医学界新聞

連載

2008.08.11

アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第10話〕
動物と人間


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

森を駆け回る,生命が躍動する

 疾走という言葉が,まさにふさわしい。すべての筋肉をフルに使った,無駄のないフォーム。風を切り,本能のおもむくままに,ひたすら林の中を走る。とにかく速い。力強い。そして美しい。

 5月に旅をして,友人宅に泊めてもらい,そこの飼い犬を連れて郊外の森に散策に出かけた。州立公園だが,もう夕方だったので私たち以外に誰も人間はいなかった。だだっ広い駐車場に車をとめ,友人は犬を外に出し,鎖を放してやった。しばし犬はじっとしていたが,友人の“go!”の合図を聞くやいなや,森に向かって駆け出していった。小川に飛び込んだと思えば,坂を全力で駆け上がる。時々近くに戻ってくるが,また別の方向に走り去る。生命の躍動感がこちらにまで伝わってくる。

 米国で知り合いの家を訪れると,たいていは犬か猫か,その両方を飼っている。日本と違ってスペースに余裕があるせいか,大型犬を室内で飼う人も少なくない。猫はたいてい家の内外を勝手気ままに出入りしているので,あまり気にならない。けれども犬,特に私よりも体格のがっしりした大型犬が家の中をうろうろするのを見ていると,「欲求不満にならないの? 外に飛び出したくならないの?」と声をかけたくなってしまう。

 そばにすり寄ってきて,あくびをする犬の口の中を覗き込み,私はそこにちゃんと牙があるのを確認する。そして,その気になれば私たちをかみ殺すなんてわけないなあ,と思う。なぜその気にならないのだろう,よくおとなしく人間の言うことを聞いているなあと思う。台所のカウンターの肉を勝手にくすねることはあっても,決して小さな子どもにかみついたりしないのが不思議である。もう本能なんてなくしてしまったのかなあと思う。なんだか「奴隷根性」を見せつけられたようで,わびしくなる。

 だから友達の飼い犬が森を駆け回るのを見て,「ああ,ちゃんと野生の本能は残っているんだ」と新鮮な驚きを感じ,うれしくなった。室内での気の抜けた姿は,仮の姿だったのだ。

動物への恐怖とその正体

 私は動物を飼ったことがほとんどない。子どものころ,鳥や亀を短期間世話したくらいだ。だから,単に犬や猫の習性を知らないだけなのかもしれない。ペット好きの友人たちに言わせると,人間と動物は長い間共生してきた。動物は何千年もかけて飼い慣らされてきたので,その習性が今は本能に近くなって組み込まれている。だから人間のいうことを聞くのは当然だし,犬や猫も嫌がっているわけではない。むしろ飼い主の人間から気にかけてもらい,世話をされ,飼い主の命令に従うのが喜びなのだ。いまさら野生には戻れないし,戻ろうとしても生き延びられない,らしい。

 実は,私は小さい頃,動物がとても苦手だった。怖くてたまらなかった。小さな犬を見ても,必死で逃げようとしていた。けれども犬は逃げるものを追いかける癖がある。私が泣きながら逃げ回っているのに,端からは微笑ましい光景に見えるらしく,周囲の大人たちに本気で取り合ってもらえなかった記憶がある。

 PTSDなどトラウマ症状の治療方法の一つとして,EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)というのがある。眼球運動など両側刺激を与えながら,トラウマ記憶を処理していくというものだ。その研修を受けたときに,参加者同士が自分のプチ・トラウマを処理するという練習のセッションがあった。そこで私は犬への恐怖をとりあげたのだが,興味深かったのが,映像として出てきたのは追いかけてくる犬ではなく,母と仲の良い近所のおばさんの笑う顔だったことだ。もちろん犬も怖いが,怖がっているのに誰も助けてくれない,誰も分かってくれないという絶望感が強かったんだと,何十年もたって初めて気づかされたのだった。

「相互的恩恵」という幻想

 今ではもう,犬や猫をそれほど怖いとは思わなくなった。近寄ってこられても,こっちが怯えたり,逃げたり,突然へんな動き方をしたりしなければ,何もよけいなことはしてこないと,認知のレベルでよく分かってきたからだ。特に在外研究中のこの1年は,犬か猫がコンスタントにそばにいる住居環境だったので,その状況に慣れざるを得ないし,慣れてみれば,かわいいと思えるようになった。

 ペットを人間の子ども以上にかわいがる人たちの気持ちも分かる気がしてきた。家族と遠く離れ,親しい友人もおらず,孤独に生きている人たちにとっては,暖かい息の気配や,柔らかさ,じゃれついてくる感じ,ただ横で寝そべっている感じなどが,たまらなく貴重なのだろうと思う。

 それと同時に,どこの社会にも養育者に恵まれない子どもたちはたくさんいるので,ペットを飼う人たちが代わりにそういった子どもたちを家に受け入れ,育ててくれたら素晴らしいのになあ,などと,現実性のないことを空想してみたりもする。

 また,ペットを飼う人間の姿を見ていると,奴隷制度ができた背景には,動物を家畜として飼い慣らし,人間のために奉仕させてきた歴史があることを感じたりもする。どんなメンタリティがあれば同じ人間を奴隷として扱えるのだろうと疑問に思ったことがあるが,同じ人間ではなく,人間より下等の動物だとみなせば,むしろ奴隷として利用しようとしない方が不自然とも言える。

 もちろん植民地化や奴隷制度を進めたヨーロッパ系の人間だけが家畜を飼っていたわけでなく,アフリカや南北アメリカの先住民たちも家畜やペットを所有していたわけだから,それが奴隷制度を生んだ原因だとは言えない。ただ,特にヨーロッパの白人にとって,肌の色が違い,顔つきが違い,服装も違い,言葉も違うアフリカやアメリカの先住民を,同じ人間とみなさず,動物という枠でとらえることは,より簡単だったと言えよう。

 つけあがらせないためには,毅然として権威が上であることを示すのが,動物を飼い慣らすこつである。従順であって当然,反抗したり,反逆するなんてもってのほかなのだ。同時に,ペットと同様,奴隷であってもちゃんと世話をしてやっているし,心も通じ合っている,奴隷の側も仕えることに喜びを感じている,と思いこむことも簡単だっただろう。階級社会を成立させ,正当化し,維持し続けるには,そういった「相互的恩恵」の幻想が必要となる。

自然を畏怖する

 うーん。考えすぎかもしれない。ペット好きの読者から反発を受けるかなぁとも思う。私は別に人間と動物が対等だと思っているわけではない。生きとし生けるものすべてに魂が宿っているというアニミズム的思考に深く惹かれるところはあるが,菜食主義者でもない。

 ただ,人間中心主義はぜったい間違っているとも思う。人間はこの世界を支配し管理しようとしてきた。そのために自然に働きかけ「改良」してきた。医療もその一つである。そして家畜やペットは,とても身近な自然の「改良例」である。

 動物園の熊が人を襲ったとか,ライオンが飼育係をかみ殺したとか,そういったニュースを聞くたび,殺された人はどれほど怖かっただろうと思う。でも,あぁ,動物はまだ本能を失っていないのねと,どこかでほっとしている自分にも気がつく。そういう事故がまったくないのはとても危険な気がする。そういう思考こそ危険思想なのかもしれないが。

 動物好きというと心が温かい人,というイメージが世間にはある。だから動物が苦手な私は自分が冷たい人間なんじゃないかと子ども心に思っていた(ちなみに,子ども好きについても同じことが言える)。でも私は,動物が嫌いというより,畏怖しているのだと思う。そして畏怖するのは悪いことじゃないんじゃないかと思う。

 自然はいつも人間の支配を超えた潜在力を持つ。飼い慣らされたように見えても,そのふりをしているだけだ。病いや災い,老いや死を畏怖することは,自然の持つ回復力や治癒力を信じることと表裏一体でもある。

 自然はもっと畏怖されてよい。怖がるのは全然悪いことじゃない。

次回へつづく

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