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第3262号 2018年2月26日


【座談会】

「病いの語り」が描き出す悲嘆・人生・希望

江口 重幸氏(東京武蔵野病院 精神科・副院長)
東 めぐみ氏(東京都済生会中央病院 看護部・副看護部長)=司会
安酸 史子氏(防衛医科大学校教授・医学教育部看護学科学科長)


 精神科医で人類学者のアーサー・クラインマン氏の著書『病いの語り』(誠信書房)は,慢性看護領域にかかわる看護師をはじめ多くの医療者に今なお大きな影響を与えている(MEMO)。医療技術の高度化や複雑化が進めば進むほど見失われがちな「ケアをすること」の原点を見直し,その大切さを日々の臨床に効果的に取り込むにはどうすればよいか。

 本紙では,慢性疾患看護専門看護師の東めぐみ氏を司会に,クラインマン氏の著作の翻訳を多数手掛け,自身も精神科臨床に医療人類学的視点を取り入れている精神科医の江口重幸氏,慢性看護領域の人材育成・研究に携わる安酸史子氏の三氏の座談会を企画。「病いの語り」が描き出す,悲嘆,人生,そして希望を看護師がいかにくみ取り,実践につなげるかについて語られた。


 「病いは経験である」――『病いの語り』の最初の一文を読んだとき,慢性看護の本質を突かれたような衝撃を受けました。

江口 病いの経験にかかわること。それこそが医療やケアの中心に据えられるものである。医療者は狭義の疾患(disease)について熟知しなくてはいけませんが,個々人の病い(illness)の経験にも入っていかなくてはならない。その大切さを冒頭の一文は呼び覚ましてくれます。

 糖尿病は,初期は検査値のみで診断されるため,患者さんは「自分は病気」との感覚をなかなか持てません。すると,身体的ケアよりも言葉によるケアが主になるのではないか。そう考え取り組んできた私に,本書は多くの示唆を与えてくれました。

江口 現代医療が進歩すればするほど,専門化や細分化が進み,患者その人をまるごと受け止めることができなくなってしまう。これがクラインマン最初期の著作『臨床人類学』の中心テーマでした。医療者は患者にどう向き合えばよいか,それを乗り越えるためにはどんな方法があり得るのか。その後の医学教育への応用も含んだ,一貫した問い掛けだったと思います。

 2014年の来日講演で印象的だったのが次の言葉です。「ケアをすることは必然的に,ケアをされる過程と相互に結びついている」(本紙第3076号)。

安酸 看護理論家ヘンダーソンの「患者の皮膚の中に入ってケアをする」という表現とも通じます。

 実践家はそう願って実践していますが,臨床は複雑なものです。安酸先生は,「患者の立場に立ったケア」の教育について現状をどう見ますか。

安酸 看護学生は受け持ち患者さんの話をじっくり聞く機会があり,聞き方が上手でなくても感動や気づきがあったと目を輝かせてくれます。ところが,臨床に出ると日々の仕事に追われ患者の語りを聞く機会から遠ざかってしまう。ベナーは「一人前」と「達人」の間にはレベルの「跳躍がある」と表現していますが,その感覚を得るには患者さんの語りに耳を傾け,言語化するスキルを磨くことが欠かせないと思うのです。

 そうですね。そこで,ケアの言語化には事例を用いた検討が有効だと私は考えます。治らない病いを前に患者さんが希望を失ったとき,「病む人と共にある」とはどういうことなのか。本日は事例を交え,慢性の病いへの向き合い方を検討したいと思います。

語りを聞くための姿勢とは

 初めに,患者さんの語りを聞くためにどんな姿勢や態度が必要かお聞きします。安酸先生,いかがでしょう。

安酸 患者さんを前に,雰囲気や表情,言葉遣い,話すテンポは何が最適かを常に意識することです。

江口 医療者が「道聞かれ顔」でいることも大切だということですね。

 「道聞かれ顔」ですか。

江口 街中で,「この人には道を聞いてもよさそう」「道を聞かれたがっている」というホスピタリティの溢れた表情のことです(註1)。

安酸 少し“隙”のありそうな。

江口 ええ。私もそれをヒントに,病棟でも夕食が終わり落ち着いた時間帯などに「道聞かれ顔モード」で患者さんと話すことがあります。すると診察室では出ない話題がどんどん出てくる。

 「わざわざ聞くことでもないけれど……」といった話題も口にしてもらえれば,語りが膨らみそうです。

安酸 ICUに入院した経験のある元同僚の教員は,重篤な状況では信頼できそうな看護師によるケアを望み,回復して一般病棟に移ってからは世間話や冗談が言える看護師を待つようになった体験を話してくれました。

 患者からすれば,病いの重篤度が変わることで求めるケアの在り方も変わるわけですね。ケアをする/される相互作用があって両者の関係が成り立っていることに気づかされます。

江口 語りを引き出すための工夫や,余裕のある時間と空間が臨床の場にはもっとあってもよいのでしょう。これらを切り詰め効率化していくのが現代の医療や看護の特徴ではないでしょうか。特に慢性疾患では,その発想から切り替えることが重要だと思います。

 「話していいですよ」という雰囲気をあえて演出することで,患者さんも「語ろうかな」と思えるはずです。

生活史をひもとき語りを導く

 クラインマンの説明する「ヘルスケア・システム」は,ケア提供の場とはどこかを考える上で注目しています。

江口 『臨床人類学』の最初に出てくるキー概念ですね。

 江口先生はどうとらえていらっしゃるのでしょう。

江口 ごく簡単に言うと,どの社会においても,そこの人々はその土地の言語や宗教システムに組み込まれていますが,疾患や医療や癒やしということも,ひとつの文化システム,象徴的な意味のシステムとして構成されたものであるという考え方です(註2)。

 文化システムを知るには,患者さんの社会背景や生活史をとらえることが必要との理解でよいのでしょうか。

江口 そうですね。ヘルスケア・システムは狭義の疾患や医療にのみ収斂するものではないと私は考えています(註3)。

 病いの状態とは,それまでの安定した日常的な地点から,もうひとつ別の見知らぬ苦境へとはじき出される経験とも言えます。そのようないわば窮地に陥った個人や周囲の人にとって,どのような選択が癒やすことにつながるのか。ヘルスケア・システムは医療者や医療機関という領域だけではなく,地域コミュニティなど,広く社会的な側面も含んでいると考えます。

安酸 すると,人生という広い視点はケアを考える上で見逃せませんね。質問を繰り返すことで語り直されるその人の生活史を頼りに,将来の展開も推測できるようになるからです。

 人生にまで思いをはせ,語り直してもらうケアの意義は大きいでしょう。ここで私自身の事例を紹介します。

事例1
肝硬変末期の肝性脳症で入院する男性患者。40歳代で舌がんになり,舌は郭清して発語がうまくできない。点滴やバルーンを抜くなど暴れ,穏やかだったその人らしさを失っていた。落ち着いた頃を見計らい,病気後の暮らしを尋ねた。「舌がんになり自分の人生は終わったと思った」「やるせなくてお酒をたくさん飲んだから,こうして病院で寝ているんだ。自分が悪いんだよ」と責めていた。私はとっさに,「がんになったつらさを紛らわすためにお酒を飲んだのであれば,それも大切な行動だったのではないですか」と伝えた。すると,患者さんはポロッと涙を流した。

安酸 語りを聞く中で,お酒を飲んだことをあえて肯定したわけですね。

 はい。亡くなるまでの数日間は落ち着きを取り戻し,働いていた頃の思い出話にも花が咲いて,その方の歩んだ人生を共有することができました。

江口 疾患だけではない,それを含むライフヒストリーや人生について聞かれることで,当たり前に生きてきた「自分」を実感し直すきっかけになったのかもしれませんね。

安酸 病いの受け止め方は一人ひとり異なっても,現実に即した傾聴が本人の輝きを取り戻すことにつながるのではないでしょうか。

江口 普通の生活,輝いていた時代のエピソードは誰もが持っているものです。語り直す機会があれば,多様な病いの語りに結びついてくる。ライフヒストリーにさかのぼることは,何の希望もなく固定化してしまった部分がゆっくり動きだし,レジリエントなものに変化する大切なプロセスと言えます。医療人類学では「現実(リアリティ)の仮定法化」とも呼ばれ,それは聞き取る側にも大きな視点の転換をもたらすものです。

 患者と看護師に個と個の相互作用が生まれることで,看護師もこの先自分はどうかかわればよいか見えてくる。

江口 「病気を抱える人」「言うことを聞かない患者」ではなく,「生きてきた人」の一つの局面として理解し直し,再度真正面から接することでケアの大切な部分が賦活されるのでしょう。

クラインマンの「ケア論」と正岡子規の「介抱論」

 江口先生は講演などでたびたび正岡子規の作品も紹介されています。どのような点にひかれたのでしょう。

江口 子規の短歌や俳句,文章,さらには描画も含め,治癒することのない慢性の病いという苦境をめぐり,本人の経験や周囲の人の支援の様子が時にユーモアを交えながら詳細に読み取れるからです。『病いの語り』に書かれたケアをめぐる大切なことのほとんどが,すでに子規の文章に書き込まれていることを,私は読んで発見しました。

 クラインマンの著書と子規の作品に慢性の病いの共通した体験を読み取るとても興味深い考察です。

 看護師が患者の語りを聞くには,単に話を聞くのではなく,自分の価値観に基づいた色眼鏡を外し,現象学的な視点で見ることも必要だと考えます。長年短歌を詠んできた私は,日常生活を鋭く観察し作品を作る点にそのヒントが隠されている気がして,子規の作品にも関心を寄せています。そこで,子規の次の二首を紹介します。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 一首目は,花瓶に挿した藤の花が畳に届かないという描写から,限られた人生,やりたいことはまだあるけれど届かないとの隠喩が読み取れます。二首目も,「二尺」が過去から現在の薔薇の成長(変化)を端的に表現していますね。「二尺」を命の躍動として精緻に描く感覚から,ケアする者には患者さんの話をありのまま聞こうとする姿勢が求められるのだと学びます。

江口 子規の晩年の随筆には慢性疾患の経験が,医療者が思いもよらない形で深い部分まで記されています(註4)。

安酸 明治の時代にその視点を持っていたとは驚きますね。

江口 当時不治の病いだった結核に罹患した子規は,21歳の時,血を吐いたように口内が赤くて他界と往復する鳥とされる「ホトトギス(子規)」を自分の雅号とすることで,病者の役割を正面から引き受けようとしました。晩年の煩悶と絶叫と号泣を繰り返す苦境の中で書かれた随筆の中に,こうした経験から紡ぎ出された,子規の「介抱論=ケア論」が凝縮して展開されています。

 俳句や短歌,闘病記などから生活者である患者の語りをありのままに見る視点が養えるのではないでしょうか。病む人に向き合い耳を傾ける,医療者の資質を問い続ける大切さをあらためて実感します。

■病む人の,喪失と獲得を繰り返す中に私たちは介在し,共に考える

 慢性の病いで悲嘆と喪失のただ中にある患者さんには,耳を貸す人の存在が大切なのではないかと常々考えています。そこで次の事例を紹介します。

事例2
脳梗塞で右腕が麻痺した患者さん。高校の美術教師であるその方は,利き腕の右手で絵が描けなくなり「自分は教師としての価値を失った人間だ」とベッドから降りなくなってしまった。ところがある時担当看護師が,「○○さん,左手がありますよね」と発した一言で,その存在にはたと気がついた。しばらくすると洗面所で,左手で歯磨きをする姿が見られるようになった――。

 昼間,星を見ることはできません。でも,暗くなれば同じ空にはたくさんの星がある。同じ風景でも違った形で現れて見えてくるものです。慢性疾患を病む人たちの,何かを喪失し何か得ていく繰り返しの中に私たち看護師は介在し,今は見えないものを共に考えていく役割があるのでしょう。

安酸 おっしゃるように,今見えないものを考えるために現実を文章にするなど言語化し,次にどう生かせるかの思考を訓練することは大切になります。

江口 患者さんの語りから,その方の伝記,ライフヒストリーの文脈を浮かび上がらせることでその人の非人格化を防ぎ,聞き取る医療者側もそうした関心によって活性化されるのだと思います。慢性疾患のケアでとても難しい「もう一度士気を取り戻させること(remoralization)」が図られる部分です(『病いの語り』第15章参照)。

 その循環を生むにはやはり,話す人,聴いてくれる人,さらにそれを「大事なことだよ」と言ってくれる人の相互のかかわり合いが必要なのでしょう。

江口 クラインマンは2011年に,長く連れ添ったジョーン夫人を亡くされました。自宅でのケアをめぐるエピソードは『Lancet』誌のコラムに散発的に書かれ,そこでは「ケアとは何かというシンプルな事実を理解した」と述べています。

安酸 数々の著名な書籍を出した方でさえも,具体的な経験によって初めて見えるものがあったのでしょう。

江口 そうですね。私たちは,病いをもつ人の経験にどうやったら近づくことができるかという問いに戻ってくるようです。医学・医療が進歩する中でもその想像力をかき立て,語りを聴くことの大切さを思い起こさせてくれるのは,やや異なる方法論を持つ,例えば医療人類学などの人間科学的な視点を交差させていく行為ではないかと私は思っています。

 患者さんの今を,治療の延長でケアするのではなく,人生や内面という「その人そのもの」にもっと迫らなければならない。その意義を確認でき,自分の中にまた一つ風穴が空いたように思います。

MEMO アーサー・クラインマン(Arthur Kleinman)

 1941年ニューヨーク市生まれ。精神科医・人類学者。医療人類学のパイオニア的存在。ハーバード大医学部社会医学科,人類学部等の部門長,アジアセンター所長を歴任し,現在ハーバード大教授。医療人類学研究の初期は台湾と中国をフィールドとし,東アジアへの造詣が深い。何度か訪日しており,2014年にも東京・京都で記念講演を行い,その要旨は本紙第3076号(2014年5月19日)に掲載されている。著書(編書)に,『臨床人類学』(弘文堂),『病いの語り』『八つの人生の物語』(以上,誠信書房),『精神医学を再考する』『他者の苦しみへの責任』(以上,みすず書房)など。代表作『病いの語り』は,慢性の病いを抱えた患者やその家族が肉声で語る物語を中心に構成される。病いの経験,語りこそが医療やケアの中心に据えられるものであるとし,病いとその語りを,人類学的方法を駆使しながら社会プロセスとして描き出そうとしている。

(了)

註1:イタリアの街中で,「道を聞かれたがっている」表情でたたずむ人の顔を,人類学者の野村雅一氏は「道聞かれ顔」と呼んだ(『しぐさの人間学』河出書房新社)。
註2:さらに「説明モデル(explanatory model)」という,臨床人類学にとってもうひとつ重要な概念がここから導き出される。
註3:精神科医の中井久夫氏の言う「治療文化」に近い概念(『治療文化論』岩波現代文庫)。
註4:代表作『病牀六尺』(岩波文庫)では,今日のケアに当たる言葉を「介抱」と表現し,精神的な介抱と形式的な介抱があると分けて論じている。包帯の交換や食事の介助などの形式的介抱に対し,病む人にどう寄り添い励ますかという精神的介抱こそが大切であると指摘。子規は,自分の介抱の全てをゆだねた妹の律への不満を漏らしながらも,家庭内の介抱は女性の力によることが多いことを示し,女子教育の大切さや介護者の炊飯の手間を削る「炊飯会社」の設立を力説している。


えぐち・しげゆき氏
1977年東大医学部卒。長浜赤十字病院,都立豊島病院を経て,94年から東京武蔵野病院精神科医。2009年より現職。卒後,憑依事例についてまとめた論文を,91年,クラインマンが創刊した『Culture, Medicine and Psychiatry』誌に投稿する。医療人類学や文化精神医学,精神医学史から現代医療の問題を解決するヒントが得られると考え,医療と人間科学の統合をテーマに臨床に当たる。著書・共訳書に『シャルコー』(勉誠出版),『病いの語り』(誠信書房),『精神医学を再考する』『精神医学歴史事典』(みすず書房),『マッド・トラベラーズ』(岩波書店)など多数。

ひがし・めぐみ氏
1981年日大医学部附属看護専門学校卒。2002年日赤看護大大学院修士課程看護学研究科修了。東埼玉総合病院看護科長,駿河台日大病院教育担当責任者などを経て,14年より現職。06年慢性疾患看護専門看護師,10年に認定看護管理者の認定を受ける。専門は糖尿病看護。著書に『看護リフレクション入門』(ライフサポート社),『進化する慢性病看護』(看護の科学社)など。09~12年,慢性疾患看護専門看護師研究会代表。日本慢性看護学会理事。18年7月14~15日開催の第12回日本慢性看護学会学術集会では会長を務める。

やすかた・ふみこ氏
1978年自衛隊中央病院附属高等看護学院卒業後,自衛隊中央病院に勤務。85年千葉大看護学部卒。87年同大大学院修士課程(看護教育学専攻)修了。97年東大大学院にて博士号取得(保健学)。岡山県立大教授,岡山大教授,福岡県立大教授・学部長・理事を歴任し,2015年より現職。専門は看護学実習教育の授業展開方法,特に教材化の問題と糖尿病患者に対する自己効力理論を適用した教育プログラム開発研究。著書に『経験型実習教育』(医学書院)など。日本慢性看護学会理事,日本教師学学会理事,国際ケアリング学会副理事長など役職多数。