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第3305号 2019年1月14日


【新春企画】

♪In My Resident Life♪
失敗を重ねた者だけが成功に近づける


 「人生で何度も何度も失敗してきた。だから私は成功した」(マイケル・ジョーダン)。

 研修医の皆さん,あけましておめでとうございます。研修医生活はいかがでしょうか。患者さんとコミュニケーションがうまく取れない,知らない略称が多く上級医の会話がわからない,なんてこともあるかもしれません。でもそんな日々こそが成功へと続く道なのです。

 新春恒例企画『In My Resident Life』では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
①研修医時代の“アンチ武勇伝”
②研修医時代の忘れえぬ出会い
③あのころを思い出す曲
④研修医・医学生へのメッセージ

石丸 裕康 迫井 正深 本田美和子
小船井光太郎 松本 俊彦 南 太郎


ポケベルとピーイーと私

石丸 裕康(天理よろづ相談所病院救急診療部部長/総合診療教育部副部長)


①「大学病院の研修ではまともな医師にはなれない」という,学生時代いろいろ面倒を見てもらった医師の話を真に受け,当時レジデントを全国公募していた天理よろづ相談所病院の門を叩いた。同期は12人。皆やる気はあるけど,ちょっと変わった連中であった。

 採用初日のオリエンテーション。社会人になり,初めてのボス・今中孝信先生からの指令は「1日2回は必ずベッドサイドを訪問せよ,そのうち1回は椅子に腰掛けて患者さんの話を聞け」。そんなの楽勝じゃないかと思ったが,仕事を始めてみるとたちまちその難しさを実感する。朝のカンファレンスに始まり,病棟業務,検査,コンサルテーションと走り回る毎日。何をするにも手間がかかり,たちまち時間が過ぎていく。消灯前になんとか患者さんの回診を済ませ,カルテを書いたり調べ物をしたりするといつの間にか日付が変わっている,という毎日であった。

 何よりも怖かったのは,先輩レジデントであった。病歴聴取・診察の仕方からアセスメント,プレゼンテーションなど事細かに厳しく指導された。

 病棟業務に少し慣れたころ,胃がん手術のために入院した患者さんを担当した。術後数日たち,落ち着いている状況と思い友だちと飲みに出掛けたのだが,宿舎に帰ると院内呼び出し用のポケットベルに何回も呼び出しが入っている! 慌てて病棟に駆け付けると,落ち着いているはずの患者さんが呼吸困難を急に訴えたらしい。私が呼び出しに応じなかったため,居合わせた数人の先輩レジデントが私の患者を取り囲んで診察しているところであった。

 「どこ行ってたんですか!!」と担当看護師。酔いも一瞬でさめ,青ざめる私。「石丸,この患者さんはおそらくピーイーや!」と先輩。実はその時不勉強で,ピーイーが何のことかさっぱりわからなかった。緊迫した雰囲気の中「それ何のことですか?」とも聞けず,「はっ,確かにピーイーのようですね……」と適当に話を合わせつつ,その場の議論からヒントを得ようと必死に耳を傾けた。「術後……」「酸素投与に反応がいまひとつ……」「胸部X線では大きな異常がないな……」。国家試験で得た知識をフル回転した結果,どうやらピーイーとは肺塞栓症(pulmonary embolism)の略称のようだとなんとか気付いた。

 恐縮して頭を下げてばかりいた私に,「頭を下げる必要はない,今は患者さんを良くするために何ができるかをまず考えようや」と先輩。怖い先輩はいざという時頼りになる先輩でもあった。

②なんと言っても多くの良き指導医と出会えたこと。細かい知識はともかく,医療の原理原則を学ばせようとする指導医に恵まれた。

③研修1年目が終わるころ,寿退職する看護師さんの送別会に出席した。困った時にさり気なく助けてくれた看護師さんだった。宴もさなか,興に乗ったコワモテの先輩が,「石丸,歌うぞ!」と。選曲は当時はやりのウェディングソング,「部屋とYシャツと私」(平松愛理)!? ダミ声で歌う酔っ払いの姿に,酔いもあって皆大笑い。会の終わり際,「いろいろお世話になりました」と声を掛けると,彼女がポツリ,「先生はきっと良い医師になりますよ」。

 私の何を見てそう思ってくれたのかは定かではないが,失敗ばかりで,まともな医師になれるのか不安であった日々の中,そのように見てくれていた同僚がいたんだと思うと,なんだか元気が出てうれしかった。この歌を耳にするとあのころのことを思い出す。

④初期研修の間はスマートにいかず,悔しかったり,悲しかったり,時にうれしかったり,喜怒哀楽の激しい毎日だと思います。振り返ると,感情を動かされる機会が自分の成長につながったように思います。ぜひそのような機会を大切にしてください。


指示書“写経”を働き方改革

迫井 正深(厚生労働省大臣官房審議官)


①外科医に憧れて医学部に進み,卒後迷わず外科を選択した私。医局ローテーションの最初は大学病院で,外科とはいえ仕事の大半は病棟での指示出しやカルテ書き等の雑用。それでも,尊敬できる指導医や愉快な仲間に囲まれて充実した日々でした。

 指示出しは,今と違って複写紙に手書きで検査や処方内容等を細かく記入し手渡し。術前・術後の指示はほぼ定型的で同じような内容の繰り返し。連日の指示書“写経”は明らかに外科医の仕事じゃない! 私は高校時代からPCを組み立てるコンピューター・オタクだったので,同じ内容を書くだけならPCにやらせればいいと主張。医師控室の狭い自席の足元に当時まれだった自前のPCとプリンターを持ち込み,メニュー化した点滴や検査等の指示をプリント処理していました。今思えば先進的だったのかも。しかし指導医からは,狭いのに邪魔だの,手で書いたほうが早いだのと“酷評”。それでも意味のある仕事に専念したいと私も譲らず,言うことを聞かないヤツと不興を買いました(看護師さんたちは「読みやすいネ」って)。今日の働き方改革に通じる経験です。

 2年目からは静岡の高速インターチェンジ沿いにある外傷バンバンの基幹病院。外科は3大学からの医局派遣がしのぎを削り,手術の術式から術前後の管理までそれぞれの流儀がある。同窓・同医局の“温室”では当たり前だったことが混成部隊では通用しないのです。やることなすことが同僚医師のみならず看護スタッフにも批判されたり受け入れられなかったり。つらい日々が続きました。

②転機は夜行バス乗客・40代の急患。嘔吐による食道破裂で緊急手術,縦隔炎を併発し,以降,壮絶な創部と全身の厳しい管理が続く。病棟スタッフの負担も大きく,最初は治療方針に対して反発も。しかし連日・連夜の地道な努力を通じて同僚とさまざまな思いを共有,いつしか信頼され充実した外科研修の日々に変わっていきます(その患者さんは無事退院,その25年後に首長となって再会)。“他流試合”の意義とともに,ひたむきさ・粘り強さこそが医療の基盤だと身に染みました。

 担当患者の疾患はがんが中心。良性疾患は少ないものの,前述の方と同様その後の交流があります。当時,小学校1年生で外傷性肝破裂の男児を救命。先日,結婚式に恩人として招待され,あいさつする機会を得ました。「外科医は患者さんの生命力に寄り添っているだけ,それを実際に教えてくれた新郎こそ私の恩人」と当時感じたことを本心から伝えました。今は臨床を離れましたが「患者さんから学ぶ」,「現場から学ぶ」,この姿勢は全てに通じるものと信じています。

 大勢のがん患者をお見送りしました。一人のスキルス胃がんの若い患者さんとのやりとりが今も私の心にあります。厚生省への転職が決まり患者さんたちにそのことを伝えます。誰だって主治医交代は避けたいもの。その女性も私を見るたびに泣いてた。最後の回診,笑顔で手紙を渡された。「先生は日本の医療を良くするためにこれから頑張る,だから私も我慢して頑張る,もう泣かない」と書いてありました。入省後しばらくして,その方は亡くなった。

 行政職は感謝されることはまれです。どんなに努力してもマスコミ等から厳しく批判され,逃げ出したいような気持ちになるもの。でも私は逃げるわけにはいかない。あの患者さんとの約束を果たせるまで。

③「TRAIN-TRAIN」(THE BLUE HEARTS)。多忙な1日が終わった午前1時ごろから準夜勤後の病棟ナースたちとよくカラオケに行きました。同期研修医M先生のおはこ。

④人生,そう計算したようにはならないもの。アナログな感性・その時々の直感を大切にしてほしい。

写真 「救命した肝破裂の患者さんと。27年後に再会しました。」(迫井氏)


今につながる3つの言葉

本田 美和子(国立病院機構東京医療センター総合内科医長)


A. 私がどこか痛いことをあなたは期待しているの?
 研修医にとって,チームの回診の前に患者さんの様子を把握しておくことはとても重要です。自分が知りたいことを患者さんから教えてもらうために「どこか痛いところはありませんか?」とよく尋ねていました。ある朝「おはようございます。今日の調子はいかがですか? どこか痛いところはないですか?」といつものように話し掛けた時,「おはよう。いつもそう尋ねるけど,私がどこか痛いことをあなたは期待しているの?」と患者さんが語気荒くおっしゃいました。もちろん,そんなつもりはありません。でも,自分の言葉に,意図せず相手を傷つける要素がある可能性があると教えてもらえたことは,その後の自分の話し方を改めるきっかけとなりました。

B. 洗った足が戻るところはどこだ?
 ホームレスの男性が,足が痛いと救急外来を訪れました。ブーツを脱いでもらうと,右足趾の軽い蜂窩織炎です。しばらくお風呂に入っていない様子でした。ブーツの中もとても汚れています。患部を洗って処置をしようと,桶にお湯を入れて持ち歩いていた時に指導医から声を掛けられました。
 「足の小指を洗うのに,何でそんなにたくさんお湯がいるんだ?」「あの,足がとても汚れているので両足をまずは洗おうと思って」「待て。君がきれいにした足が戻るところはどこだ? あのブーツだ。一瞬きれいになっても,あのブーツを履いて帰るんだよ。自分では良いことをしてると思うかもしれないが,それでは何も変わらない。どうしても洗いたいんだったら自分の家にお連れして,新しいブーツも買いなさい」。なんてひどいことを言う指導医なんだ,これが米国流の合理性なのか,と私は憤って心の中で悪態をつきました。しかし,「目の前の問題を短期的に解決することが生涯にわたるその人の暮らし全体の問題解決に寄与するとは限らない」ことがよくある高齢者医療の現場において,あの指導医の言葉は一つの真実を突いていたと思い返しています。

C. 自分が言いたいことではなく,相手が聞きたいことを話す
 とても尊敬する先生にお目にかかり,自分が困っている症例について相談する機会を得ました。たくさんのことを教えていただいた後で,その先生がおっしゃいました。「良いプレゼンテーションで一番大切なことはなんだと思う?」。言葉に詰まる私に,その先生は「自分が知っていることをある限り話すことが良いことだと考えがちだけれど,大切なのは,自分が言いたいことを話すのではなくて,相手が聞きたいと思っているだろうことを,想像しながら組み立てて話すことなんだよ。それが皆なかなかできない」。もちろん,その時の私もそうでした。

②A,B,Cの話をしてくださった方々。Aの患者さん,Bの指導医のお名前は忘れてしまいました。Cの先生は,米カリフォルニア大サンフランシスコ校のローレンス・ティアニー先生です。

③「ひとつだけ」(矢野顕子)。大切なことは何かについて考える歌詞は,追い詰められていると感じている時には明かり取りの窓のように思えました。後に矢野顕子さんに,この曲がどんなに力になってくれたかを直接お伝えすることができてとてもうれしかったです。

④研修医時代の出来事は,良いこともそうでないことも全部その後の人生に役立ちます。どうぞ楽しんで過ごしてください。


テロにヘヴィメタルバンド?

小船井 光太郎(東京ベイ・浦安市川医療センター循環器内科部長)


①②医師3年目に「米国で循環器内科医になりたい!」と思い,ニューヨークでインターンとして再スタートを切った。もともと英語は苦手であったが,要領良くプレゼンテーションする同僚を初日に見つけてピッタリマーク,徹底的にまねする作戦で,米国でのインターン生活は順調にスタート,したかのように見えた。

 そして2か月目初日,前の晩にERから入院となった30代のアフリカ系米国人患者さん(仮にタイロンとしよう)は片足がなく,肥満体形,ベッド上に片肘をついて寝転んでいた。私を見るなりラッパーのような特有の言葉遣いとアクセントでマシンガンのように話してくる。何を言っているかほとんどわからない。何度か聞き直すと「このAsianドクターは英語が全然わからない,ありえねーなー」といった感じでバカにしてくる。何を言ってるのかを理解できず,こちらには完全に非協力的。当然上級医のレジデントへのプレゼンテーションは不十分。私を見る上級医の目も怪しくなり,焦り始めた。

 やがて気付いたことだが,タイロンは米国の医療システムを熟知していた。どのように振る舞えば入院できるか,どうすればメディケイド(低所得者や身体障害者など向けの公的医療保険)受給者の自分は都合の良いサービスを受けられるか。

 指導医回診の前の日,「タイロンさん,状態は落ち着いたから明朝には退院とする方針です」と伝えたところ,「明日は指導医との回診だろ? 俺は知ってんだ,お前のようなインターンにとってそれがどんなに大事か。指導医の目の前でお前がどんなに無能で英語がわからないか披露してやるからな!」。正直背中が凍り付いた。実際の回診では,ニューヨーカーの指導医がユーモアを交えて彼のマシンガントークに見事に対応したため,私への辛辣な評価は出ずに終わった。タイロンはその数日後に「今日退院する」と言って勝手にいなくなった。

 2年目の2001年9月11日,私はERローテーション中だった。ワールドトレードセンターが崩落し,多くの犠牲者が運ばれてきた。

 「Anthraxの可能性もある! 対策を取らないと!」とERの上級医が言ってくる。その時,「Anthraxって,(1980年代の)ヘヴィメタルバンドのあのAnthrax? 何でこんな時にヘヴィメタルの話をしているんだ?」と本気で思った。後で調べてAnthraxが炭疽菌のことであるとわかったのは,自分の中での笑い話である。そういえば感染症は苦手だった。その年に感染症フェローとして来た岩田健太郎先生(現・神戸大)の下で選択研修を行った際も,「小船井先生,このままじゃ指導医から良くない評価をもらっちゃいますよ!」と心配された。「岩田先生,私もわかっているんですが,感染症だとどうしても体に力が入んないんです……」と情けない答えを返したことを覚えている。岩田先生もあきれたであろうことは想像に難くない。

 その後,高倍率を何とかくぐり抜け念願の循環器内科フェローになり,さらに激戦の末コロンビア大で心血管インターベンションフェローになった。ここで出会ったDr. Jeffrey Mosesという世界的に有名な心血管カテーテルの大家には,「米国人は人前では叱らない・怒鳴らない」という私の中の常識を完全に覆された。カテーテル治療中のフェローを完膚なきまで怒鳴って叱るのだ。治療を受けている女性患者さんが,「Dr. Moses,この若いドクターをお願いだから叱らないで! 彼は今私の心臓を手術しているんだから!!」と思わず叫んだのも一度ではない。一生分怒鳴られた。

④EBM,ガイドライン,標準的治療を求めて米国で学んだわけだが,やはり,苦難で傷つき成長する,という泥臭い方法は後から考えると何にも代え難いもの。瀕死状態にまで追い込まれた,と思っても,その先には超回復が必ず待っています。今思い出して書いていると,苦しさも思い出されますが(笑)。

写真 ベスイスラエルメディカルセンター前にて,米国同時多発テロ発生直後,犠牲者の搬送に備えるスタッフたち(小船井氏撮影)。


いつも眠かった――夜型体質の研修医

松本 俊彦(国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長)


①研修医時代,私はいつも眠かった。なにしろ医学生時代にあまりにも怠惰な生活習慣が身につきすぎた。当時の私の母校は,「講義の出席は取らない。留年制もない」と楽園のような大学だった。私はそれを悪用し,入学直後より講義にほとんど出席せず,夜通し好きな小説を読み,レンタルビデオショップから借りた映画を見まくり,日中は死んだように眠り続けるという絵に描いたようなダメダメ生活を謳歌していた。

 しかし,5年生になった時,「このままでは医師になれない」という現実に直面し,大慌てで勉強するはめになったのだ。私は,病棟実習の合間を縫って再試験を受けまくり,取りこぼした単位を修羅のごとき勢いで取りまくった。最終的には,この2年間の努力で医学部を卒業し,ギリギリセーフで医師になることができたが,あれはどう考えても奇跡だったと思う。

 とはいえ,医師になったからといって,染みついた夜型体質が急に変わるものではない。日中はいつも眠くて仕方なく,病棟カンファレンスが始まるや否や,あたかも条件反射のように意識が遠のいてしまうのだ。そのせいで指導医からはよく,「おまえはナルコレプシーか」と叱責されたものだった。

 それだけではない。精神科医になろうと決めていたのにもかかわらず,私は柄にもなく研修医1年目に半年間も脳外科をローテートしたわけだが,そこでは,オペ中に居眠りをして手術用顕微鏡に頭をぶつけるという失態まで演じたのだ。その際,術者をしていた准教授から「じゃーま!」と怒鳴られた時の恥ずかしさは今でも忘れない〔ちなみに,テレビドラマ『ブラックペアン』を見た際,渡海医師(二宮和也)が研修医・世羅(竹内涼真)に「じゃーま!」と怒鳴るたびに,心の古傷がえぐられる思いがしたものだ〕。

②こんな私が「覚醒」できたのは,研修医2年目の1年間,脳外科時代の指導医から押し付けられた,人手不足の二次救急病院での脳外科当直バイトのおかげだった。その病院は当直中に一睡もできない野戦病院だったが,これが夜型人間の私にぴったりハマッた。当直中の私は,日中とは別人のように元気で頭もさえていた。

 搬送されてくるのは,たいてい頭部外傷や脳血管障害の患者であったが,それに混じって少なくない数のリストカット患者もいた。そうした患者の多くは精神科治療中であるか,さもなければ,繰り返す自傷行為を理由に精神科クリニックから診療を断られた人たちだった。これは,大学病院の精神科では研修できない,精神科医療のダークサイドを目の当たりにする経験であった。

 それにしても,その病院で私に縫合された患者はつくづく不幸だったと思う。というのも,脳外科しか外科系研修をやっていない私にとって縫合したことがある部位といえば,もっぱら頭皮だけだったからだ。言うまでもなく,頭部は皮膚が硬く,後に髪の毛で隠れてしまう部位である。だから,縫い方はどうしても「止血さえできてれば良いよね」といった,手首や前腕に似つかわしくないワイルドなものとなりがちだ。おそらく私に処置された患者の手首には,いまだに醜い傷痕が残っているに違いない。今だから告白するが,後に私が取り組むことになった自傷行為の臨床研究には,その時の申し訳ない気持ちや,罪滅ぼしの念が無視できないほどの影響を与えている。

③R. ケリーのアルバム「12 Play」。当時,はやっていました。全編ひたすらエッチな歌詞で,禁欲的な日々を送る研修医には刺激が強すぎて,それだけに忘れられない。


英語におびえ,首におびえる暗黒の1年

南 太郎(米ブラウン大学医学部内科准教授)


①学生時代から英語は得意なほうで,少しは英語ができるつもりで米国はニューヨークにて臨床留学を始めたのが今から15年ほど前のことです。いざ研修が始まってみるとさあ大変。相手の話し掛ける英語がとんとわからないのです。

 最初のローテーションは救命救急室でした。相手のしゃべる英語のスピードがあまりにも速すぎるのに驚きました。「これは嫌がらせではないだろうか? そんなに『わざと』早くしゃべったら相手は聞き取れないだろうに」と勝手に憤っていました。しかし,不思議なことにその「わざと」速い英語を他の人はちゃんと理解しているのです。謎は尽きませんでしたが,しばらくすると,相手のしゃべる英語が速すぎるのではなくこちらの聞き取り能力が悪すぎるのだ,ということが薄々とわかってきました。えらいこっちゃです。

 当時の入院カルテはまだ紙で,数ページにわたる空欄を埋めねばなりませんでした。「いったいこの膨大な空欄を英語でどのように埋めろというのだ! 症例報告じゃあるまいし,大学入試だってこんな長文は書かされたことがないのに!」と理不尽な怒りに震えたものでした。周囲を見回すに,同僚はいかにも「ルーティン」と涼しい顔でさっさと入院カルテを書き終えていくではありませんか。こちらはまだ現病歴を書いている途中。え,ひょっとして僕って落ちこぼれ?

 症例をプレゼンすれば,目の前の指導医やレジデントが明らかに不機嫌になっていくのがわかります(きっつー)。米国人の同僚のプレゼンが光り輝いて見えました。おまけに,英語で電話をかけるのが怖くて(←あなた米国に何しに来たの?),同僚や看護師さんに電話をお願いする始末です。

 「お前の英語はなっちゃいねえ1)」と内科プログラムディレクターに呼び出しを食らったのは留学が始まって1か月がたとうとするころでした。あ,やっぱり?

 忙しい病棟ローテーションを回る予定が,暇な老年科コンサルトローテーションへの変更をいきなり命じられます。要は「左遷」です。おまけに「英語をもう少し勉強せい!」と英語の家庭教師までつけられる始末。留学早々に惨めな日々を過ごすはめに。まさか臨床留学が語学留学に変わるとは……。病棟で忙しく働く同僚たちが実に輝かしく見えました。

 このまま病棟に戻れなかったら,ひょっとして首? 渡米してから半年ほどは英語におびえ,首におびえる暗黒の日々を過ごすことになります。

 死に物狂いでなんとかサバイブしたインターンの1年を終え,気付けば早いもので留学してから15年がたちました。指導医となった現在,「英語でいかに苦労し落ちこぼれだったか」という記憶は都合良くeraseした上で,映画『GHOST IN THE SHELL』(2017年)よろしく「自分は実にいけていた研修医だった」という偽の記憶が上書きされています。したり顔で研修医に「君の症例報告は英語がまだまだ甘いねえ」と百年も前から完璧な英語を使ってきたような口調で指導しているのですから,人間というのは実に都合良くできているものです。時々子どもたちの「15年も米国にいるのに,なんでそんなひどい英語しゃべっているの?(きっつー)」という「赤いカプセル」2)で目が覚めますが。

②落ちこぼれインターン時代には人様の優しさが殊更身に染みました。たどたどしい英語でプレゼンしてもニコニコ聞いてくれた指導医(はぐれメタルレベルで極まれに出現)の存在は本当にありがたかったです。

 中でも当時ICU部長であったPaul H. Mayo先生(現・米ホフストラ大教授,写真)には本当に優しくしていただき,なぜか目もかけていただきました。そのおかげで「わかる人はちゃんとわかってくれるんだ」と妄想に拍車が掛かりましたが。

写真 研修医2年目の冬のパーティーにて,指導医のPaul Mayo先生(中央)と。右が南氏。「師匠はカメラの前では笑わないという謎の方針を貫かれています。」(南氏)

 当時は「喘息の専門家」だったMayo先生も今ではCritical Care Ultrasonographyの世界的権威となり,その関係で学会などで一緒にお仕事をさせていただいています。自分のClinician Educatorとしてのロールモデルで,今でも仕事をするたびに臨床家,教育者としての彼から学ぶことは実に多いです。ありがたいことです。

③ニューヨークでの研修医1年目に見た映画『Lost in Translation』3)(2003年)は忘れられません。異国の地,トーキョーで言葉がわからず戸惑う主人公にわが身を重ね涙したものでした。コメディー映画ですが。あ,テーマは音楽の話でしたか? すみません。映画のサウンドトラックを聴くと「暗黒の1年」がよみがえります。

④ボストンで働く南米出身の友人医師とお昼ご飯を食べながら話した時のこと。彼も外国の医学部を卒業し,非常に苦労して現在の地位までたどり着いた素晴らしい人です。「ほら,毎日嫌なことばかり起こるし,うんざりするし,愚痴も言いたくなるんだよね。でもさ,こうして米国に来て働けているだけでもラッキーじゃん,って思うようにするんだよね,ハハハー」という感じでさらっと言われてすごく衝撃的でした。

 確かに。思い返せば医学部に入れたのもすごくラッキーだったし,無事卒業できたのもすごくラッキーで,こうして医師として働き続けることができているのも実にラッキーだなあ,って思います。ご参考になれば幸いです。


1)明治・大正時代を代表する日本の英学界の巨人,斎藤秀三郎は英国人に向かって「てめえたちの英語はなっちゃいねえ」と英語で一喝したそうです。日本人が英国人に向かってですよ? 一度でいいからそんな台詞を吐いてみたいものです。斎藤兆史著『英語達人列伝』(中央公論新社,2000年)から。ちなみにこの本,すごく面白いのでお薦めです。
2)映画『The Matrix』(1999年)より。ちなみに青いカプセルを飲むと,マトリックスの提供する妄想世界に逆戻り。
3)ヒロインを演じるスカーレット・ヨハンソンは,くだんの映画で「米イェール大を卒業した才媛」という設定で当時輝いていたのに,今では実写版『GHOST IN THE SHELL』やマーベル・コミックの映画で,アクション女優として「あちょー」と蹴りをかましています。