医学界新聞

連載

2007.07.09

 

生身の患者仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -

[ 第4回 スピリチュアル・ブーム(1) ]

名越康文(精神科医)


前回よりつづく

スピリチュアル・ブーム

 最近,テレビや雑誌を見ると「スピリチュアル」という言葉が飛び交っています。1つのブームといっていいでしょう。僕は,テレビに登場するいわゆる「霊能者」の話にあまり強い関心はありませんが,今の「スピリチュアル・ブーム」といっていいような状況については関心と,少しだけ危惧を抱いています。それは,僕自身がかつて体験した「スピリチュアル」な世界と,現在のスピリチュアル・ブームでのそれとの間に,強い乖離を覚えるからです。

80年代のスピリチュアル・ムーヴメント

 20-30代にかけて,僕は瞑想センターにも通いましたし,いわゆるニューエイジの流れをくむようなグループ療法も体験しました。そこには文字通りスピリチュアルな要素が,さまざまな形態で取り入れられていました。

 僕が体験してきたスピリチュアリズムがどのようなものだったのか,少し具体的にお話ししましょう。

 例えばグループ療法では,プログラムを通して,初対面の参加者同士のコミュニケーションを少しずつ積み上げて行きます。他者と何かを共有することによって,自分の底から沸きあがってくるような強いエネルギーを実感し,それを増幅していくことがグループ療法の肝であり,スピリチュアルな体験もそのなかで生じ,それこそそれまでの人生で体験したことがないような強い高揚感を味わうこともあります。

 ここで注意していただきたいのは,グループ療法では,次のステップとしての「揺り戻し」が必須のものとしてプログラム化されている点です。高揚感から冷め,参加者おのおのの家庭,友人関係,社会システムのなかに戻っていくための揺り戻しが必ず用意されています。

 なぜ揺り戻しを行わなければいけないか。それは,スピリチュアルな体験というものが,本質的に大きな危険を伴うものだからです。

 例えば,グループ療法を受けた直後は,身体と精神が解放されたような状態になり,他人の感情や思念がもろに自分の中に入ってくるように感じます。それこそ,喫茶店のグラスに水が入っているのを見ただけで,まるでキラキラとシャンデリアが輝いているように見える。「世界が違って」感じられるわけです。

 瞑想の場合も,感覚が非常に鋭敏になってきて,周囲の物音や,空気の流れ,匂い,雰囲気などが全部,自分の身体のなかに入ってくる。

 こうした体験を単なる過覚醒,あるいは高揚状態と呼んでもかまいませんが,大事なことは,それが本人にとっては感動的な体験であり,自分の「本当の力」が開放されたように感じられる,ということです。

 そんな状態ではそれこそ,自分の家族を見ただけで,感動して涙を流してしまうかもしれませんから,日常生活は送れません。また,表面上はうまく取り繕っていても,内面で「私は神に会った,他の人間とは違う」といった状態が続いてしまうのは一番危険です。こうした状態に陥ることを避けるために,グループ療法などでは必ず「戻ってくる」ことをプログラム化していたわけです。

身体性の碇・他者性の碇

 ではどのようにして戻ってくるか。これはいろいろな方法があるのですが,共通するのは「身体性」と「他者性」ということです。身体を忘れて,意識だけの世界だけに閉じこもれば,人間は万能です。それこそ「悟りを得た」と感じること自体は,意識の世界だけに閉じこもってしまえば,案外簡単なのです。

 だから必ず,身体的な「碇(いかり)」をおろしておく。

 例えば瞑想って,かなり窮屈な姿勢を要求しますよね。あれは,そういう姿勢によって,身体感覚から離れて意識が暴走してしまわないようにする意図があるのだと思います。瞑想中にどんなイメージが見え,音が聞こえてきたとしても,必ず身体感覚に軸足を置いてやりすごすわけです。

 「他者性」の碇も重要視されます。グループ療法の場合,それぞれの体験をグループでシェアすることで,公共的な世界に戻ってくることを忘れないようにする。例えば「瞑想してたら私の頭のうえにタヌキがたくさん出てきて」といった話をすると周囲が笑う。

 そういう現実の他者とのコミュニケーションがあってはじめて,自分の脳内世界と物質世界の間での,自己の立ち位置を確認することができるわけです。

 他者というのは,自己にとって,強烈なプレッシャーを与える存在であり,自己の内面に大きな影響を与えるものです。他者がどう感じているか,どうふるまうのか。

 そこに感じる大きな壁や距離感を越えていくというのはなかなかたいへんなんですが,だからこそ,スピリチュアルな体験を消化していく過程においても,ものすごく大切な要素となるし,意識の暴走を止める碇となりえる。自分自身の立ち位置を微調整し続けるための鏡のような存在として,他者ほど格好の存在はないんです。

「日本的便利さ」の行き着く先としてのスピリチュアル・ブーム

 かつてのスピリチュアル・ムーヴメントには,安全弁がたくさん用意されており,「意識の暴走」を許さない仕組みが念入りに工夫されていた。そういう文化のなかでスピリチュアリズムと出会った僕から見ると,昨今のスピリチュアル・ムーヴメントは,あまりにも安全弁が弱いように感じます。もちろん,テレビや雑誌で消費されているスピリチュアリズムは表面的なものですから,かつて80年代に行われていた強力な体験とは比べるべくもないといえるかもしれませんが,浅い体験だからこそ,独特の問題を生む可能性があると思うのです。

 現在のスピリチュアル・ブームにおけるスピリチュアル体験は,ほとんど個人のなかで完結しています。テレビや雑誌を通していわゆる霊能者と接し,自分の内面で生じた超越的な体験を,ある種,純粋培養的に自分のなかで育むケースが圧倒的に多い。

 先にも申し上げたように,スピリチュアルな体験をすること,そこで感動を覚えること自体は実に簡単です。

 しかし,そこに身体性・他者性の碇がなければ,悩みや劣等感を捨て,全能感のなかで生きることはできても,一歩踏み込んだ関係を他者と結ぶことは非常に難しくなってしまいます。

 他者との価値観の違いや違和感というのは苦痛ですが,苦痛だからこそ,人はそれを吸収・消化するなかで,非常に端的にいうと,成長することができる。全能感の中に埋没してしまった人は,苦痛を感じない分,成長することもできなくなってしまうということです。

 スピリチュアルなものがそのように消費されるようになってきたことには,ちゃんとそれなりの理由があるように思います。私たちの社会はそもそも,そういう他者との軋轢をできるだけ遠ざけることを,「発展」と位置づけてきた歴史がある。一言でいえば,社会全体で「便利さ」を追求してきたということであり,そういう「日本的便利さ」の行き着く先として,スピリチュアル・ブームが満を持して登場したのではないか,という気がしてならないのです。

この項つづく

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