末梢神経外科×神経科学 Brain Science Based Hand Surgery
なぜ再建しても機能は回復しないのか
「手術は成功したのに動かない」――脳機能の変化という視点から手外科を読み解く
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「手術は成功し治療は上手くいった。でも思いどおりに動かない」整形外科診療の最大のテーマを、手外科・末梢神経外科のエキスパートが「末梢神経障害は脳機能の変化が引き起こす」とする視点から解きほぐす。筆者の豊富な臨床経験を脳機能の変化から捉え直し、胎生期から老年期まで人生の各ステージにおける最適な治療のヒントを丁寧に解説する。整形外科疾患の機能回復に、脳の再学習と運動器システム制御が大きな役割を果たす。
| 著 | 平田 仁 |
|---|---|
| 発行 | 2026年04月判型:B5頁:216 |
| ISBN | 978-4-260-06537-5 |
| 定価 | 13,200円 (本体12,000円+税) |
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序文
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序
私が医学部を卒業した当時,医学教育は座学中心であり,新医師臨床研修制度やクリニカルクラークシップのような実践的教育はまだ存在していませんでした.いわゆるポリクリと呼ばれた臨床実習を通して多様な医学のありかたに触れるなかで,私は外科医,とりわけ単に病巣を切除するのではなく,組織再生や機能回復を促す外科医を志すようになり,整形外科学講座の門を叩きました.
なかでも微小血管や神経を操作し,移植医療にもつながる手外科領域に強く惹かれ,大学病院に身を置いて上肢難治障害の治療に携わる一方,末梢神経や再生医療の研究に没頭しました.そうした臨床と研究の日々を通して,「身体には障害を克服するための多様な内在機構が備わっており,手術とは再生や機能回復を後押しする行為にすぎない」という理解に至りました.外科医としてさらなる高みを目指すには,再生や機能回復を支える内在機構そのものに精通する必要がある──この認識が,私の思考の軸となりました.
この視点から今日の整形外科を俯瞰すると,残念ながら大きな欠落があることに気づかされます.日本整形外科学会は整形外科を「運動器の疾病・外傷に対して,その病態の解明と治療法の開発および診療を行う専門領域」と定義しています.しかし,その実践には運動器の複雑な構造を理解するだけでは不十分であり,それらがシステムとしてどのように統合制御されているかを理解することが不可欠です.
人体は約600の骨格筋によって200以上の関節を制御する,きわめて複雑な運動器システムです.二足歩行によって上肢を解放し,高度な知性と巧緻な手を獲得することで,人類は環境に働きかけ,文明を築いてきました.その代償として運動器は常に高い障害リスクに晒されていますが,それに対処するため,人体は工学でいう「システム制御」に相当する高度な内在機構を備えています.それにもかかわらず,現代の整形外科にはこの視点が決定的に不足しているように思われます.
この問題を,整形外科医であれば誰もが知る神経生理学の知識を用いて考えてみましょう.ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックでは,日本選手団が大活躍しました.なかでも,硬く複雑なコブやトリッキーなジャンプ台を,秒速10mを超える速度で滑走するモーグル競技は,運動器制御の極致を示す競技の1つです.選手に話を聞くと,白銀の世界では視覚はほとんど役に立たず,研ぎ澄まされた固有感覚や平衡感覚を頼りに全身を制御しているといいます.
しかし,神経の情報伝達速度は最も速いAα線維でも約70m/秒にすぎず,皮膚や関節の機械受容器からの情報が視床に到達するまでに約40msの遅れが生じます.これらの情報が大脳皮質で分析され,小脳や前庭器官からの情報と統合され,意識に上がるまでには100~400msを要します.その間にスキー板は7~28mも進んでしまいます.すなわち,「感覚に応じて運動を制御する」というフィードバック制御だけでは,モーグル選手の卓越した運動制御を説明できないのです.
さらに,極寒環境での激しい運動には,自律神経系による体温・循環調節が不可欠ですが,自律神経の伝導速度は秒速1m程度ときわめて遅く,末梢神経伝導は低温下で著しく低下します.それにもかかわらず,選手の身体はこれらの制約を克服し,破綻なく機能しています.この事実は,運動器制御が単純な感覚-運動の往復ではなく,より高度な予測的および階層的制御に基づいていることを示唆しています.
筋骨格制御の観点からみても,ヒトの運動器は特異です.ロボットの関節が単軸モーターによる回転制御であるのに対し,ヒトの膝関節は12の骨格筋による多軸・可変的な複合制御系です.人体は関節・筋・神経のすべてにおいて過剰ともいえる自由度をもち,ニコライ・ベルンシュタインが「自由度問題」と呼んだ制御の難しさを内包しています.しかしこの自由度こそが,障害を克服し,機能を再編成するための内在機構として重要な役割を果たしているのです.
私は,整形外科のさらなる発展には運動器システム制御の視点が不可欠であり,その理解には従来の整形外科テキストがほとんど扱ってこなかった中枢神経系,さらには神経系と連動する免疫・内分泌系の知識が欠かせないと考えています.そこで本書では,整形外科医に馴染みの深い末梢神経外科を切り口として,運動器システム制御を理解するために必要な知識を整理しました.
本書を通して伝えたい最も重要なメッセージは,「運動器システム制御は中枢神経系,とりわけ脳の発達や退化の影響を強く受けており,これを考慮せずに運動器機能を理解することはできない」という1点にあります.
本書では,その問題を整形外科医に最も馴染みの深い末梢神経外科・手外科の領域を切り口として論じました.しかしながら,この視点は決して手外科に限られるものではありません.脊椎・脊髄疾患,運動器疼痛,関節疾患,外傷後の機能障害など,整形外科医が扱う多くの病態もまた,脳を中心とした運動器システム制御という観点から再検討することで,新たな理解と治療戦略が見えてくる可能性があります.本書が,同じ問題意識を共有する運動器疾患の専門家を1人でも増やし,整形外科診療に新たな視座と変革をもたらす契機となることを,心より願っています.
最後に,本書の執筆にあたり,多大なるご支援とご示唆を賜りました多くの方々に心より感謝申し上げます.
とりわけ,名古屋大学医学部特任教授 下田真吾先生には,15年以上にわたり共同研究を重ねていただきました.先生は日本を代表するロボティクス研究者であり,卓越した動的運動機能解析技術を通じて,従来の手法ではとらえることが困難であった,患者の意識に上がることなく進行する身体制御の過程を見事に定量化してくださいました.その高精度な動的運動解析は,本書で展開した運動器システム制御の理解に決定的な基盤を与えるものであり,私にとって計り知れない学術的刺激と示唆をもたらしてくださいました.
また,名古屋大学医学部 脳とこころの研究センター教授 寳珠山 稔先生には,脳波計,脳磁計,さらには機能的MRIなど多彩な手法を用いて,中枢神経系において進行する構造的・機能的変化を可視化していただきました.整形外科の臨床現場で抱いてきた問いを,神経科学的に裏づけ,立体的に理解することができたのは,先生の深い専門性と惜しみないご協力のおかげにほかなりません.
10年を超えるお二人との共同研究がなければ,本書の執筆は実現しえなかったであろうと感じております.そしてまた,「Brain Science Based Orthopaedic Surgery」という新たな研究フロンティアを展望することも叶わなかったに違いありません.ここに改めて,深甚なる謝意を表します.
さらに,本書の出版にあたり格別のご尽力を賜りました医学書院の石井美香様にも,心より御礼申し上げます.従来の枠組みとは大きく異なる私の末梢神経外科への挑戦に対し,本書の執筆をご提案くださいました.折に触れて,時に大きく広がり過ぎてしまいがちな私の構想にも辛抱強く耳を傾けてくださり,的確な助言とともに温かく励ましてくれました.その継続的なご支援なくして,本書を世に送り出すことは叶わなかったであろうと感じております.ここに深く感謝の意を表します.
2026年3月
平田 仁
目次
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I 中枢神経の視点から再考する末梢神経外科
1 脳機能から末梢神経外科を再考する
末梢神経の異常と脳機能の変化が不可解な病態を引き起こす
CRPS患者の拘縮と運動制御異常
末梢神経系と中枢神経系の相互依存
手根管症候群が誘発する脳機能の変化
神経ネットワークを俯瞰して末梢神経科学の新たな地平線を切り拓く
Column|局所性ジストニア治療の新展開
2 末梢神経損傷の機能回復で何が起こっているのか
高次脳機能が関わる運動の制御・学習・記憶の仕組み
末梢神経修復とは中枢神経系に再学習させること
3 胎児期の末梢神経損傷
胎児期の末梢神経損傷の機能予後はなぜ成人より劣るのか
胎児期の末梢神経損傷の臨床像
[症例1] 先天性絞扼輪症候群による正中・尺骨・橈骨神経損傷
[症例2] 分娩2日前に受傷した医原性胎児期正中神経損傷
Column|先天性絞扼輪症候群に対する新たな治療法の登場
4 新生児期の末梢神経損傷
新生児期における末梢神経損傷の臨床像
Column|感覚の主観的評価法
腕神経叢分娩麻痺への脳の関与を示す臨床的エビデンス
[症例1] 節後不完全麻痺と長期回復
[症例2] 遅発性肩機能障害を伴うC5-6型麻痺
[症例3] 全型腕神経叢分娩麻痺と筋皮神経ブロックの役割
[症例4] Klumpke麻痺と機能再建
Column|腕神経叢分娩麻痺の外科的選択肢:メタ分析
5 小児期の末梢神経損傷
なぜ小児期の末梢神経損傷の治療成績は良好なのか
小児期における末梢神経損傷の臨床像
Column|脳の可塑性は臨界期を過ぎると大きく低下する
[症例1] 不用意なガラス片抜去により発生した医原性橈骨神経損傷
[症例2] 不用意な骨折整復操作により発生した医原性神経損傷
6 思春期の末梢神経損傷
思春期末梢神経損傷の臨床像
[症例1] 正中神経損傷を見落とされ,長期間放置された外傷性神経腫に対する外科的治療
[症例2] 腕神経叢分娩麻痺例で,骨折を契機に遅発性神経障害性疼痛を発症した例
[症例3] 長期経過後に実施した機能再建手術を契機に麻痺筋の回復が進行した肩甲上神経・腋窩神経損傷
7 医原性神経損傷から学ぶ成人期末梢神経損傷
なぜ医原性神経損傷を取り上げるのか
医原性神経損傷の臨床像
[症例1] 不用意な神経移行術による neurostenalgia
[症例2] 鏡視下手根管開放術に際して正中神経を完全切断された例
[症例3] 不適切な初期治療を受けた前腕レベルでの複数神経損傷
[症例4] リンパ節生検後に生じた肩の痛みと機能障害
[症例5] 医原性副神経損傷後に発症した局所性ジストニア
[症例6] 関節鏡下滑膜切除術に伴い発生した橈骨神経麻痺
[症例7] 軟部腫瘍切除後に呈した橈骨神経麻痺
[症例8] 紹介の大幅な遅れにより機能回復が遷延した医原性橈骨神経損傷
[症例9] 甲状腺乳頭がん切除術後に発生した腕神経叢損傷
II 脳の可塑性を支えるシステム神経科学
1 大脳皮質は末梢神経と呼応して発達する
胎生期における神経系発生の基本プロセス
2 予測符号化モデル
予測符号化モデル(PCM):脳は「予測機」
脳の階層構造と予測誤差の伝達
能動的内受容感覚予測
予測符号化モデルの応用と展望
3 脳は感覚を集めて再構築する
私たちの脳では感覚によって現実を再構築している
巧妙な感覚認知の仕組み
「touch & guess」
4 アロスタシス
Efficient designとは何か
ヒトのデザインを生み出した進化上の4つのエポック
5 エピソード記憶のメカニズム
エピソード記憶がなぜ重要なのか
エピソード記憶が形成される仕組み
「記憶痕跡」というメカニズム
6 巧緻運動の神経基盤
上肢制御の神経メカニズム:複雑な皮質ネットワークの関与を学ぶ
運動制御における主要な脳領域:視覚入力から皮質脊髄路への出力まで
高解像度の視覚認識のための戦略
「Direct cortico-motoneuronal pathway」により巧緻運動が生み出されている
手の巧緻性回復の経路は1つではない
小脳における運動学習の仕組み
小脳皮質の神経回路と長期抑圧
7 軸索発芽と脳の可塑性
軸索発芽による機能回復のメカニズム
小脳と連合野は2歳近くまで発達する
臨界期における神経ネットワークの変化
臨界期の終了とともに脳の可塑性は低下し,機能障害が遺残する
8 機能的ネットワークとグローバルネットワークの関係
脳機能マッピングの進化
rs-fMRIによる機能的パーセレーション技術の登場と発展
脳磁計による解析とfMRIの補完関係
機能的ネットワークとグローバルネットワーク
健康な加齢(healthy aging)に伴う脳ネットワークの変化
9 神経可塑性と systems neuroimmunology
神経可塑性の概念の変遷と多様性
発達段階による神経の違い
神経系と免疫系を統合的に扱う systems neuroimmunology
思春期の脳の臨界期と神経可塑性
10 恒常的神経可塑性
脳の学習能力とニューロンネットワーク
機能的神経可塑性と構造的神経可塑性の区別
Hebbの法則の限界と恒常的神経可塑性の重要性
恒常的神経可塑性は素朴な気づきをきっかけに発見された
ネットワークの恒常性は多段階で維持されている
恒常的神経可塑性と睡眠の関係
11 臨界期の再開と治療機会の窓
臨界期と構造的神経可塑性:plasticity brakeを止めれば臨界期は再開できる
なぜ脳の一部では構造的神経可塑性が維持されているのか:アロスタシスの視点から考える
神経損傷による臨界期の再開:免疫系と神経系の応答がカギ
構造的神経可塑性のリスク:不適応な可塑性の可能性
脳卒中後からの機能回復:「治療機会の窓」の存在を知る
索引




