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第2743号 2007年8月6日


生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第5回 スピリチュアル・ブーム(2)
 スピリチュアル・ブームと「日本的便利さ」 ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

他者からの撤退

 他者との軋轢からいかに遠ざかるかを突き詰めてきた「日本的便利さ」。その象徴は戦後一直線に生じた家庭崩壊といっていいでしょう。あらゆるものが便利になった後,唯一「不便なもの」として残ってきた家庭内のコミュニケーション。僕ら日本人は,その不便さ,煩わしさを解消するために,自ら家庭を崩壊させる道を選んできたのだと思います。

 「便利さ」ということの本質は,人=他者から遠ざかるということだといい換えてもいい。前回,スピリチュアル・ブームとは,そうした「日本的便利さ」の行き着く先として,満を持して登場したのではないかと述べました。いい換えるならそれは,「他者から遠ざかる」ためのツールとして,スピリチュアリズムが使われているんじゃないかということです(これは,かつて僕が体験したグループ療法の中でのスピリチュアリズムとは正反対の方向性です)。

 平穏な日常生活のなかに,少しずつ,他者から撤退していく動きが垣間見える。さらに,その動きが少しずつ加速している。傷つきたくない,自分の庵の中でひっそりと生き続けたい。社会に守られながらも,対人関係からゆっくりと撤退し,自己の居場所を少しずつ縮める,そういう生き方が広がっていることが,僕は少し恐ろしい。スピリチュアル・ブームは,そうした「自己完結を求める意識」が社会的に広がっていることとシンクロしているように思うのです。

自己完結の巧妙なロジック

 「自己完結を求める意識」は,スピリチュアル・ブームに限らず,ほうぼうに認められます。僕らは「他者から遠ざかる」というと,空間的に他者から遠ざかることを連想します。しかし,いま生じているのは,自己の境界線をどんどん自分の内面の,奥深くに持ってくるということです。つまり,満員電車でギュウギュウ詰めになって,どれほど身体レベルの接触があったとしても,自己の境界線は犯されないくらい,内側に「自分」をつくってしまう。こうなると,もう「他者」とコミュニケーションすることは致命的に困難になります。

 近年,「自分で自分を受け入れたい,許したい」といった言葉をよく耳にするようになりました。でも,冷静に考えてみれば,「他者に受容されること」なくして,自己受容なんてないんです。しかし,今語られているのは「自分で自分を」なんですね。さらにはっきりいえば「他者には関わりたくないけれど,他者に受容されたい」という,矛盾した願望が当たり前のように語られているわけです。

 スピリチュアル・ブームはこういう矛盾した「自己受容」へのニーズを見事にサポートしています。スピリチュアルカウンセラーなる赤の他人が,消費者の「自己」を受容してさしあげる。つまり,本人のことをまったく知らない人が他者の役割をするということが,システム化されている。

 これはなかなか巧妙なつくりです。「他者には関わりたくないけれど,他者に受容されたい」という願望に答えるには,「これしかない」というくらいよくできている。スピリチュアルカウンセラーは,本当はこっちのことなんか何にも知らないわけですから,消費者は傷つけられる心配はありません。一方で,こちらの辛い面や汚い面,孤独を理解し,受け入れてくれる――というよりも,本やメディアを通すわけですから,こちらの都合のよいように消費できるということですね。受け手である消費者は,気楽に「あなたは許されている」というメッセージを受け取ることができる。

 率直にいって,これは怖い話です。そこには不信感や疑念はありませんし,葛藤もありません。よって,それを乗り越えて初めて得られるような信頼感もない。「自分は受容されている」という小さな幻想によって,自分を癒しているだけ。幼児的です。他者を絶対に自分に近づけないように,自分自身を隔離する。他者を遠ざけるのではなく,自分自身を隔離することによって他者との距離を確保する。自己完結して,自己受容して,他者から撤退する。こういう傾向が,スピリチュアル・ブームの背景にある。

無風状態が育てたもの

 僕はスピリチュアル・ブームに乗っている人たちに「それじゃだめ」「こうしなさい」と説教する気は毛頭ありません。スピリチュアル・ブームというのは,時代の寵児,時代の象徴ですから,スピリチュアル・ブームのなかにいる人だけがそれをやっているのではなくて,それぞれの日本人がすべて,その因子をはらんでいる。ですから,彼らは僕ら自身の姿を,すごく理解しやすいかたちで提示してくれていると考えたほうがいい。

 つまり,スピリチュアル・ブームを解析するということは,イコール,僕たちの生活を解析しているということなんです。例えばIT長者に象徴されるような合理一辺倒,経済至上主義みたいな考え方と,スピリチュアル・ブームが体現しているような個人の中の「癒し」というのは,現れ方は正反対ですが,まったく同じロジックで動いていると僕は思う。他者を遠ざけ,「これであなたは大丈夫」と太鼓判を押す,という点ではまったく同じ。

 僕が懸念するのはこうした傾向が,いつか訪れる激変に対する耐性を,一人ひとりの人間からゆっくりと奪っていくのではないかということです。今の日本はすごく無風状態,閉塞状況にあるから,ずっとそれが続くように錯覚するけれど,いつ激変が訪れるかは誰にもわからないことです。激変というのは,「いやおうなく他者が自己に侵入してくる状況」であり,そうなれば意識の世界に閉じこもり続けるわけにはいきません。

 人生は,非常に残酷で,冷酷な面があり,思わぬハプニングを起こしたり,ほんとうに耐え切れないと感じられるような事件が,必ず起こる。そうなれば,他者と向き合わざるをえないんです。いま,ここに大嵐が襲ってきているときに,携帯電話のウェブで台風情報をチェックする暇はありません。生の「台風」と対面するしかないんです。

スピリチュアル・ケアに求められること

 2回にわたってスピリチュアリズムの話題をお話しましたが,最後に医療現場のスピリチュアリズムについて簡単に述べましょう。1999年のWHO(世界保健機関)総会で,健康の定義として,身体,精神,社会とならんでスピリチュアルという概念が加えられることについて論議がなされました。これ以降,医療界でもスピリチュアリズムが語られる機会が増えています。もし,医療現場でスピリチュアリズムが求められるとすれば,それは絶対に,スピリチュアル・ブーム的なものであってはいけない,ということだけはいえるでしょう。

 たとえば癌の告知を受けた患者さんへのスピリチュアル面での援助ということを思い浮かべれば,それは患者も医療者も,癌という「台風」に巻き込まれている状況です。そこで求められるスピリチュアリズムは徹底的に現場主義で,必然的にコミュニケイティヴなものにならざるをえない。

 そのときに大切なのは,とにかく医療者も患者も,正面を向くこと。あまりにもまっとうすぎる答えかもしれませんが,結局は生死のかかった場面で次々と現れるスピリチュアルな課題には,その都度向き合うしかないと僕は思う。

 人は誰しも,「いつかは……」と保留しています。でも,死を宣告された人はその「いつか」が「いま」になる。死に直面した人にスピリチュアルケアが求められるといわれますが,それは単に,私たちが普段,スピリチュアルな問題を先送りにしているというだけのことです。すべての人は必ず死ぬ。そのときそばに立った医療者は,その点をごまかしてはいけない。医療現場におけるスピリチュアルな問題というのは,細かい宗教の話ではなく,その1点に尽きるのではないかと思います。

 こういう話をすると必ず「じゃあ,どうしたらいいですか?」という質問が来る。でも,「死にゆく患者さんと対面する」「精神的危機に陥った人の隣にいる」ということは,ある種,医師の宿命ですよね。だとすればそれは,僕が「どうすればいい」と答える筋の話ではなく,医療者一人ひとりが,自分の頭と身体で向き合い続けなければいけない課題ということなんじゃないかと思います。

次回へつづく

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