〈前回までのあらすじ:1976年,ニュージャージー州最高裁は,遷延性植物状態の患者カレン・クィンラン(21歳)から,人工呼吸器を外すことを認める歴史的判決を下した〉
ジョーもジュリアに好意を抱いたことは,突然,ベビーシッターの仕事に熱心になったことからも明らかだった。二人とも,毎週土曜日の,ジョーのベビーシッターを楽しみにするようになった。ジョーの姉の家のドアを開け放しにしたまま,二人は廊下で談笑にふけったものだった。
ジョーは6人兄弟の末っ子,父親はジョーが12歳のときに亡くなっていた。寡婦となった母を助けるために高校を中退しなければならなかったが,父親を早くに亡くしていただけに,ジョーは,自分が子を持つ父親となった後,「どうか子供が育つのを見届けられますように」と,毎晩欠かさず祈ったものだった。
帰還後,陸軍病院での治療とリハビリを終えたジョーは,ニュージャージーに戻った。しかし,ジョーは,ジュリアと電話で話すことはしても,直接会おうとはしなかった。片腕を失った姿をジュリアに見せる勇気がなかったからだったが,ジョーと会う勇気がなかったのはジュリアも同じだった。
勇気を奮い起こしたジョーが,ついに,ジュリアの家を訪れた。はにかむように微笑むジョーの笑顔は変わっていなかった。ジュリアは,ジョーに対する愛が変わらないことを確信してはいたものの,同情と混同しているのではないかと言われると自信が持てなかった。初めて再会した日,ジュリアは,ジョーに義手をはずすように頼んだ。切断端をまともに見ることができるかどうか不安だったが,まともに見ることができれば,ジョーに対する愛情を確かめることができるように思ったからだった。義手をはずしたジョーの顔と切断端とをかわるがわる見た後,ジュリアは切断端に口づけをした。
一方,幸せな家庭を築きたいと,二人は子供を授かることを願ったが,なかなか願いはかなわなかった。妊娠しては流産するという悲しい体験を3回繰り返した後,幸い,4回目の妊娠は無事に経過した。陣痛が始まるや,夫は,猛スピードの運転でジュリアを病院に運んだ。しかし,夫を待合室に残し,分娩室に入った直後,状況が一変した。医師が「赤ちゃんはお腹の中で死んでしまった」と告げたが,病院に着いたときには元気にお腹を蹴っていただけに,「死んだ」と言われても容易に信じることはできなかった。
入院中,同室の患者は子供を授かったばかりの母親,幸せそうな声が響く病室の中で,悲しみを堪えなければならなかった。夫も深く悲しんだことに変わりはなかったが,今と違い,当時は,男は泣かないものと決まっていた。「死産だったから埋葬しないといけない。でも,洗礼を受ける前に死んでしまったので,一家の,カソリック墓地には埋葬できない」と夫から告げられたときには,一層悲しみが募った。死んだ子供には何の罪もないはずなのにと思うと,教会の規則が理解できなかった。
退院の際,医師は,「あなたは一生子供が持てないから,諦めたほうがいい」と冷たく宣告した。家に戻った後には,「生まれてくる赤ちゃん用に」ともらった贈り物を,友人や親戚に返す,つらい仕事が待っていた。
「子供を受け取りにくるように」と,教会から突然の連絡を受けたのは,死産から9か月が経った1954年4月のことだった。すぐに駆けつけたが,男の子なのか女の子なのか,性別を尋ねることを忘れるほど,あわてていた。
修道女に抱かれ,チャペルで待っていたのは,生後1か月の愛くるしい女の子だった。ジュリアとジョーのクィンラン夫妻は,「神様から授かったかけがえのない贈り物」に,カレンと名付けたのだった。
(この項つづく)