気楽に好きなことを書いてきて,ある時点で気付いたというのです。「相手が何を思うかなんてとくに考えずに,自分の書きたいことを,自分が面白いと感じることを,好きなように楽しくすらすら書いていれば,それでいいじゃないか」と「まえがき」に書いています(「看護のアジェンダ」の筆者の心境にぴったりです)。彼が二十歳のころは,「anan」とか「平凡パンチ」が家に積んであり,「自分がいつかいっぱしのおっさんになるなんて思いも寄りませんでした」という感覚は私も全く同感です(「いっぱしのおばさん」というかどうかは別として)。

 というわけで,シリーズ3冊目は,『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』(マガジンハウス,2012年7月発行)です。「サラダ好きのライオン」って何だ,と思っている方がいるでしょう(私もそうでしたから)。その話は最初のエッセイに出てきます(「忘れられない,覚えられない」)。毎週毎週よく書くことがありますね,と訊かれるが,話の材料に不自由することはまずない。なぜなら連載を始める前に,50個くらいトピックを用意しておくからだというのです。けれども,新しいトピックを思いつくことがあって,それはベッドに入って眠りに就く前であることが多いため,メモする間もなく眠ってしまい,翌朝目が覚めると何を書くつもりでいたかすっかり忘れている。つまり,寝付きのよい彼は眠れない夜なんてめったにないので,眠れない夜は「サラダ好きのライオン」くらい珍しいというわけです(そもそもサラダ好きなライオンなんて存在するのでしょうか)。

助言や忠告より,温かみのある相づちを

 「僕の好きな鞄」も好きです。旅慣れている彼にとっても,旅行にぴったり適した鞄を選ぶのは難しい作業であり,どんな荷物も過不足なく入り安心できる親切な鞄がない。長年,旅行によく使っているのは,サーファー用のビニールバッグ,ヨットの帆で作ったラケット・ケース,ローマで衝動買いした革のショルダー・バッグであり,キャスター付きの小型スーツケースは好きではない。重いし,がらがらとうるさい。そこで生まれた哲学は「便利なものは,必ずどこかで不便になる」というものです(ここを読んで私は,キャスター付きのスーツケースをやめて旅に出ることにしました)。

 「そうか,なかなかうまくいかないね」はためになります。自分はこれまで人に何か助言をしてよい結果をもたらした例がないので,ある時から相談されても相手の話を聞くだけにした。腕組みして,「うーん,なるほどね。それは大変だな。いろいろあるんだ。そうか,なかなかうまくいかないね。さてどうしたものか」みたいな相づちを打ちながら,それなりに熱心に耳を傾ける。そしてこう気付いたというのです。「世間の多くの人は,実用的な助言や忠告よりはむしろ,温かみのある相づちを求めているのではあるまいか。(中略)それに結論というのは多くの場合,こちらでむりに引っぱり出すものではなく,向こうから段取りを決めて勝手にたずねて来るみたいだ。だから,こっちとしては,なるべくきれいな座布団を敷いて,それがやって来るのを静かに待っているしかないような気がする。で,来なきゃ来ないで,それはまあ仕方がない」。

 「最近の私は心をときめかす出来事が減ったな,やれやれ」と思いつつ,仙台からの仕事帰りに新幹線に乗り,『村上ラヂオ』を取り出して読むことに,いくばくのときめきを感じました。一流のエッセイのエッセンスを書くことは野暮なことだと反省しながら,お気に入りの読書もまた人を癒やすのだと悟った次第です。

つづく

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