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医学界新聞

インタビュー

2013.07.08

【シリーズ】

この先生に会いたい!!

自分の可能性を発見するために,
外の世界に“寄り道”しよう!

齋藤 昭彦氏
(新潟大学大学院教授・小児科学)
に聞く

<聞き手>古賀俊介さん
(筑波大学医学群医学類6年生)


 日本人初の米国小児感染症専門医である齋藤昭彦氏。13年間に及ぶ米国での臨床医・研究者としてのキャリアを経て,帰国後は日本小児科学会が初めて発表した予防接種スケジュールの作成にかかわるなど,小児感染症分野のエキスパートとして活躍されています。米国と日本の文化や制度の違いを乗り越えてキャリアを積み重ねてきた氏が,いま若手医療者に期待することとは――? 医学生の古賀俊介さんが,齋藤氏のもとを訪ねました。


古賀 先生が小児科医を志したのはいつごろでしょう。

齋藤 医学部に入ったころからですね。もともとは小学生のときに素晴らしい担任の先生に出会い,小学校の教員になりたいと思っていました。それが,高校生になると生物の勉強がとてもおもしろく,生物学者に憧れた時期もあって,進路を決めるころになると“生物”としての人間を対象にする医学を勉強したいと強く思うようになっていました。小学校の先生になりたかったという夢とも相まって,大学入学後には小児科に進む希望を持っていたと思います。

古賀 小児科を志望する学生のなかには,子どもとうまくコミュニケーションをとれるか自信がない人もいます。先生はそのような不安は持っていませんでしたか。

齋藤 むしろその難しさが,実際に子どもを診る上での面白さではないでしょうか。子どもは嫌だったら「イヤ」って言うし,お世辞も言わない。嘘もつかないし,極めて純粋ですよね。

 それに,この先,数十年も生きていく子どもたちを診ることは,未来の社会を支えることにつながります。社会の財産であり,これから活躍していく子どもたちを育む手助けができるというのは,小児科医だけが感じられる仕事のやりがいでしょう。

“無力感”がモチベーションに

古賀 米国への留学は学生時代から考えていたのですか。

齋藤 ええ。大学生のときにニューヨークに住んでいる親戚の家を訪ねたことがきっかけで,そのころから米国で研究,あわよくば臨床をしてみたいという漠然とした夢を持っていました。そのためには英語は必須ですから一生懸命自分なりに勉強していましたし,USMLE(米国医師国家試験)を意識しながら問題集を解いたりもしていましたね。ただ,共通の目標を持った人が周りにほとんどいなかったので,とにかく一人で悩む毎日でした。

古賀 渡米を決意されたターニングポイントは何だったのでしょうか。

齋藤 留学を決めた当時,私は聖路加国際病院の小児科レジデントをしていて,主に血液腫瘍疾患を持つ子どもたちを診ていました。治療中の子どもは免疫が低下し,重篤な感染症にかかりやすく,なかには感染症がきっかけで命を落とす子どももいました。

 ちょうどそのころに,成人の米国感染症専門医である青木眞先生が帰国され,聖路加の内科に赴任されました。そのとき私は,移植後の原因不明の発熱に苦しむ子どもを担当しており,どうしても解決できなかったことから,すぐに先生に相談しました。すると青木先生から,アセスメントの不十分さを指摘され,厳しいお叱りを受けたのです。とてもショックでしたが,自分を奮い立たせるきっかけになり,それから青木先生の指導を受けるうちに,小児感染症をもっと勉強したいと思うようになりました。米国で臨床のトレーニング経験があった聖路加の松井征男先生や小児科の先生たちの後押しもあって,当時すでに小児感染症がサブスペシャリティとして確立されていた米国への留学を決意したのです。

古賀 学生の立場からすると,大学などの小児科では先天性の心疾患や血液腫瘍などの領域が主流であるようにみえるのですが,当時まだ日本では関心が低かった小児感染症の道にあえて進むことに,ためらいはありませんでしたか。

齋藤 全くなかったですね。確かに日本に戻ってからの職探しを考えれば,あまりよい選択ではなかったのかもしれませんが,感染症で患者さんを亡くしたときの無力感が,この道に進む強いモチベーションになりました。

寄り道のススメ

古賀 米国では,研究員を2年間,レジデントとクリニカルフェローを3年間ずつ,さらに指導医として5年間勤め,合計13年間も活動されたそうですね。

齋藤 最初から長くいると決めていたわけではありませんでした。渡米後,最初は無給研究員という立場だったのですが,渡米前に貯めたお金も徐々に減ってきて,帰国するかどうかの決断を迫られたとき,「まだまだ米国で学ぶことがあるのに,今の状態で日本に戻るのはもったいない」と思ったのです。でも,無給のままでは米国で生活できません。そこで初めて,日本の医師免許を持っていても米国では何もできないことを痛感しました。米国で生き残るために何ができるかを真剣に考え,資格を取らなければと思い,仕事をしながら本格的にUSMLEの勉強を始めたのです。

古賀 米国でキャリアを積もうと考えられたのは,実際に現地で生活し始めてからだったのですね。

齋藤 ええ。数か月,がむしゃらに勉強し,なんとか試験をパスして,海外の医師が米国で臨床医として働くための免許であるECFMG Certificationを取得しました。そのとき,「これでなんとか米国でもやっていける」と安堵したと同時に,「これだけつらい時期を乗り越えたのだから,簡単には日本に帰れないな」という意識も芽生えたのです。それまで米国に長く留まることを考えていなかった反動でしょうか。結局13年間も米国にいることになりました。

 もし,あのとき日本に帰国していたら,その後の米国での素晴らしい経験ができなかったと考えると,お金がなくてつらくても米国に残る選択をして本当に良かったと思いますね。

古賀 最近では,海外留学によって自分のキャリアにブランクが生じることを気にする学生も多いと聞きます。先生の場合はいかがでしたか。

齋藤 キャリアについては特に気にしていませんでしたね。私の場合,渡米してすぐは無給であったがゆえに,研究員として果たすべき義務は限られていましたから,英語を学びつつ,何か次につながるきっかけが得られればいいなというような軽い考えで留学しました。

 それに,当時の日本の研修システムに,あまり魅力を感じていませんでした。学生時代に卒後の研修先を探した際,ある大学病院に「他の病院で3-4年研修してから,大学病院に入ることはできるか」と問い合わせたところ,「最初から研修医として勤めていなければ認めない」と言われてしまったのです。これには,唖然としました。

古賀 当時は今ほど多様なキャリアモデルが存在しなかったのですね。

齋藤 そのころは,大学病院に入るのが当たり前で,大学の組織に残らないのは,変わり者とされる時代でした。今でも,できるだけ有名な病院や大学に勤めてキャリアを積むのが最善の方法と考える人もいるのかもしれませんが,私はもっと冒険してほしいと思っています。数年間の寄り道は医師としてのキャリアにまったく支障なく,むしろさまざまな自分の可能性を発見できる大切な過程ではないでしょうか。そのためには研修医だけでなく,学生のうちから積極的に寄り道をしてほしいですね。

“土台”を築いた厳しい研修生活

古賀 ECFMGを取得したあとは,どのようにして米国でレジデントになられたのでしょう。

齋藤 いまのようにインターネットで情報が得られる時代ではなかったので,レジデントになるのも一苦労でした。日本の医学部のカリキュラムはカリフォルニア州の基準に適合しないと言われて,その調整に奔走しましたし,当時は外国の大学を出た医師ということでいろいろな洗礼を受け,辛い思いもしました。インタビュー(面接試験)の準備にも,かなりの時間をかけましたね。そのころのことは,2001年に連載していた「これから始めるアメリカ臨床留学」に書いています()。

 最終的には,米国最大の研修病院である南カリフォルニア大(USC)のカウンティ・ホスピタルのレジデントとして採用されることが決まりました。

古賀 カウンティ・ホスピタルというのは?

齋藤 主に,保険を持たない患者を対象にした郡の病院です。非常に忙しく厳しい環境の病院なので,他の一流大学のプログラムに比べると難易度は下がるのですが,本物の実践的な医療を体験したいという熱意ある若手医師が,レジデントとして全米・全世界から集まり,切磋琢磨していました。

古賀 どれぐらい忙しかったのですか。

齋藤 小児科だけで 1日当たり平均15-20人,多いときは25人の患者が入院してきます。患者数が圧倒的に多い上,シニアのレジデントになると入院患者全員を診て,チャートを書いて,さらに医学生と初期研修医の指導も行いながら,患者の診療にあたります。そして翌朝,プログラムディレクターが前日の入院患者リストから気になる患者をピックアップして,その場での精細なアセスメントと治療方針の提示を求めてくるのです。

古賀 それだけの数の患者さんをすべて把握しなければならないなんて,想像を絶します。

齋藤 しかもそのプログラムディレクターが大変厳しい先生で,問診と身体所見からのアセスメントに少しでも矛盾があったり,アセスメントと異なる治療をしていたりすると,ものすごく怒られました。

古賀 やはり基本を徹底的に指導されるのですね。

齋藤 そうですね。問診と身体所見から鑑別診断を考え,そして必要な検査をして診断,治療に結び付けることができるか,その思考過程を徹底的に教え込まれます。日本の臨床研修では,検査偏重で問診や身体所見が軽視されることがしばしば問題にされていますが,ここではまさに医師の“土台”が繰り返し教育されるのです。

古賀 それほど厳しいトレーニングを,3年間も続けられたのですね。

齋藤 つらかったですよ。当時は本当に嫌で,こんなプログラム早く出ていってやると毎日思っていました(笑)。ですが,最後の卒業パーティーで,プログラムディレクターが私のことを初めて褒めてくれたのです。「最初は英語すらおぼつかなかったのに,すごく頑張って小児感染症の一流のフェローシッププログラムに入った。よくやった」と。

 今だからわかるのですが,苦労は若いときにしかできない貴重なもの。指導者の厳しさも,そのときにしか受けられないものです。振り返ってみると,今の自分の医師としての基礎を築くのに,なくてはならない経験だったと思います。

写真 厳しい指導を受けたUSCのプログラムディレクター,Lawrence Opas氏とのレジデント修了時の一枚。医師としての土台形成と同時に,英語“で”学ぶ素晴らしい体験ができた。

立場を変えて,社会を変える

古賀 帰国後は,日本人初の米国小児感染症専門医として,さまざまな制度整備に携わっていらっしゃいますね。

齋藤 国立成育医療研究センターでは,感染症科の立ち上げや,感染症コンサルテーションのシステムの確立,抗菌薬管理プログラムの導入など,自らがリーダーとなって日本でやりたかった仕事を,周りの方々の協力をたくさんいただきながら実現してきました。また,日本小児科学会初の予防接種スケジュールを発表できたことも,大きな進歩だったと思います。

古賀 新潟大に移られたのには,何かお考えがあったのでしょうか。

齋藤 今までの私の進路はすべてそうでしたが,自分が必要とされている場所で仕事をすることほど,幸せなことはありません。学生の若いエネルギーがあふれる大学で,しかも多くの若手医師が集まることで有名な新潟大の小児科で仕事ができることは,自分のさらなる可能性を発揮できる機会だと思いました。また,今後検討していかなくてはならない現行制度等の変革に携わる際には,今の立場のほうが学会活動などを通じてより積極的にかかわることができるとも考えました。

古賀 社会を変えるためには,立場も非常に重要なのですね。先生が今のお立場になってから抱いている夢を教えてください。

齋藤 日本の小児感染症診療を世界標準のレベルに近づけたいと考えています。学会や,私が代表を務める日本感染症教育研究会(IDATEN)などの活動を継続的に行っていきたいと思います。それから,小児感染症を一つのサブスペシャリティとして日本で確立させるのにも尽力したい。それが,これからの私の使命だと考えています。そのためには,現状に満足せず,常に新しいことにチャレンジしていきたいですね。

外へ飛び立とう!

齋藤 また,教育者としての夢もあります。それは,若手を教育し,待ったなしのグローバル化に対応できる人材を,たくさん育成することです。私が米国で心に刻まれる臨床教育を受けたように,海外でのさまざまな経験は若いみなさんに素晴らしい刺激を与えてくれるでしょう。

 特に医学生には,時間を有効に使えるうちに,もっと外の世界を見てもらいたいですね。自分の大学内だけではなく,できるだけ外へ――学外へ,国外へと目を向けてほしい。外にはいろいろな文化・宗教・生き方があって,もちろん医療もさまざまです。自分とは異なるものをたくさん見て,自分の立ち位置を問い直す経験を積んでほしいと思います。

古賀 海外に行くためには,英語も欠かせませんね。

齋藤 ええ。英語“を”勉強するのではなく,英語“で”勉強する習慣も,学生のうちから身につけてほしいと思います。残念ながら,英語力は日本の医学生,若手医師の非常に弱い部分ではありますが,海外留学やUSMLEの合格をめざすためにはもちろん,臨床現場で最新の知見を得たり学会発表するためにも絶対に必要となる能力です。学生時代から真剣に取り組んでもらいたいですね。

 さらに,研修医の方には,“考える医師”になっていただきたい。問診,身体所見から鑑別診断を確実に挙げ,必要な検査を行い,アセスメントし,診断とその治療に結び付けるトレーニングを積んでほしいですね。

 持論ですが,医師としての基礎は,最初の3-4年ぐらいで決まってしまうように思います。その短い期間に良いトレーニングを受けるためには,環境も大事。やる気のある人は,ぜひ米国での臨床研修にもチャレンジしてほしいと思います。

インタビューを終えて

 小児感染症のパイオニアである齋藤先生とお会いし,明るいお人柄の印象と同時に,強いエネルギーを感じました。「日本の小児感染症を世界標準レベルに高め,サブスペシャリティとして日本で確立させることが使命だ」とおっしゃる言葉からも,確固たる意志が感じられました。きっかけはどこに転がっているかわかりません。そのきっかけを逃さずしっかりととらえ,着実にその道で結果を出してこられたからこそ,今の先生があるのだと思います。

 「若いうちから世界に出て,多様な医療を自分の目で見て感じ,自分がめざす医療を見つめ直そう」という強いメッセージをいただき,私も先生のように,いくつになっても情熱を燃やし続け,エネルギーを注ぎ続ける医療者でありたいと思います。

(古賀俊介)

(了)

:『週刊医学界新聞』連載「これから始めるアメリカ臨床留学――第8回インタビュー(面接試験)への対応,準備」,2001年11月19日発行,第2462号


齋藤昭彦氏
1991年新潟大医学部卒。聖路加国際病院小児科レジデントを経て95年渡米。ハーバーUCLAメディカルセンター・アレルギー臨床免疫部門リサーチフェロー,南カリフォルニア大小児科レジデント,カリフォルニア大サンディエゴ校(UCSD)小児感染症科クリニカルフェロー・講師・アシスタントプロフェッサーを経て,2008年国立成育医療研究センター感染症科医長,11年8月より現職。日本人として初めて米国小児科学会認定小児感染症専門医を取得。現在でも,米国の大学のアポイントメントを持ちながら,日本と米国での研究・教育・臨床面でさまざまな活動をしている。

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