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第2767号 2008年2月4日


【寄稿】

阪神淡路大震災を振り返って
医療従事者に今,伝えたいこと

吉田 茂(名古屋大学医学部附属病院医療経営管理部准教授)


 13年前の1月17日,兵庫県南部で起きた大地震のことを思い出す人は,地元以外では少なくなったことでしょう。その後,日本の各地で比較的大きな地震災害が発生したこともあり,あの阪神淡路大震災の衝撃的な記憶も薄れがちなのかもしれません。しかしながら,当時,神戸市中央区の病院で震度7を経験した者にとっては,今もなお,鮮明に脳裏に焼きついており,おそらく一生涯消えることのない記憶でしょう。

 名古屋市の位置する東海地区では,東海地震の不安を抱えていることもあり,災害医療に対する関心は比較的高いと言えます。私も何度か災害医療の専門家の講演を聞きましたが,いつも何か心に引っかかるものを感じてしまいます。その理由は,被災地で災害医療を行い被災者を助けることと,医療従事者自身が被災者となることのアンビバレントな状況が語られていないからだと最近になって気付きました。

 そこで本稿では,私の周りで見聞きした被災医療従事者の風景を語り,若干の提言をしたいと思います。もし同じような状況に陥った場合,皆さんが医療従事者としてどのような行動を取るべきかを考える一助になれば幸いです。

医師の場合

 神戸市垂水区のA医師の自宅は一部損壊でした。居間のテレビが反対側の壁際まで移動し,部屋の照明器具もコードがちぎれて吹っ飛んでいました。着の身着のままで外に出ましたがエレベーターが動いておらず,階段に行列ができていました。毛布に包んで抱っこしていた末っ子は歯をガタガタ震わせていました。雪が降るくらい寒い季節の明け方ですから無理もありません。地震直後,A医師の頭の中には勤務先の神戸市中央区の病院のことはありませんでした。しかし,落ち着いてくると,NICUの入院患者が心配になり,居ても立ってもいられなくなりました。こんな大変な時にも家族を放っておいて病院に向かうのかと言いたげな妻と子供たちを妻の実家に託して,彼は病院へ向かいました。

 結局,その日からA医師は1か月間,病院に泊まり込みました。携帯電話もない頃で,最初の3日間は,避難所を転々としていた家族と連絡が取れず,子供を3人抱えた妻がどうやって水や食料を確保していたのか知る由もありませんでした。

看護師の場合

 Bさん(3年目)は,自宅で足の不自由な母親と二人で暮らしていました。震災時,彼女は夜勤だったため直後の大混乱に見舞われ,母親の安否を気遣いながらも患者対応に追われました。連絡が取れて母親の安全を確かめられたのはずいぶんと後になってからでした。大きな余震が続く中,建物が倒壊すればまず間違いなく下敷きになるであろう母親を自宅に独り残してBさんは病院で働いていたのです。

 Cさん(新人)は,たまたま大阪の実家に帰省していて難を免れました。彼女の両親にとっては,この偶然を神様に感謝したことでしょう。Cさん自身は,同期の新人や先輩看護師が頑張っている被災地の病院にすぐ戻るつもりだったと思います。しかし,次の日もその次の日も1週間経っても彼女は被災地には帰ってきませんでした。結局,しばらくたって被災地が落ち着きを取り戻した頃に帰ってきたCさんを待ち構えていたのは,周囲の冷たい視線でした。

 二児の母として夫の両親と同居していたDさん(病棟師長)は,病院からやや離れた郊外に住んでいました。そこの被害は軽くてすんだのですが,子供を残して仕事へ向かうことは家族がなかなか許してくれなかったようです。ほかにも同様の立場にあった師長,主任クラスの方が結構いました。たまたま,師長,主任ともに震災直後に出てこられなかった病棟では若手の不満が爆発して,3月末には大量の退職者を出すことになりました。

看護学生の場合

 病院から徒歩で数分のところに併設の高等看護学校の校舎と学生寮がありました。震災直後,寮の学生たちは寒さと恐怖で震えながらも病院にいち早く駆けつけて,健気にも救護活動を手伝ったという武勇伝が残っています。しかし,二十歳前後で親元を離れて神戸の学生寮で暮らしていた彼女たちの本音はどうだったでしょうか。以下は当時の看護学生の手記の抜粋です。

 「廊下にうずくまって泣いてる子がいたり,何人かでかたまっていたり。階段の電気もなく,真っ暗闇で,コンクリートのかけらがたくさん落ちていました。1階に着くと,ガスのにおいが充満していました。寮生数人が傘立てでガラスを割って外に出ました。外に出てビックリ! 隣の自動車展示場の1階部分が押しつぶされて車は全部ぺっちゃんこ。辺りを見渡すと,そこら中で火の手が上がって,地面には亀裂が走って,電信柱は倒れてる。とりあえず人数確認をして,新しく建て直されたばかりの病院に行こうということになりました。あそこだったら大丈夫だろうとみんなが思っていました。道路の亀裂を避け,火の手を避けながら病院にたどり着いて,呆然としました。電気は点いていないし,1階は水浸しでした。自家発電とか非常時の病院機能に期待していたので,ショックは大きかったです。でもそんなことを言っている間もなく,病院の中から患者さんが運び出されてきました。やがて,夜が明けてきて,いろいろなところから怪我をしている人たちが運ばれてきて,駐車場は患者さんでいっぱいになりました。私たちは何ができるっていうわけではなかったのですが,何かを手伝いに散らばりました。みんなパジャマのままで。でも,その時寒かったっていう記憶はありません。どういうことをしたか,何ができたのか,その時の記憶はまったくないです……」

大災害時の病院の役割

 病院は医療を行う場所という常識は,大災害時には意味を成しません。地震直後から,近隣住民が多数,病院に押し寄せて来ました。雨や寒さをしのげ,体を横たえることのできる場所は貴重なのです。ましてや,病院には自分たちを助けてくれるという期待感を持っています。水や食料を期待する人たちもいます。外来ホールなど1階部分はあっという間に毛布を敷き詰めて簡易避難所になりました。病棟部分には立ち入らないでくださいと言っても,そのうち,病院内のいたるところに避難者がうろつくようになります。治安の悪化が懸念されたため,正式な避難所への移動を求めようと提案したところ,一人の医師が猛烈に抗議しました。「どこの避難所もいっぱいで,環境もよくない。病院から追い出されたら行くところがない人もいる」というのです。実は,その医師の自宅も全壊で家族は避難所生活を強いられていたのでした。

被災地の医療従事者のあり方

 被災地の医療従事者は,決して使命感で動くべきではありません。阪神淡路大震災ではさまざまな住民がお互いに助け合いました。初期救急活動は,一般住民の力が非常に大きかったと言われています。その中で同じ被災者としての助け合いの一環として,医療従事者は自らの持てる医療の知識,技術を被災患者に提供するという姿勢が自然だと思います。決して,自分や家族を犠牲にして,義務感や使命感で行動するべきではないでしょう。しかも最初の3日間程度でよいのです。3日経てば被災地外から医療救援隊が来ます。来なければいけません。あとは彼らに任せて,被災者としての自分たちの生活を立て直しましょう。次に医療現場に戻れた時に通常の医療活動としてフルに働けばよいのです。

被災地内外の医療資源の再分配

 震災後1週間を過ぎると,次第に被災患者は被災地外の医療機関へ移り,さらには被災地の居住人口そのものが激減したため,被災地での医療需要は減少しました。特に子供たちはまっ先に安全な場所へ移送されたため,被災地の小児人口は限りなくゼロに近づき,避難所にも子供の姿を見かけることはなくなりました。逆にその頃,被災地周辺の医療機関(特に小児科)は未曾有の患者増加で悲鳴を上げていたようです。

 医療機器も同様で,被災地周辺の医療機関で人工呼吸器などが不足していた時に,被災地の機能停止した病院には多くの医療機器が眠っていました。 これらの人的資源,物的資源を流動的にうまく活用する仕組みがあれば非常に有用だと思います。

 

 最後に,阪神淡路大震災で亡くなられた多くの方々のご冥福を祈るとともに,震災後,人生が大きく変わってしまった方々に再び幸せが訪れることを心より祈念いたします。


吉田茂氏
1987年神戸大医学部卒。小児科を専攻し,いくつかの病院小児科勤務を経て,95年1月17日,神戸市中央区の病院に勤務していた時に阪神淡路大震災を体験する。2004年8月より現職。情報管理室長とクリニカルパス委員長を兼務し,医療の質の標準化,チーム医療の推進を目指した診療体制作りに奔走している。現在も週に1日は小児科医として臨床を続けている。