医学書院

検索
HOME週刊医学界新聞 > 第2747号 2007年09月10日

 

第2747号 2007年9月10日


名郷直樹の研修センター長日記

44R

人生は重荷を負うて

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院 臨床研修センター長


前回2743号

△月××日

 新幹線で都心の辺境から辺境の都心へと向かう途中のこと。停車駅近くで減速中に,ワゴンサービスの女性が加速度に抗して,後方へとワゴンを進めていた。腕を突っ張って,足を踏ん張って,下を向いて。そしてちょうど私の席に近づいたところで,下を向いた顔が一瞬上を向いたときの彼女の表情がちらりと見える。笑っているのだ。それだけのことなのだが,数珠繋ぎになって,いろいろなことが思い出される。

 

 「今日は堂本さんのお引越しです」 そんな印象的なフレーズで始まる小説のことを思い出した。どんな脈絡なのか,さっぱりわからないが。小学校低学年のころだろうか。妙にその最初のフレーズだけが頭にこびりついている。ここでの引越しは,自分でリアカーを引っ張ってやるような引越しだ,多分。それがなんとも楽しそうなことを予感させる始まり。そして,確かこの小説の題名は「坂道」だったような気がする。あとの内容はさっぱり思い出せない。でも冒頭の部分を思い出した理由が,自分でも少しはわかる。先の新幹線で見た光景となんとなく似た光景なのだ。

 先の女性は加速度に逆らってワゴンを押し,小説の主人公は坂道に抗してリアカーを引っ張る。彼女は一瞬にっこり笑い顔を見せ,引越しはなんだか楽しそうだ。

 

 「人生は重荷を負うて,遠き道を行くが如し」,そんな人生,誰も歩みたくない。誰もと言うことはないか。でも,少なくとも私はいやだ。徳川家康というのは只者ではないな。まあ当たり前か。しかし,私は,徳川家康でなく,ワゴンサービスの女性であり,堂本さんなのだ。売れるほどに荷物が軽くなるワゴンサービス,これから荷物を降ろしにいく途中の引越し。そして多分,リアカーに一杯分の荷物以外はすべて捨てられたのだ。

 

 さらに脈絡なく思い出す。晴れて大学に合格し,家を遠く離れての寮生活。大学の寮へ荷物を運び入れたときのこと。ダンボール数個の荷物があっという間に整理され,備え付けのベッドに仰向けに寝転んだときのこと。運んできた荷物の少なさと,捨ててきた荷物の多さ。「人生は重荷を捨てて」である。重荷を負えるひとなんてそうはいない。ゆえにワゴンサービスの女性はいろいろ売れるとうれしくなる。これまでの荷物の大部分を捨て,残ったわずかばかりの荷物を降ろす引越しは楽しい。

 しかし,あのときベッドに寝転がって,天井を眺めながら,いったいどんな気持ちだったのだろう。すっきりした気持ち? ちょっと違うような気がする。うそがばれたときのバツの悪さとすっきりさ。そんな感じだろうか。うそがばれたときには,その2つが同時にある。でもそのときの気持ちは,うそがばれたときのほんの少しのバツの悪さと,大部分はすがすがしさだ。自分のやりたいこと,別に医者になりたいなんてことじゃない。一人暮らしがしたい,家を離れたい,それだけのこと。一人暮らしがしたいということを100とすれば,医師になりたいなんてのは1くらいだった。でもその一人暮らしの100を意識していないから,医師になりたい1の気持ちでも,十分なりたいということだと勘違いする。医師になりたいなんて,ほとんどうそ。でもそのうそがばれてよかった。

 うそがばれたのはいいが,ばれたまま医者になってしまった。へき地勤務という義務があったし,別にそれほどいやでもなかったし。でも,むしろこれまではそれがいい影響を及ぼした。こういう医師になりたい,そんなことがなかったからこそ,いろいろなことを乗り越えることができた。どうしても外科医になりたい,そう思っていたら挫けていたに違いないし,どうしてもへき地医療をやりたいという場合も,現実と理想のギャップに押しつぶされていたかもしれない。医師になりたいなんてのはうそだった,こっちがいい加減なんだから,そうそう文句を言っている場合じゃない。それなりにがんばらないと,そんなふうに思うことができた。自分のいい加減さとへき地勤務の義務が勝手にうまくかみ合って,なんだか道が開けてきた。

 再び,新幹線のワゴンサービスの女性の笑顔がフラッシュバックする。その笑顔の意味は。何でこんなことが妙に記憶に残るのだろう――そんなことを考えるからだめなんだ。あの笑顔が,堂本さんの引越しや,自分自身の引越し,それからのいろいろを数珠繋ぎに引き出してくれた。しばらく眠っていた,あるいは一度も起きたことのない自分の中の何か――無意識といってもいいかもしれないが――を呼び覚ました。重要なのは,そのことだ。

 

 しかし,そうそううまくはいかないのである。気がつけば大学卒業後20年が過ぎて,知らないうちにとてつもなく荷物が増えている。堂本さんの引越しのように,もう一度リアカーに一杯くらいの荷物にして出直すか。ついこの前も出直したばかりだが。

次回につづく


本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。
連載一覧