医学界新聞


母の願い(2)

連載

2007.01.08

  〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第99回

延命治療の中止を巡って(8)
母の願い(2)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2712号よりつづく

〈前回までのあらすじ:1976年,ニュージャージー州最高裁は,遷延性植物状態の患者カレン・クィンラン(入院時21歳)から,人工呼吸器を外すことを認める歴史的判決を下した〉

一致した家族の意見

「クィンランさんですか。こちら,ニュートン・メモリアル・ホスピタルですが,お嬢さんが集中治療室に入院されました」

 どんな親にとっても悪夢としかいいようのない電話がかかってきたのは,1975年4月15日のことだった。手塩にかけて21年間育ててきた娘は,病室でただぐっすり眠っているように見えた。人工呼吸器につながれ,鼻からは栄養を補給するためのチューブが入れられていた。

「昏睡状態です。でも,回復を早める可能性がありますから,普段通り,ご家族で話しかけてください」

 看護師の勧めに従って,カレンに話しかける毎日が始まったが,カレンは一向に反応する気配を見せなかった。

「もう,娘は元には戻らない」

 そう覚悟したのは,母親のジュリアが最初だった。悪夢のような電話がかかってきてから2か月ほどが経っていただろうか。やがて,カレンの妹と弟も,これ以上,呼吸器につなげることに意味はないとジュリアに同意するようになった。いつか奇跡が起こると祈り続けていた父親のジョーも,ついに,治療の継続に意味がないと諦めるようになった。カレンは,自分の意見を忌憚なく言う娘だったが,「もし,自分で決めることができたなら,こんな状態で生き続けることなど,きっと望まないに違いない」ということで,家族の意見は一致したのだった。

「スリーピング・ビューティ」

 病院に対して「呼吸器を外してほしい」と要請したときにはもう夏になっていた。病院は,初めは同意したものの,なぜか2日後に「要請は受け入れられない」と,態度を一変させた。「カレンさんは,21歳。成人ですから,法廷で『成人後見人』の指名を受けてください」というのだった。

 法律相談所で相談に乗ってくれた弁護士の勧めに従って,裁判所に後見人指定を請求したのは9月だった。娘のためにと思って始めた請求が歴史的大事件になるなど,誰も想像さえしていなかった。翌日の新聞に,“娘を殺すことを認めてほしいと,父親が訴え”という見出しが踊っているのを見た途端,ジュリアはショックで泣き出してしまった。

 その日から,自宅の回りを報道陣が取り囲む,プライバシーのない生活が始まった。やがて,新聞に高校卒業時のカレンの写真が掲載された。美しい顔立ちと長く伸ばした黒髪に,世間はカレンに対して「スリーピング・ビューティ」のイメージを抱くようになったが,実際の病室の姿はそんな世間のイメージからはほど遠いものだった。口から流れっ放しのよだれ,時折上げる苦しげなうなり声,拘縮して捻れ曲がった四肢,……。メディアが,病室の娘の写真を撮ろうと機会を窺っていることはわかっていた。写真を撮らせてくれたら高額の謝礼を払うという申し出をする社さえあったが,ジョーとジュリアにとって,変わり果てた姿の娘の写真を世間にさらすことは絶対にできることではなかった。カレンの祖父母が見舞いに来たときでさえも,「ショックを与えてはいけない」と,いつも,首から下は絶対見せないように気を遣っていたほどだったのだから……。

無視された判決

 2か月後,一審は家族の請求を退ける決定を下した。それだけでなく,判事は,父親のジョーは後見人になるには不適と,第三者を後見人に指名した。娘の生死に関わる判断を下す権限が,まったくの赤の他人に委ねられることになったのだった。

 敗訴から数日後,容易な決断ではなかったが,一家全員の意見が一致,控訴することを決めた。ニュージャージー州最高裁が一審の決定を全面的に覆す歴史的裁定を下したのは,カレンが22歳の誕生日を迎えた2日後,76年3月31日のことだった。一家にとっては望み通りの裁定であったが,望み通りの裁定を勝ち取ったとはいっても,とても喜ぶことなどできなかった。「これで,カレンと別れることになるのだ」と思うと悲しみで胸が塞がれてならなかったからだ。

 一家は,裁定通りの処置が下されるものと信じてカレンとの別れに備えたが,驚いたことに,医師も病院も判決を無視し続けた。呼吸器を外すことはもとより,判決が命じた倫理委員会の設置さえも行われなかった。主治医たちは廊下ですれ違っても,家族に挨拶することさえしなくなった。

予想外の結末

 州最高裁の判決から6週後,家族からの要請で,双方の弁護士立ち会いの下に話し合いがもたれた。その翌日,医師たちは家族に「呼吸器の離脱を始める」と告げた。「ゆっくり,慎重に離脱しますから」というのが医師たちの説明だったが,両親は,カレンとの別れに備え,終日ベッドサイドに付き添うようになった。

 5日後,離脱が成功,カレンは呼吸器が外れた後も,自らの呼吸で生き続けた。医師たちは,「もう,呼吸器が外れたのだから,うちの病院で入院を続ける必要はありません。どこか他に移る場所を探してください」と,退院を迫った。裁判が終わった後,9年以上もカレンが生き続けることになるなど,誰も夢にも思っていなかったのだった。

この項つづく

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