医学界新聞

連載

2008.07.14


アメリカの医療やアカデミズムの現場を15年ぶりに再訪した筆者が,心のアンテナにひっかかる“ねじれ”や“重なり”から考察をめぐらせていきます。

ロスする

〔第9話〕
女らしさと男らしさ


宮地尚子=文・写真
一橋大学大学院教授・精神科医
ケンブリッジ・ヘルス・アライアンス客員研究員


前回

 「悩みを相談するとき,女性は気持ちを分かってほしいのに,男性は問題解決をしたがるのです」。

 先日,ニューヨーク在住の日本人を対象としたヘルスウィークという催しがあった。日本総領事館や日系人会などもかかわるジャムズネットと高齢者問題協議会という団体の主催で,長生きの秘訣の講演会,ヨガやフラダンス,折り紙アートセラピーなどなど,おもしろいプログラムがめじろ押しだった。

 私も最終日のワークショップにコメンテータとして呼ばれた。テーマは「コンフリクトを考える」。人間関係の中での葛藤や衝突,トラブルについて,世代・親子間,男女間,近所や職場という3つに分けてレクチャーが行われた。それに私がコメントし,その後は3つの小グループに分かれてディスカッションが活発に行われた。レクチャーではところどころにロールプレイが取り入れられ,迫真の演技に笑いも絶えなかった。

公の場は男性仕様にできている

 私は専門の一つがジェンダーなので,男女間のコンフリクトについては特に関心を強くして聴いていた。でも講師の話を聴いていると,女だから男だからってそんなにきれいに分けられないよなぁ,とつくづく思った。ロールプレイを見ていても,どちらかというと自分が男性側の行動をしていることに気づかされたりもする。

 女性と男性,その違いやずれは永遠のトピックである。性差については脳の研究も盛んで,さまざまなことが言われている。本屋さんに行けば,『話を聞かない男,地図が読めない女』など,たくさんの本が積まれている。

 けれども男女の違いはたいてい統計的な差にすぎず,個人差が多い。女性と男性の平均身長に差があるのは事実だが,背が高い女性も背が低い男性もたくさんいるのと同じことだ。脳の性差も同様だし,脳が違うからといって「生まれつき」違う,「変わりようがない」とは限らない。脳は可塑的なもので,生物や人間の長い歴史の中で徐々に形成されてきたのだし,一人の人間においても,環境や発達課題に適応しながら柔軟に作られていくものだからだ。

 レクチャーを聴きながら,私は自分がどういうときに「男性的」なふるまいをしているのかを考えてみた。そして,まず「お仕事モード」か否かということの方が,男女差よりも大きいのではないかと思った。

 仕事をするということは,積み上げられた課題をこなしていくことである。もちろん人間関係は大切だが,それは課題遂行のためであって,人間関係を維持すること自体が目的ではない。「お仕事モード」で必要なのは,効率的であること,論理的であること,自分の有能性を示し,競争に勝つことなどである。そのためには,冷静であること,個人的事情は持ち出さないことなども求められやすい。「気持ちを分かりあおうとすること」は,それが仕事の一部である場合(カウンセリングなど)を除いて,必要でないどころか邪魔になることも多い。女性だって,気持ちを分かってもらうことを主目的として仕事上のコミュニケーションはしないだろう。

 「お仕事モード」とは,言い替えれば公の場にいるということでもある。公の場も職場も,たいていは男性仕様でできている。それはこれまで女性がいなかったからだけでなく,公的な場でうまく機能するような行動規範が男性に内在化され,逆に「男らしさ」を形作っていったからだとも言えるだろう。

 そこには,責任とかリーダーシップとか,それらへの慣れといったこともかかわってくる。公的な場でなくとも,相手より自分の方が年齢や知識や地位が上だったり,責任や権威を持つ側であったりするときは,どうしても振る舞いが「男っぽく」なりがちである。例えば,私も自分の子どもに対しては,けっこう問題解決モードで対応してしまっているなぁと思い,もっと気持ちをくんであげなければと,ロールプレイを見ながら反省しきりだったのである。

男性が性的被害に遭うとき

 ところで前回,vulnerabilityの話を書いた。映画『スタンドアップ』を題材にしたので,女性のvulnerabilityに対し男性はどう生きるのか,という問いをもらった。その問いには,女性のvulnerabilityにどう向き合うのかということと,男性が自分自身のvulnerabilityにどう向き合うかということの,二つの意味が含まれているように思う。

 女性の持つvulnerabilityのメインは,性的被害に遭う可能性や,親密な相手からの暴力にさらされやすいということであり,その場合,男性がすべきことは自分が加害者にならないように気をつけるということ,女性のvulnerabilityにつけ込まないということに尽きる気がする。

 だが男性が自分自身のvulnerabilityにどう向き合うかということになると,話はもっとややこしくなりそうだ。

 男性にとって,「強さ」はかけがえのないほどの重要な価値を持つ。「雄々しさ」という言葉自体,辞書を引けば「強さ」「たくましさ」「勇ましさ」といった意味が出てくる。現実には,体力や体格に自信がなかったり,決断力やリーダーシップに欠けていたり,気が小さくて恐がりだったりする男性はいくらでもいる。男性だって病気にもなるし,攻撃されれば傷つくし,見知らぬものに恐怖感を持つのは当然だ。

 性的に攻撃されることだって,女性に特有のvulnerabilityと思われがちだが,男性にも可能性はある。実は私のフルブライトでの研究テーマは「男性の性被害と社会政策」というものである。よくこんなマイナーなテーマで受け入れてくれたものだと,選考委員会の懐の深さには感謝する。今でも出会った人に研究テーマを説明するたびに,とまどった顔をされたり,時には何も聞かなかったかのように,話題をころっと変えられてしまうこともある。性に関することを公の場で語ることは米国でもタブーに近いし,男性の被害となると想像の許容範囲をこえるようだ。

 男性が性的な被害に遭うと,想定外なだけにショックや混乱は著しい。自分を守ることができるのが男だから,もう自分は男ではないとさえ被害者は思う。恥の意識のため,周囲の誰にも打ち明けず,一人で苦しむ。自分が男であることを証明するために,女性に攻撃的になったり,マッチョマンになることもある。助けを求めず一人で立ち直ろうとして,孤独をどんどん深めていく。男性の被害者をみていると,性被害そのものよりも,そのために傷ついた「男らしさ」を必死で取り戻そうとすることの方が,逆に傷を深めていってしまうという印象を受ける。

弱さを認め,肩の力を抜いて

 性被害に限らず,男性にとって自分のvulnerabilityを認めることは,女性ほどたやすいことではない。だが,vulnerableであってはいけないという縛りこそが,vulnerabilityになってしまうという逆説が,そこにはある。つまり,男性のvulnerabilityとは,男らしくなければならない,強くなければいけないという社会規範そのものなのだ。「男のくせに」という言葉で縛られ,逃げたくても逃げられず,弱音を吐きたくても吐けず,助けを求めたくても求められず,ひたすら鎧を重ねて着込んでいく。公的な場は男性仕様になっていると書いたが,これも正確に言えば「強い男性」仕様になっていると言った方がいいだろう。「弱い」男性にとって社会は生きづらい。特に米国のように,若さや強さに価値を置く社会ではそうである。

 「弱さを抱えたままの強さ」を男性が提唱し,保ち続けるのは,女性よりもはるかに難しい。問題解決思考になるのも,自分の気持ちや感情を聞いてもらうことが弱音を吐くこと,相手に弱みを握られる危険に自分をさらけ出すことになるからだろう。

 それでも,だからこそ「弱さを抱えたままの強さ」をめざすことは,むしろ男性にとってより意義深いのではないかと思う。自分の弱さを認め,鎧を外し,肩の力を抜き,自然体でいられる男性の方がむしろ強いんだ,魅力的なんだということを,多くの傷ついた男性が示そうとしている。

次回へつづく

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